友だちの弘美に誘われて、アンナは弘美の会社主催のパーティに出かけた。平穏で退屈な生活に刺激が欲しかった。アンナは着飾り、自分の家に伝わる大切な日時計をネックレスにして出かけた。そしてパーティ会場で宝物をなくしてしまう。彼女の時間そのものである宝物を・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
毎日が同じことの繰り返しだった。
六時三十分にスマホのアラームが鳴るけど二、三分前に目が覚める。
温かいコーヒーを飲んで仕事へ行く支度をする。
七時四十分に家を出ないと遅刻するので、シャワーを浴びる時間、服を着る時間、メイクをする時間が決まっている。いつからか時計を見ずに時間にぴたりとその段取りを行うようになった。
仕事が終わると一日おきにスーパーに寄って買い物する。
家に帰って簡単なご飯を食べ、映画を見るか本を読むかして、お風呂に入るともう寝る時間になっている・・・。
気がつくと、とびきり嬉しいこともなく、悲しいこともなく、毎日がなんとなく過ぎているだけだった。
弘美に誘われたとき、アンナが気軽に「いいよ」と答えたのは、気分転換したかったからだ。
「あこがれの先輩のお誕生パーティーなの。ほら、うちの会社、派手好きでしょ」
「わたしはパーティー、楽しむだけでいいの?」
「もちろんよ。でもね、もしわたしが彼と二人で話すチャンスあったら、それとなく男性社員、遠ざけてくれないかな。本当は女の子のライバルの方が面倒だけどね」
弘美は大学の同級生だった。アンナと同じ心理学部を卒業してから大きな会社で働きはじめた。アンナは大学院に進むかどうかで悩んでいるうちに大学附属の研究機関に就職して事務の仕事をしていた。弘美が一年ぶりに電話してきたわけだから、なにかあるだろうとは予想していた。「やってみるよ」と答えると、「アンナだっていい人に出会えるかも。チャンスだよ」と弘美は明るい声で言った。
どんなパーティーなのかも知らないのに、アンナは思いっきり着飾った。お気に入りの黒いワンピースを着て、普段はあまりつけない香水も使った。鏡の前で何度もコーディネートを確かめてから、入念に化粧をした。久しぶりにおしゃれをすることで自分の気持ちを引き立たせたかった。
アクセサリーで迷った。とっておきのロングピアスとブレスレットはすぐに決まったが、黒いドレスの雰囲気を少しでも明るくするようなネックレスがほしかった。青い宝石の小さなペンダントだけでは地味すぎて、しっくり来ない。
「あれはどうかな」
ふとした思いつきで立ち上がり、ナイトスタンド脇に置いてある小箱を久しぶりに手に取った。シルバーのチェーンに繋がれた、いかにも古そうで重厚な日時計が入っていた。太陽の光で時間を計る指輪型の日時計だったが、ネックレスにするのには大きすぎた。
アンナはチェーンを手にとって胸元に日時計を当ててみた。やはりネックレスとしては大きい。目立ちすぎるのだ。しかしアンナは小学生の頃この日時計を首にかけていた。少女の頃の唯一のアクセサリーでお守りのようなものだった。中学生になるとお小遣いで、安いけど可愛いアクセサリーを自分で買って身につけるようになったが、家にあった頑丈な小箱に入れてずっと身近に置いていた。
十歳の誕生日に両親がネックレスにして日時計をプレゼントしてくれた。代々時計メーカーだったアンナの家に伝わった物だ。父親の代で時計作りの家の歴史は終わってしまったが、何代にも渡って大切にされてきた日時計を一人娘のアンナが受け継ぐことになったのだった。もらった時は「もっと可愛いネックレスがよかった」と思ったりもしたが、今ではとても大切な品物だ。家の歴史が詰まった物なのだから。
父親は「時計職人は、時分秒が便宜的な時の数え方だということを知ってるんだ。時間の源は大いなる宇宙にあるんだからね。それを忘れないように古い時計メーカーの家はみな、機械式時計になる前に作られた日時計を大切してきたんだ」と言った。庭に出て日時計を太陽にかざして時間の計り方を教えながら、「この日時計で計る時間は、今流れてる時間とは違うかもしれないよ」と茶目っぽく笑った。アンナはその父親の言葉にドキッとした。「不思議の国のアリスみたいじゃない」と思った。
人間が生きる時間は大きな樹のようだと、母親がよく言っていたのを思い出した。過去は根と幹、そして枝はすべて未来の可能性に当たるのだと。人間はいくつもに枝分かれしている幹のところに立って、様々な可能性の中から一つだけ選べるのだ。目指したい未来へと一歩進むと、次の可能性がまた無数の枝のように開く。
「じゃあ、お猿さんみたいに一つの枝から次の枝へ飛んで、色々な未来に行けるってこと?」
ワクワクしながら母親に聞いた覚えがある。子どもの頃のアンナには、時間という大きな樹を自由に探検できるのが当たり前のように思え、楽しみで仕方なかった。「ちょっとした魔法があれば、できるかもしれないわね」と母親は笑って答えた。
