月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第三幕(前編)
電気スタンドのガラスの破片を拾い集めながら、すみません、と真田はうなだれていた。
わたしは掃除機を抱えたまま、苦笑するほかない。
美希には精神安定剤を服用させ、自室で休ませていた。
神経症の姪を、最初からそこに閉じ込めておかなかったのは結局、わたしの間違いだ。
夜の七時を過ぎて、陽平の母親は夫を引き連れてやってきた。
「足首に、それはひどい噛み跡がついてますのよ」
黒縁の眼鏡に、はちきれそうな豹柄のジャケットといういでたちの母親は、ダイニングの椅子に掛けるなり「手術が必要かもしれませんわ」と言った。
姉川という姓をもじってか、陽平はアーネストと自称している。小さな身体で肩肘を張り、自分は三十二歳、巨躯のアメリカ人野球選手だという妄想の中で暮らしているのだ。あの態度も濁声も、そこからくるものと一応、知ってはいた。
そんな子と美希が同じ場に居合わせるのは、確かに避けるべきだった。
「いや、まあ、たいしたことはありませんがね」
有名企業の取締役だという禿げかかった父親はむしろ気遣わしげに、階下のリビングの惨状を手摺り越しに眺めた。
それはそうだろう。陽平は靴下を穿いていたのだ。
さんざん蹴飛ばされた美希の頭の方に、よほどひどい瘤ができている。
「けれども、皆さんの前で恥をかかされた、という心の傷が心配です。男の子は自信を失うと、脆いものですから」
温厚そうな父親の言葉は、確かに筋が通って聞こえる。
「結婚できなくなったら、どうしてくれますの?」
母親が眼鏡をずりあげ、ハンカチを目に押し当てる。
もっとも、この人はすぐ泣けるのだ。最初に来たときから、教室が紹介されたテレビ番組に感激したと涙を浮かべていた。女優だったらさぞ便利だと、演出家なら思うだろう。
「それで今、ご本人のご様子は」と、わたしは訊いた。
好きにゲームをさせてますがね、と答えかけた父親を「心の傷って、目に見えないものでしょ」と母が遮る。
わたしは躊躇したが、「お詫びと申し上げては何ですが」と、言わないわけにいかなかった。
「今月のお授業料は結構ですので」
少人数制にしたのは、本業として腰を入れたくないからに過ぎなかったが、相応して月謝はかなり高く設定してある。いきおい私立や国立に通う子供が多くなり、うるさ型のクレームも覚悟の上だ。
「まあっ。まあ、まあ」
だが母親の反応は、かえって興奮の極致に達してしまった。
「先生、そうお思い? わたしどもが、お月謝なんかに構うとでも。ただアーネストのために、信頼する先生にお預けしてたのに」
「いえ、そんなつもりは」
謝罪すればするほど母親は高ぶり、ついには本格的に泣き始めた。
「先生の御親戚の娘さんとやらに、まさか、こんなことをされるなんて」
もう、やめるならやめてくれ。
わたしはうつむき、そう考えるばかりだった。
何も引き留めることはない。アーネストがいなくなれば、また別の生徒が入るだけだ。
「でも、わかってくださったなら」と突然、母親は顔を拭った。
「いいんです、先生。そんなに恐縮なさらないで。アーネストが自尊心を取り戻すために、次のお芝居で主役につけていただければ」
「主役、ですか」わたしは唖然とした。
「だって、そりゃあ。アーネストが立ち直るまで、そうしてくださる義務がおありでしょ」
「ほら、うちの子は華があるし」と、父親も丸い頭で頷く。
「どんな役でも、ぴったりはまると思いますがね」
見た目も雰囲気も正反対の印象を与える夫妻の、それが一致した見解なのだった。
「すると次は、どういった劇に」
ガラスの破片を新聞に包みながら、真田は尋ねた。
「主役にセリフがないのを」と、わたしは息を吐く。
陽平の発音とイントネーションは、小四の由梨と同程度以下だ。
テレビ局に紹介してくれた子の親とて、実力相応の役に文句を言わないのに、果たしてどう理由をつければいいのか。
「じゃ、人魚姫」
彼の言葉に思わず笑った。「悪くないわね、それ」
