世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
四十八、きっかけはサガン
「すいませえん」
軽薄な声でナオがドアをノックしている。こういう時にぴったりの業務用の声。
「開けて下さあい、連れてきましたあ、すいませえん」
俺はナオの陰に隠れながら耳を澄ます。やや間があってからトントンと足音がしてドアが開いた。
「すいません、ご迷惑おかけしちゃって」
何かが気道を駆け上がってきて息が苦しくなった。間違いない。いや、間違えるわけがない。どう? と振り返ったナオに頷く。
――これ、冴子の声だ。
ざわついた気道のせいで咳き込みそうになる。大丈夫? という視線にもう一度頷いた。行け、バカ犬。そんな感じでナオがすっと身体を横にずらす。目に入ったのは冴子の驚く顔。髪型は変わらないんだなとか、そりゃ二ヶ月くらいしか経ってないもんなとか、どうでもいいことが頭を巡る。ナオに腰をつつかれ何とか我に返った。
「あのさ、嘘をついたことは謝る、ごめん。あと、少し話がしたいから家に上げてほしい。怒ってもいないし怒鳴ったりもしない、そんなことをするために来たんじゃないんだ」
早く言い切らないと、冴子が「放っといて」とか「帰ってよ」とか「関係ないでしょ」なんて言葉を、知らない声色で喋りそうだったから一気に捲し立てた。余裕を持って「よう、久しぶり」なんて言えなかった。
冴子は最初こそ驚いていたが、段々といつもの表情に戻って、俺たちを部屋の中に入れてくれた。ただ一言も喋りはしない。俺は玄関で靴を脱ぎながら、また息苦しさを感じていた。ここから見える安太の部屋は昔のままだ。無愛想に置いてあるテレビとビデオ。黒い冷蔵庫と大きめのクローゼットもあの頃のまま。まさかこの部屋でこの二人と一緒になるとはな。
部屋に上がると冴子がテレビを消した。嫌な静寂が一気に広がる。
「音消して点けとけよ」
硬い兄の声に、妹は無言のまま従った。玄関からは見えなかったが、見覚えのある大きなバッグが置いてある。冴子のだ。黒く大きな目覚まし時計も、ピンクのドライヤーも、スマホの充電器も、全部冴子のだ。見慣れた安太の部屋に見慣れた冴子の持ち物があると、こんなに気持ち悪いのか。
もう一度嘘をついたことを謝ってからナオを紹介した。どう言おうか迷ったが「恋人」だと告げた。
「兄がいつもお世話になっています」
「マスカレード」の店員だとは気付かなかったらしく、軽く微笑みながら頭を下げた。「な、よくできた妹だろ?」という場違いな気持ちが漏れそうで思わず俯く。誰からともなく座り、安太の部屋に微妙な三角形が出来た。やっぱり私は帰るわ、と立ち上がりかけたナオを引き留め「いいだろ?」と冴子に目で訊く。
あぐらをかいた俺の正面には音を消したテレビと、伏し目がちに正座をしている冴子。肝心の安太はどこに行ったのか尋ねようとした瞬間、「あのね……」と話が始まった。
本屋を辞めて何日も経たない頃、原宿の小さなギャラリーで開かれていた企画展に立ち寄ったのは、看板に「サガン」の文字が見えたから。売れない絵描き連中が開いたその企画展のテーマは「わたしの好きな小説」で、安太の絵のモチーフはサガンの「悲しみよこんにちは」。俺はその本は読んでないが映画なら見た。それもすぐそこのテレビで見た。今いるこの安太の部屋で、女たちとぐちょぐちょをしながら見た。古い映画だった。ストーリーはまるで思い出せない。
飾られていた安太の絵はとても綺麗で、身体の中に染み込んでくれればいいのにと思った。初めての感覚だった。染み込む、という意味が俺には分からない。
そういう小さな企画展の常で、画家自身がその場にいて色々と話をしてくれた。数日後、再びギャラリーに行って、結局安太の絵を買い、それは今も実家の自分の部屋に飾ってある。ほら見ろ、と俺は鼻をすすった。やっぱり安太、キャンバスに絵を描いてたんじゃないか。何が人生最後の絵だ。あの野郎。
それから半月後、安太から連絡が入る。
絵のモデルになってほしい、