日時計をもらってしばらくの間は、時々太陽にかざして時間を読んでみた。ちゃんと時間がわかることに驚いた。母親が言っていた「魔法」がこの日時計にあるのではないかと思った。しかし特別なことは何も起こらなかった。正確な時間がわかるわけでもない。アンナは勉強で忙しくなるとみんなと同じようなデジタル時計を腕にはめ、やがて小箱に入れてお守りとして持っているだけになった。
少し迷ったが、アンナは留め金を外して首から日時計をぶら下げた。無骨で大きすぎる日時計のネックレスはやはり浮いていた。しかし今の自分にはこんな冒険、というより、もしかしたら失敗かもしれないコーディネートが相応しいような気がした。
貸し切りの広いバーがパーティー会場だった。飲み物を片手に立ち話する人、カウンターや低いテーブルに座って話をする人、真ん中のダンスフロアで踊っている人たちがいた。クラブ音楽が爆音でかかっていた。大学生がやるパーティーとなんら変わらなかった。
「紹介するね」
「よろしく」
背の高い男がアンナに右手を差し出した。島田と名乗った彼は快活そうなハンサムで、いかにも弘美のタイプだった。親しげに弘美に話しかけ、彼女から目を離さなかった。アンナがアシストする必要はないようだった。
「一人でだいじょぶ?」
「もちろんよ、子どもじゃないんだから」
アンナが言うと弘美は島田と肩を並べ、少し年上の、管理職らしい人たちの輪の中に入っていった。カップルにしか見えなかった。もしかして島田との仲を見せつけたかったのだろうか。弘美はパーティーの花のようだった。膝下までのシックな白のドレスが照明を落とした会場の中で光った。
アンナはちょっとだけ夢みたいな出会いを期待していた。しかし現実は違った。こんな派手なパーティーには慣れていなかった。場違いだと強く感じた。一人でカウンターのスツールに座るとジントニックを注文した。
「弘美ちゃんのお友達だよね」
「こんなに派手にやるとは思わなかったなぁ」
バーの中を見まわしながら、アンナの両脇のスツールに見知らぬ男二人が座った。弘美からアンナの相手をするよう頼まれたようだった。ふと「わたしが奥手だから? それとも島田さんに話しかける女の子を一人でも減らしたいわけ?」と思った。
自虐的にも、疑り深くもなっていた。男たちは二回りくらい年上で、恋愛対象にならないのは明らかだった。彼らもこの派手なパーティーに当惑気味で、暇つぶしの話し相手を求めているだけに見えた。
「あはは、そりゃけっさくだ」
「でしょ、信じられないでしょ」
二人の男が大声で愉快そうに笑った。アンナも笑った。おそらく営業マンなのだろう、話し上手だった。ただ話の中身は薄っぺらかった。たわいもない職場話をして、思い出せる限りの週刊誌のゴシップを話しているだけだった。なぜそんな話をし続けているのか、アンナ自身にも分からなかった。口がひとりでに動いた。大声で笑いながら、どうしてこの人たちはこんなに笑うのだろう、わたしはなぜこんなに楽しそうにしているのだろうと人ごとのように思った。ジントニックは四杯目だったが、そのせいとは思えなかった。何かがおかしかった。
「かんぱーい!」
会場の真ん中で小柄な背広姿の男がグラスを揚げた。アンナもグラスを高く掲げ「かんぱーい!」と大声で叫んだ。拍手が巻き起こり、たくさんの「おめでとう」の声が聞こえた。理由は分からないが、わーっと歓声がしてパーティーはさらに盛り上がってゆくようだった。「ああ楽しい!」と思った瞬間、強烈に「帰りたい」と思った。
気がつくと左側に座っていた男がカウンターにつっぷして寝ていた。連れの男が「こんなとこで寝ちゃダメだろ」と言いながら、男の肩を揺さぶって立ち上がらせようとした。何がおかしいのかずっとあはは、あははと笑っていた。壊れた笑い人形みたいだった。アンナも笑った。
スツールの上で背筋を伸ばし、アンナは顔を上げて前を見た。コの字型のカウンターの向こう側から、男がアンナをじっと見ているのに気づいた。咎めるような視線に同情が混じっているように感じた。自分らしくないことをして、無理に楽しそうにふるまっているのをその人に見られているようだった。ドキリとした。恥ずかしくなりすぐにも帰りたいと思った。
「ちょっと失礼」
立ち上がるとアンナの視界が歪んだ。「あっ」と小さく叫んで床に倒れた。もうずいぶん長い間、スツールの上に座っていたようだ。倒れたまま上体を起こして会場を見回した。人はずっと減っていた。音楽も鳴りやみ、数人ずつ小さな輪に分かれて話しながら立ち飲みしているだけだった。弘美と島田の姿も見えなかった。
「お姉さん、酔ったね、あはは、あはは」
寝てしまった男を介抱している男がさらに大きな笑い声をあげた。アンナを助けようという素振りはまったくなかった。「あはは、あはは、おい、起きろよ、まったくしょうがないな」と眠る男の肩を揺すり続けた。
アンナはゆっくり立ち上がり、化粧室に向かった。顔を洗ってから帰るつもりだった。化粧室の鏡の前に立つと寒気がした。鏡の中の自分は一瞬他人にしか見えなかった。蛇口に手をかざしてハッとした。
ない! 胸元に日時計がない!
