世界は変わった! 紙に印刷された文字の小説を読む時代から、VRでリアルに小説世界を体験できるようになったのだ。恋愛も冒険も、純文学的苦悩も目の前にリアルな動画として再現され、読者(視聴者)はそれを我がことのように体験できる! しかしいつの世の中でも悪いヤツが、秩序を乱す輩がいるもので・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、極めてリアルな近未来小説!
by 遠藤徹
二、『檸檬』
「今日のはちょっと大物よ」
「ほお? シェイクスピアでも狙われたか」
「なにいってんのよ」
頭を小突かれた。人差し指でちょんとつつかれただけだったが、ほとんど脳震盪を起こしかけた。まったくこいつと組んでいたのでは、命がいくつあっても足りない。
「あんたの保護分野は、日本文学のみでしょうが」
「いやしかし」
ついついムキになって言い返してしまう。
「翻訳された外国文学は守備範囲に入っていると思うんだけどな」
「いいえ。そこは基本翻訳文学担当の久住先生たちの担当よ。だって、あんた外国語あんまりでしょ。久住先生は英独仏露西伊蘭葡をはじめとしたヨーロッパ諸言語に通じた碩学だからね。でも久住先生でも、担当は西洋文学の翻訳に限られているわけだけど。とにかく、久住先生から特別支援要請がない限り、あんたがシェイクスピアとかボッカッチョと関わる可能性は皆無なのよ。肝に銘じておきなさい」
いやしかし、いったいいつからここは力が支配する『北斗の拳』的、あるいは『マッドマックス』的世界になってしまったのだ。俺が探偵であり、高満寺手弱女は、俺の助手という関係性であるはずだ。確かに管理局が気まぐれに下した仮の役割分担であるのは確かだが、それにしてもこの言われようはあんまりではなかろうか。
「で、事件っていうのは?」
「基次郎が狙われたのよ」
「桜の木の下からほんものの死体でも出たか?」
「いいえ、もっと最悪よ。だって侵入されたのは『檸檬』だもの」
「ってことは、まさか」
「ええ、そのまさかよ。ほっとくと、あと数分で高性能爆薬ヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン配合の檸檬型時限爆弾が爆発して、丸善がまるごと吹っ飛ぶわ」
「それじゃあ、物語の筋がめちゃくちゃになる」
「そういうこと」
そうなのだ。ご存じの通り『檸檬』は、「えたいの知れない不吉な塊」に始終心を圧えつけられている主人公が、「錯覚がようやく成功し始めると私はそれからそれへ想像の絵具をはりつけてゆく」という手法、つまりは「見立て」の手法によって、現実を塗り替えることによって自らを救済するという物語である。「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も」好きな主人公は、一個の檸檬を八百屋で買い求める。その檸檬をもって京都の三条河原町にある丸善書店に入る。画集を「奇怪な幻想的な城」のように積み重ね、その頂に檸檬を据え付ける。書店を出た主人公は、自分を「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢」だとみなし、「もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発するのだったらどんなにおもしろいだろう」と夢想する。あくまで夢想のなかの、見立ての中の爆発だからこそ、この物語には意味があるのだ。
それが、本物の爆弾にすり替えられたとしたらどうだろう。主人公の妄想と現実との関係はめちゃくちゃになってしまうではないか。作品の価値が台無しになってしまうのは間違いない。それよりなにより、小説内の爆発は、読書=体験者にはリアルに体験されることになるのがいけない。危険描写を含むR指定を受けていないからと安心して読んでいた読者が、突然の予期せぬ大爆発に驚愕してショックを受け、心臓発作を起こす可能性だって否めないのである。死人でも出た日には、わが社の経営の危機にすら結びつきかねない。それどころか、いまや全世界で、読書を娯楽の第一位へと躍進させたこのシステムが信頼を失って、存続の危機に瀕するということにすらなりかねない。