もちろん服を脱いだりする必要はない、
まだ一回も肖像画を描いたことがないので綺麗には描けないかもしれない、
ギャラもそんなに高くは払えない、
ただ自分の絵を気に入ってくれた人のことは綺麗に描けそうな気がする、
一週間に一度だけでいい、
絵のモデルになってほしい――。
冴子が口にするその台詞が、俺の耳には安太の声で再生されている。安太のくぐもった声。聞き取りづらいけど、決して聞こえなくなることのない声。数時間後に乱交をする女たちに話す声で、安太は冴子に囁きかけたんだな。
さっきからこの部屋でのぐちょぐちょの記憶が、目の裏側で点滅している。安太の白い尻、粘液にまみれた俺の陰毛、女の腹をつたって床を汚す精液、それを違う女の乳首に塗り付けるため摘み取っている指。点滅が早くなってきた。このままだと乱暴になってしまいそうだ。焦ってナオを盗み見る。見慣れた横顔に視点を合わせると、少しずつ落ち着いてきた。その調子、その調子、と呼吸を整えながらそっと足を組み替える。
結局三日間真剣に考えて、安太に「よろしくお願いします」と返事をした。間髪入れずに「ありがとう」と連絡が来た。これがずっと分からなかった二人の「きっかけ」だ。
まずいな、まだ「きっかけ」を聞いただけじゃないか。話している冴子を遮って、ビールを呑んでもいいかと訊いた。そうでもしないと本当におかしくなりそうで怖かった。ナオは眼で咎めたが、冴子は申し訳なさそうに「ごめんね、麦茶しかないのよ」と言った。
プラスチックのコップに入った麦茶を口に含みながら、こいつは俺よりこの部屋に詳しいんだなと落ち込んだ。どっちに対してとか何に対してとかは、もう複雑にこんがらがって解けそうにない。
ナオは麦茶に口をつけず、心配そうに俺を見ている。バカ犬が狂犬に変わるのを心配しているのか。それとも寂しさに溺れ死ぬのを心配しているのか。大丈夫だ、と表情だけで伝える。
「今日はコンビニのバイトに行ってるの」
取って付けたような呟きの後、再び話が始まった。俺が冴子の「兄」であり、安太の「友人」であることが分かったのは、三度目のモデルの時。
「びっくりしたし、何だか悲しくなったわ、ホンマさんも驚いて、ひどくうろたえていたのよ」
冴子の口から「ホンマさん」はやっぱりきつい。
「その日は絵を描くどころじゃなくなっちゃったし、私もホンマさんも一人になってよく考えたのよ、真剣に考えたのよ」
身体の内側がざわついている。空になったプラスチックのコップを軽く噛んで気を紛らそうとしたが、失敗。でもね、と言った冴子の声が潤んでいて思わず目線を上げる。
「でもね、もう始まっちゃってたのよ」
そう吐き出して俯くと、静かに肩を震わせた。内側のざわつきが倍になる。危うく狂犬になっちまいそうだ。気付けばナオは袖をたくし上げていた。いつもの綺麗な青。ちゃんとユリシーズは居るべき場所にいる。俺の居るべき場所、ナオの居るべき場所、冴子の居るべき場所、安太の居るべき場所。俺が誰かの入墨だったらフラフラしなくて済むのにな。
冴子は腰を折って呻くように泣き続けている。細い身体は小刻みに揺れ、何度か辛そうに咳き込んだ。ナオは躊躇なく立ち上がり、その震える肩にそっと手をかける。
「大丈夫だからね、落ち着いて、ね、ね」
冴子は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて首を横に振る。
「ちゃんと、ちゃんと、お兄ちゃんには話さなきゃいけないから」
しゃくり上げて、ところどころ聞き取れない。ナオが震える身体を抱きしめる。抱きしめる、というより弾けそうなものを押さえつけているみたいだ。お兄ちゃんごめんなさい、と何度も言おうとしては声が出なくなる。小さい頃だってこんなに激しく泣く姿を見たことはない。
「もういいんだよ」冴子の目をしっかりと見ながら、ゆっくりと声をかける。「ありがとう、もういいんだよ」
さっきまでの冷静な姿が嘘のように「だって、だって」と訴えかける冴子と、必死で押さえつけているナオ。俺は精一杯やさしい表情をつくった。頑張れバカ犬、お前は兄貴なんだろ。