三十二歳メジャーリーガーのつもりのアーネスト陽平が、女装を承諾すれば、の話だが。
「アンデルセンか。もっと重々しい方がいいけど。ヨーロッパの古典なら、たとえ不倫劇でも、教養あふれるお母様方から文句が出ないのよ」
床に這い蹲り、ガラス片の見落としを確認していた彼が振り返った。
「そうですか。不倫劇でも」と、わざとらしく呟く。
わたしは内心、舌打ちし、気づかぬように言葉を繋いだ。
「ギリシャ悲劇が好きなの。シンプルで、残酷さが残っていて、悲喜愛憎が生のままで」
「ギリシャに幽霊はいないんですか」
再び絨毯に視線を戻し、彼は言った。「たとえば劇中で死んだ人を、主役にアレンジするとか」
死人に口なし、か。
それもいいかもしれない。
帰り際、アーネストの母親は、美希の部屋の前の廊下にいた彼に目を留めた。
「あちらの方は?」
「ええと、助手です」と、咄嗟に答えた。
と、彼の瞳がふと輝いたようだった。見学に来た俳優の卵、とでも言えばよかったのか。
「恋の芝居は無理だ、やっぱり」
突然、耳元で囁かれた。
顔を上げると、潤んだ熱い眼差しとぶつかる。
恋の芝居は無理。少年じみたビブラートで囁かれた、その言葉の意味を考える前に、彼はわたしの腕を掴んで引き寄せた。
わたしの頬に、柔らかい唇が触れた。思わぬ可愛らしい仕草に、笑みを浮かべるだけの余裕がまだあった。
「白粉が口に入っちゃうわよ」
そんな言葉にがっかりしたのか、拗ねたように頭を胸にぶつける。
タイムの香りがする少年。たぶん、シャンプーの匂いだ。
わたしは彼の髪を掻きむしり、その頭を抱きしめていた。と、脇の下に腕を差し入れられ、意外な腕力でわたしを引き上げると、壁に背を押しつけた。胸の谷間で顔をこすり、アンゴラセーターの下に入り込んで背中を愛撫しはじめる。わたしの手は彼の細く締まったジーンズの腰に回っていた。
背中のホックの上で指先が迷い、我慢ならなくなったようにブラジャーをむしって押し上げる。乳房を包み、揉みしだく掌の感触は大きく骨っぽい。それでいて指は繊細に動き、そのすべてを受け止めようと胸が仰け反った。両脚の間に彼の太股が割り込み、それでもう我を忘れていた。
ふと、彼は顔を上げて絡ませた足を外した。おそらくは、いきり立ったものがわたしの下腹に触れるのを恥じたように腰をかわす。
舌を出して、と彼は眉をしかめていた。健康診断で異変に気づいたときのように「べーって。奥まで見せて」と命じる。
伸ばした舌に滑らかな舌が触れた。くすぐったさに思わず笑い出した。
もう一度、と難しい表情のまま急かす。
一心不乱に舌を動かす様子は、蜜を吸うハチドリにそっくりだった。なんて長い睫だろう、と見つめるうち、呼吸困難で意識が遠のきそうになる。今度は、口紅がついちゃうわよ、などと言われないようにしているのだと気づいたとき突然、動きが止まった。
身を引き剥がすように離れると、わたしは酸素を求めて喘ぎ、階段の手摺りに縋った。
少年も苦しげに息を吐き、ソファに倒れ込む。
「どうして、」出かかった彼の声は掠れていた。
「妹さんと結婚しようと思ったか、わかりますか?」
考えたくもなかった。今の出来事とそれとは別、と思いたかった。
「僕が見せられた週刊誌に、御主人は大学の先生と書いてありました。最初から、あなたはもう他人のものだった」
だから、その係累と縁を、か。それでは源氏の宇治物語だ。
「彼女だって、ただ、お姉さんたちのように既婚者になりたいだけって思われてるんでしょ? 本人が言ってましたよ」
そんな彼の弁明は、そのときのわたしには、実際には不要だった。
「人真似で結婚するに過ぎないなら、身代わりとして扱われても仕方ないじゃないですか」
自分の身代わり。
夾子は毎夜、こんな愛撫を受けているのか。
わたしの内心が問題にしていたのは、本当のところ、それだけだった。
それからしばらく、彼はやって来なかった。
二、三日間、それはむしろ幸いなことだった。わたしは日常的な雑事をこなし、どうやら平常心を取り戻しつつあった。
それでも原稿は手につかなかった。
あんな分別もない年頃の男の子に、これほど気が乱れるとは。