「で、その爆発物の威力は?」
「さあ、わからないけど、作品内への追加書き込みにヘキサニトロヘキサアザイソウルチタンの破壊力は、通常のTNTすなわちトリニトロトルエンの二倍であるって書かれているから、結構な威力があるんじゃないかしら」
「やばいな。あと何分あるって?」
「もともとの原作では、檸檬をおいてから十分後に爆発するっていう設定でしょ。当局が文字列の歪みによる異常を関知したのが、犯人逃走後一分で、わたしが通知を受けて飛び起きながら、一気にここまで二階の部屋から駆け下りてきたのが二分後。寝ぼけたあんたに説明するのに要した時間が二分だから、残り六分よ。とにかく、手間取ってる間に、爆発は現実のものとなるわ。そうなったら梶井基次郎は、テロリズムを推奨した過激派として文学史に名を残すことになる」
「急ごう」
俺は、即座に両方のこめかみを押さえた。頭痛がするわけではない。いや、確かに寝不足で多少の頭痛はあるが、問題はそこにはない。俺たち虚構パトロールは、簡単な手術を受けてこの部分にVRの起動装置を皮膚移植してある。通常の読者=体験者は、いまだにサングラス型のハードウエアを利用している者がほとんどだが、職務上即時アクセスを要求される俺たち職員は、全員この移植手術を受けているというわけだ。VR体験のほとんどは本社のハードウェアが担当する。だから、俺たちは装置を起動してネット接続し、このVRにアクセスしさえすればよい。所要時間はほんの数秒である。即座に眼前に浮き出たバーチャルスクリーン上でサーチエンジンを起動し、『梶井基次郎全集』から『檸檬』を選択。冒頭ページを開くと、ためらうことなく飛び込んだ。ダイブインの体験をうまく表現するのは難しいが、たとえていうなら文字でできた都市の中に入っていくという感じ。ビートルズの『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンド』で、登場人物がセロファンでできた巨大な花の間をゆっくりと飛んでいくという描写がある。それと同じように、俺たちは文字でできた建物の間をゆっくりと飛んでいくのだ。けれども、すべてが文字のままなのは最初だけである。俺たちが文字列の間にダイブしていくうちに、最初両側にそそり立つ巨大な摩天楼の列のようであった文字列が、徐々に実体化し、文字たちが描き出す世界が実体験へと変化していく。「読む」行為が、すぐに全感覚を動員しながら没入する「体験」へと変化していくのである。すぐに俺たちは一九三一年の京都に降りたっていた。すでに『檸檬』の主人公である「わたし」は丸善を出て京極通りを下っていっているはずだった。
「急ぐぞ、時間がない」
「わかってるわよ。そんなこと」
そう、そんなことは重々承知である。だけど、自分を駆り立てるためにも、そう口にするしかない。
数分前に主人公が立ち去った丸善へと俺たちは飛び込んでいった。むろん、そのとき俺が身につけていたのはもはやフィリップ・マーロー風のコートとボルサリーノではなくなっていた。いうまでもなかろうが、さっきまで俺がダイブインしていたのはレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』だった。読書モードは、当然主人公との同化モードだった。だが、いまの俺は時代背景と違和することがない、書生風の羽織袴となっていた。併走する怪力女、高満寺手弱女の服装もまた、彼女の常備服である極彩色のレオタードから、落ち着いた雀模様の絣となっていた。
梶井が『赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった』と書いているように、店内には小瀟洒れた大正モダンの印象が充満していた。わが店こそ時代の文化の最先端だぜえっ、ていう自負が溢れていた。大正時代の高級なヴィレヴァン(=ヴィレッジ・ヴァンガード)とでもいうべきだろうか。でも、俺たちにそんなものを愛で楽しむ余裕はなかった。探すべきものはただ一つ。俺たちは方向転換をしらないイノシシのように美術書のコーナーへと突進していった。