広島の爺さんの家に行く時の新幹線と同じだ。小三だった俺は、こいつの紅葉のような掌を握りながら「しっかりしなきゃ」って自分に言い聞かせていた。あれと同じなんだ。死ぬ気でしっかりしろ。
「なあ、聞いてくれよ、本当にもういいんだってば」
俺の声は聞こえているはずだが、冴子の涙と震えは止まらない。だったらと立ち上がり真正面に移動する。ぎゅっと握られた小さな掌を、力を入れて包みこむ。俺はもう小三じゃない。俺は大人だ。
「聞いてくれ」
それまでより大きな声だが、決して苛立っていないと分かる声を努力して出す。やっと、しゃくり上げる回数が減ってきた。こいつも努力してるんだろう。そう思うと悲しくなった。俺はただ、と言いかけただけで涙が溢れてくる。次の言葉がちらっと見えただけなのにな、頑張れバカ犬、絶対に泣くなよ。
冴子がボロボロの目でじっと見ている。ナオも心配そうに見ている。静かに細く息を吐いてから、声を絞り出した。
「俺はただ、ノケモノになったみたいで嫌だったんだよ」
川沿いをゆっくりと歩いている。汚さは闇に隠れているが臭いは変わらない。こんな時間にここを一人で歩くのは初めてだ。
「悪い、ちょっと頼む」
そうナオに言い残して部屋の外に出た。冴子はずっと泣いていた。俺が泣かしたんだ。嫌われちゃったかもな。自分は好き勝手やってきたくせに、どの面下げて常識人ぶってんだ。立ち止まって煙草に火を点ける。そうか、サガンとか好きなのか。サガン、と口に出してみた。今度読んでみようかな。
そういえば、いつから一緒に住みだしたのか訊かなかった。まあいいや。今更そんなこと知っても仕方ない。
暗くてよく見えないが、きっと錆びている鉄柵に体重を預ける。あまり経験したことのない疲労は、まだ揮発しきれず体内に残ったままだ。煙を吐き出した瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。何ともいえないタイミングで連絡をくれたのは安藤さん。何も聞かないのに「特に用件はありません」と教えてくれた。本当はだらだらと話して現実逃避したいところだが、そうはいかない。時間ないんだけどさ、と言うと切ろうとしたから慌てて引き留める。
「実はこれから気まずい人と会うんだよね」
「えっと、どんな気まずさですか?」
「うん、俺の妹と付き合いだした俺の友達、かな」
「えええ、なんか間が悪かったですね、私」
安藤さんに教えてほしかったのは言葉だ。今の俺は安太にかける言葉を持っていない。もう過ぎたことはいいから、また楽しくやろうぜ。そういうことを伝えたい、と告げると「そのまま言えばいいじゃないですか」と安藤さんは笑った。大人げなく「そうなんだけどさあ」と渋っていると、「うーん、そうだなあ……」と考えてひとつアイデアを出してくれた。
「ゲラゲラ笑える話をぶつけてみたらどうですかね?」
良さそうだと思う。でも今の俺にはちょっと難しい注文だ。心当たりがまるでない。
コンビニで缶ビールを何本か買って帰った。冴子は多分呑まないだろう。一応確認したが、コンビニにサガンは置いてなかった。眠っている冴子を覗き込みつつナオにビールを渡す。さすがに乾杯はしなかった。
ビールを口に含んだまま、立ち上がって部屋を見回してみる。買ったまま使っているから、長過ぎて床に乗っかっているカーテン。何かを剥がした跡が幾つも残っているゴミ箱。柱に貼ってあるワインのラベル。面白いほど昔と変わっていないこの部屋で二ヶ月間、あいつはずっと今みたいにして眠っていたんだろうか。
ナオも壁にもたれ眠りかけていた。今日一日、色々ありすぎたもんな。軽く頭を撫でてからトイレへ。ビーズで出来た象の御香立て。灰がこびりついて取れなくなっている灰皿。やっぱりあの頃と変わってない。そのままだ。
