夢枕獏と寺田克也の『十五夜物語』についての対談が再録されている。ギアナ高地を仲間たちと旅して、その最中にできたという「旅の絵本」だ。たまたま持っていた白紙の本 (ツカ見本か?) に夢枕獏が文章を書き、寺田克也がスケッチして、後からイラストとして仕上げた。
版元がハヤカワなので、S-F マガジンに対談が出ているわけで、本の内容としては SF とは言えない。けれども夢枕獏は SF 作家である。しかもデビューが SF 作家としてであって、キャリアの途中でたまたま SF っぽいものも書いた、というのではない。ということは、本質的に SF 作家なのだといえるのかもしれない。
で、それじゃ日本において、本質的に SF ってどういうものかって考えると、結構面白いんじゃないか。日本には時代小説があって、つまり過去を舞台にフィクションが展開される枠組みがあって、それで未来を舞台にするフィクションっていうのが馴染まない。その未来ってのが、発展する科学文明ときた日には、ますます馴染まない。
つまり日本では、サイエンス・フィクションは「フィクション」の方にウェイトがおかれている。この場合の「サイエンス」はいわゆる科学というより、何かの観念に向けられた抽象的なもの、ファンタジーの枠組み、といった感じがする。普通の児童文学と違い、大人の酔狂な本気を示す道具立てが用意されている、といったふうな。
そうすると、ギアナ高地のテーブルマウンテンへの旅という非日常は一つのフィクショナルな道具立てである、とも言える。夢枕獏はそのような道具立てを揃え、他の作品と同じように爆発的に物語を生み出してゆく。「旅」という実際の肉体的な移動のファクターが加わったことで、そこにさらなるスピード感が加わる。
対談で面白いのは、そのような旅のリアルから、現場ではむしろやや距離をおくようなスタンスをとろうとしたことだ。そして戻ってきてから、寺田克也がイラストを仕上げてゆくにあたって、旅の即興性を損なわないように注意を払う、といったバランス感覚だ。
このような絶妙なことが阿吽の呼吸でできるというのは、夢枕獏と寺田克也の二人が気のあった創作者だということに、きっと留まらない。そのときの旅の仲間すべてに、その旅の意味というか、大人の酔狂が目指す観念が共有されていたに違いない。それは物語を爆発的に生み出すことを可能にする観念でもあって、夢枕獏と寺田克也はその雰囲気の中での共同作業を楽しんだのだろう。旅の思い出を振り返る様子に、それは滲み出ている。
物語が生まれるかもしれない道具立てを、たまたま呼び寄せてしまうことこそ勘のよさであり、才能だろう。もちろん、そんなつもりが最初からあったわけではなく、本が出来なければ旅の意義が損なわれるというものでもない。けれども、そこにあった大人の酔狂もまた、物語を生む強い観念と無縁のものではなかったと、少なくとも「証明」はされたのではないか。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■