一気に酔いが醒めた。
急いで倒れたところに戻って探した。バーは薄暗く足元になるとほとんど何も見えない。床にはいつくばって手で探る姿勢になった。
「何かお探しですか?」
知らない人に声をかけられた。顔も上げず「日時計」と答えたが、それじゃあわからないと気づき「ネックレス」と言い直した。座っていたスツールの周りを探し回ったが、ない。仕方なく「大きな指輪型のペンダントの落とし物、見当たりませんでしたか?」と会場を聞き回ったが、誰もがただ肩をすくめるだけだった。思いつきで大事な日時計のネックレスを持ち出してしまった自分が恨めしかった。
バーのスタッフに相談すると、午前三時の閉店後に照明を明るくして掃除するのでその時見つかるかもしれないと言う。閉店まであと一時間ちょっとある。アンナは頭をすっきりさせるために外で待つことにした。外の空気は思ったより冷たく肌寒かった。九月の夜に包まれた街は異様に感じられるほど静かだった。
「見つかるかなぁ」
バーの近くの公園でベンチに腰をかけて、アンナは街灯が寂しく光る人気のない深夜の公園を見つめた。日時計のことしか考えられなかった。アンナの家の歴史が詰まったもので、自分の過去を象徴するような宝物だった。それをうっかりなくしてしまうなんて・・・。
日時計がなくなると、自分の未来もなくなってしまうような気がした。日時計を持っている自分の未来と、日時計のない自分の未来は違うものになるようにさえ思われてきた。泣き出したい気分だった。
「あ、ここにいたんですね」
顔をあげるとカウンターの向こうから自分を見つめていた男の人が立っていた。
「バーの人が、閉店まで近くで待ってるはずだって言ってたから。探しものはこれでしょ」
男は日時計を差し出した。アンナはさっと腕を伸ばし、ひったくるように日時計をつかんだ。男のぬくもりが残る日時計を手に握りしめてから、ようやく「ああ、ありがとうございます!」とお礼を言った。
「ずいぶん探してたみたいですね。僕が見つけてバーのスタッフに届けたら、あなたが必死になって探してたって言ってたから」
「そうなんです。とても大事なネックレスなんです」
「よかったですね、見つかって」
男はしばらくアンナを見つめ、「一人で帰れますか?」と聞いた。
「はい、だいじょうぶです」
アンナが答えると男は優しい笑顔を見せ、「じゃあ僕はこれで。お気をつけて」と言って背中を向けた。アンナはあわてて立ち上がり「ありがとうございました!」と声をかけた。男の人の姿が遠ざかってからせめて名前を聞いておけばよかったと思ったが、そんな心の余裕はなかった。
ベンチに座り直すとアンナは手の中の日時計を見つめた。戻ってきたのが奇蹟のように思われた。時刻の数字と十二ヶ月の頭文字が刻まれている日時計を愛おしそうに見つめた。落とした時の弾みなのだろう、日差しが入る小さな穴の位置がずれていた。アンナは慣れた手つきで日時計の穴を九月の位置に設定した。
突然日時計が強い光を放った。驚いてアンナは日時計を手から落とした。地面に落ちた日時計がさらに大きな光を放ってアンナの身体を包み込んだ。目が眩んだ。何が起こったのか分からないままアンナは目をきつく閉じた。
(第01回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『蓮・十二時』は毎月11日にアップされます。
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■