トイレを出てふと気付く。例の真っ白なキャンバスが見当たらない。人生最後の絵を描くためのキャンバス。あれを棄てたりはしないだろう。絶対にこの家のどこかにあるはずだ。そしてそこには冴子が描かれている。俺には分かる。いかにも安太のやりそうな手口だ。せめてそれくらい見させてもらってもいいだろう。
冴子とナオを起こさないように部屋を探す。探す、といっても何もない部屋だ。あとは押し入れしかない。そういえば押し入れを開けたことなんか一度もなかったな。意外と滑らかに開いた襖の向こうには、予想通りあのキャンバスに描かれた冴子の絵があった。
挿し込んだ灯りが徐々に絵の全貌を明らかにしていく。もう完成しているんだろうか。白いシャツを来て微笑んでいる冴子。なかなかうまいじゃないか。
でも不思議だ。冴子のことはよく知っているつもりだったが、絵だからこそ見えてくるものが確実にある。これが安太は知っていて、ノケモノが知らない部分なのか。絵を描くってそういうことなのか。
ビールを呑みながら、少なくとも十分は眺めていた。眺めながら、「安太が知っている冴子」をゆっくりと嚙み砕いていく。少しずつ、確実に、最後までちゃんと。
もうこれで大丈夫だよな、と言い聞かせながら立ち上がり、部屋を改めて見回してみる。天袋発見。引手の周りに絵の具が付いている。ここにもか、と折り畳み式の椅子を踏み台にして中を覗くと、綺麗にしまってある幾つかのキャンバスが見えた。
試しに一つ取り出してみる。風景画だ。多分あの川沿いの景色だろう。汚らしさが誇張されていて面白い。残りのキャンバスも全部出してみる。花の絵、自画像、何だか分からない絵。やっぱり安太、ずっと描き続けていたんじゃないか――。
その瞬間は突然来た。俺が折り畳み式の椅子に座って、キャンバスに描かれた絵を眺めている時だ。静かに階段を昇ってきたらしく、突然玄関のドアが開いた。あっ、と声を出して立ちつくす安太。コンビニの仕事終わりで頭がボーッとしてたんだろう。きっと悪い夢だと思ったはずだ。でも大丈夫、俺はさっき噛み砕いて呑み込んだばかり。本当、さっぱりしたもんだ。それに端から怒ったりはしてない。ただ、もやもやしていただけ。でも今は、そのもやもやさえ消えちまってるんだ。
玄関で立ち尽くし、靴を片方脱ぎ掛けたまま目を見開いている安太に近付く。完璧に怯えている。いい歳してそんな顔をするなよ。やっぱり安藤さんが言う通り、こういう時にはゲラゲラ笑える話が一番いい。でもさっきから探しているけど、そんなものどこにもない。まあ、最悪そのまま気持ちを伝えればいいか、と開き直って口を開く。でも、物事はうまくいかない。窮鼠気取りの安太が逃げようとして尻もちをついた。靴を片方脱いだせいだ。本当、いい歳して情けない。ほら、と右手を差し伸べる。安太は俺の指の先をじっと見つめたまま動かない。早く何か言わないとまずいな。このままだと謝られそうな気がする。そんなこと、させるもんか。俺の可愛い妹に、何か謝るようなことをしでかしたのか?
あのさ、と喋りかけた俺を制して安太は言った。
「今日は本当に体調が悪くてさ、今度ちゃんと話すから」
何だよそれ、と一気に全身の力が抜ける。安太、やっぱりたいしたヤツだ。そうこなくっちゃ。おかげで俺も言うべきことが見つかった。ゲラゲラ笑えはしないけど、景気のいい話があるじゃないか。
「なあ、いい儲け話があるんだよ」
「え?」
「近いうちに世界中で新しい病気が流行る。これ、間違いないらしいんだ」
「……つまり、株?」
安太の目が輝いたのを俺は見逃さない。腕を引っ張って立たせてやると、また足がもたついて寄りかかってきた。体調が悪いと言ったくせに、「ビール、まだある?」と訊いてくる恥知らず。思わず緩みそうになった頬を慌てて引き締めた。ゲラゲラ笑うのは今じゃない。安太とたんまり儲けてからだ。
(第48回 最終回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『助平ども』は毎月07日に更新されます。
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■