「あなたは想像していた通りの人でした」と、彼は言った。
「母性的なんです。美希ちゃんをきっと預かってくれる、とも思ってました。夾子さんも言ってました。子供たちを集めたりしているし」
母性的。
誰に言われても鼻で笑い、軽蔑したろう。信じられないことに、彼の口から出たその言葉は、それまでと別の意味とニュアンスを湛え、わたしを酔わせていた。
だが繰り返しよぎるのは、愛撫とキスではなかった。帰り際の玄関先で、彼はあの潤んだ瞳でわたしをじっと見つめると、ふいに耳に触れた。
その仕草を思い出すたび、身体の芯に震えがくる。
耳が自分の弱いところだったとは。さほど経験もないはずの彼が、なぜそれを察知したのか。
わたしが許すことを直感し、躊躇なく言い寄るさまは動物的で、同時にひどく知的にも思えた。
そんな物思いで仕事は進まず、メールを打つのがせいぜいになってしまった。もっとも夫のメールに返事を書いていても、また妹に対しても、罪悪感らしきものはまったく感じない。
あの愛撫はいわゆるベッドでの情事とはよほど違っていた。新鮮で、名付けようもない。少年は肌の隅々、全身の毛穴から発露する生気そのものだった。
つまりは男でなく、まだ子供なのだ。十九歳としてもどこか幼く、同時に老成した洞察力を備えた生命体。
そんな彼を、あの鈍い妹は自身の通俗な結婚願望のために供しようとしている。わたしとの繋がりを保とうとして、彼が夾子と型通りの交わりを果たしていると思うと、怒りがこみ上げた。
きっとあのとき、そんなことに使われる下半身を、わたしに触れさせまいとしたに違いない。思えばその潔癖さは痛々しく、わたしの身体はそれで疼くようだった。
一人暮らしに慣れたわたしにとって、こんな状態で同居人がいるのは辛かった。
が、美希は、あの出来事の翌朝から妙に落ち着き、火、水、木曜と学校の保健室で過ごしてきた。
水曜日の教室が始まる夕刻、学校から帰ってきた美希を捕まえると、二階の部屋に鍵をかけて閉じこめた。
月曜の事件については、水曜のクラスまでは伝わってないらしく、その日は何事もなく終わった。
だが金曜になって、美希はどうしても部屋にいようとしなかった。
ドアをがんがん叩き、その音は階下まで響いてきた。教室が始まる直前になり、わたしはついに美希を外へ引きずり出し、近くの公園に置いてこざるを得なかった。
レッスンが終わり、夜になっても、美希は戻らなかった。
まだ公園にいるのだろうか。
何度も連れ戻しに出ようとしかけ、思いとどまった。
帰るべき時刻は告げてある。ここでつけ上がらせてはいけない。
何も心配することはない、陽平に一泡吹かせたほど悪知恵が働くのだから、と自分に言い聞かせた。
「伯母ちゃん、お腹空いた」
夜の八時を過ぎ、玄関先に美希が姿を見せたとき、安堵の気持ちを悟られないようにするのがやっとだった。
「夕飯はもう済ませたわ。自分で用意して」
美希は冷蔵庫を開けた。数日前の残り物が入った保存容器を出すと、それを床に置き、鶏の唐揚げを手づかみで食べはじめた。
わたしは無言で容器を取り上げた。レタスが茶色く変色している。そのままゴミ箱に空けた。
美希は指をしゃぶり、恨めしそうな上目遣いで見た。
「犬を飼ってるつもりはないわ」わたしは言った。
「箸を出しなさい。今日の夕飯は煮物よ。台所の鍋に入っているから」
食器棚をいじらせれば手の油で汚れるし、炊飯ジャーの周りの落ちた飯粒を拾い集めるはめになる。だが、絶対に給仕はするまいと、わたしは決め込んでいた。
たとえ短い期間なりと、この家で過ごさせるなら、ともかくも自身のやり方を押し通さなくては。
だが、それもまた本当のところ、美希ではなく、自分の平静を取り戻すためかもしれなかった。
(第05回 第三幕 前編 了)
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*『幕間は波のごとく』は毎月03日にアップされます。
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