「あった! あれよ」
高満寺が指さしたのは、高々と積み上げられた画集のてっぺんでコチコチ音を立てるレモンエローの紡錘形型小型爆弾だった。
「あと何分ある?」
「三分三十秒」
「よし、一度出るぞ」
俺は丸善から文字列の方へと飛翔して、摩天楼となっている文字列を上から見下ろした。すぐに、高満寺も続いてあがってくる。俺たちは、体験レベルから抜け出て、文字列俯瞰モードへと移行したわけだ。言っておくが、このレベル移動は、一般読者=体験者には不可能であり、俺たち虚構パトロールにだけ許されている行為である。だから、よい子はまねしないようにね。とはいっても、通常のVR接続装置に、そういう機能はないから、そもそも不可能ではあるわけだけど。
「なるほど、改竄されているな。三カ所だ」
俺は丸善の場面を描いた箇所を子細に検討して、原文からの逸脱部分を赤く色付けした。
『やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂に恐る恐る檸檬型小型爆弾を据え付けた。さきほど、ここで待機していた同志が、こっそり檸檬と交換してくれたものだ。わたしの錯覚はいま現実となる。ちなみに、この爆弾には、通常のTNTの二倍の破壊力をもつ、ヘキサニトロヘキサアザイソウルチタンが使用されている。丸善など、軽く吹き飛ばすことは請け合いである』
『見わたすと、その檸檬は紡錘形の身体からカチコチという小気味よい音を立てながら、あたりを睥睨していた』
『もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだ。なんとおもしろいことだろう』
改竄箇所を読み上げてみた。今回のは悪質な改竄だが、文学センス的にはあまり際だったもののない犯人の仕業と見えた。元の基次郎の文章から、その部分はいかにもな違和感をもって浮き上がっていたからだ。これが、手練れの犯人の場合になると、改竄場所がみごとに原文に溶け込んでいてなかなか特定できずに四苦八苦することがある。それが今回のような時限爆弾事件だったら大事に発展しかねない。
「修正します」
高満寺が、怪力で活字を操作しながら、改竄された箇所を修復していく。付け加えられた余分な文字や文を投げ捨て、代わりに原文通りの活字をはめこんでいく。
「急げ。あと一分しかない」
「急いでるわよ。ぼおっとしてないで、あんたも手伝ってよ」
俺たちは必死こいて活字を入れ替えた。最後の「おもしろいことだろう」の「こと」を抜いて投げ捨てた。時計を見ると残り二秒だった。まさに間一髪だ。こういう仕事は心臓に悪い。
「爆発は回避できたわ。なんとか成功ね」
「ああ、次は犯人の痕跡探しだな」
「無理よ」
「ああそうか」
そうなのだ。今回の事件のように、原文復帰の再構築作業が何よりも優先されねばならない場合、復旧された世界は元の原作の世界に戻ってしまうから、犯人の痕跡も一緒に抹消されてしまうことになる。犯人探しを優先する場合は、まず調査をし、しかる後に原文復帰をなすことになる。けれども、今回のように緊急性がある場合には、犯人探しはあきらめるしかないということになる。
「でも、若干の特徴をあぶり出すことはできるだろう」
「文体論的視点とか、文脈読みの観点ね」
だが、それをするためには、しばらく無意識レベルへの降下の期間が必要となる。あらゆる文章には、それを配列する人物の無意識が反映される。ただ、それは表層ではなく深層にあるので、しばらくその文章を反芻して、そこからにじみ出してくるものを幾度も幾度も噛みしめ、味わい、吟味する必要があるのだ。
「いずれにせよ、これはちょっとしたテロだよな」
「ええ、やつらが絡んでる可能性は否定できないわね」
その言葉で、俺はちょっと緊張した。ほんとうに、やつらはまだ活動を続けているのだろうか? そうだとしたら、ほんとうに手ごわい敵だということになる。そう思って俺は冷や汗をかいた。
(第02回 了)
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