世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
四十二、筒抜け
不思議と緊張はしなかった。
「彼女さんですかー?」
そんな風に安藤さんが一言でも発すれば、事態は一気に複雑になる。崖っぷちの綱渡りだが、決して彼女はそうしないだろうと思えた。ぐちょぐちょへの距離感が似ているから、かもしれない。「なんかさあ、人身事故みたいで、全然電車来ないのよ」というナオの言葉に「マジかよ」と返しながら、「信頼」という二文字が浮かんだ。一瞬大袈裟な気がしたが、そんなに的外れでもないだろう。ぐちょぐちょに下駄を履かせるつもりはない。その二文字に幻想がないだけだ。
「もう家でしょ? これから行こうかな」
そんな軽い言葉で初めて焦った。安藤さんはこっちに背中を向けて本棚を見ている。
「ま、とりあえず電車来てから決めなよ」
「そうねえ。あ、充電あまりないんだった。一旦切るね。後でまたかけ直しまーす」
きっとこの声も聞こえているに違いない。この部屋に流れているのは、ぐちょぐちょを誤魔化すためにとりあえず点けたテレビの音だけだ。
「了解。じゃあ、また」
電話を切ってから数秒、俺はスマホを持ったまま安藤さんの言葉を待った。
「好きなんですね」
「……」
「本、こんなにいっぱい」
勝手に取り違えて言葉が詰まった。本か。欲しい言葉とは違ったが、そんなに悪くもない。最近は全然、と答えると彼女はまた本棚に向き直った。
さあ、これからどうしようか。出したばかりの6Pチーズのパッケージを爪で剥がしながら考える。今決まっているのはひとつだけ。――この部屋に三人でいることは避ける。
どっちと一緒にいたいか、みたいな俺の本音はこの際どうでもいい。そもそもユラユラ揺れすぎて俺自身にも分からない。まだぐちょぐちょしていなければ当然安藤さんにいてほしいが、し終えた今となってはナオに勘づかれないよう頑張るだけだ。そこに一貫性はこれっぽっちもない。
「この写真って……」
安藤さんが指差しているのは、壁に貼られたナオのユリシーズ。別に隠すこともないから真実を伝える。へえええ、と分かりやすい驚き方から読み取れるものは何もなかったが、彼女は俺から剥きたての6Pチーズを奪い取って元の位置に座り直した。そして缶ビールに口をつける。
「ひとつ、頼んでもいいですか?」
「?」
「そんなに難しいことじゃないです」
こういう時に美人は得だ。妙な威圧感がある。きっとこれまでも、無理な願い事を通してきたに違いない。
「私が帰った後、ずっとスマホをつなぎっぱなしにしておいて下さい」
大した理由もなく微笑みそうになった。慌てて歯を食いしばる。これって、どんな顔で聞くのが正解なんだろう。
「……それは通話をってこと?」
「はい。ムービーがいいです。あ、充電切れちゃうかな……。じゃあ普通の電話で、ハイ」
一旦、話を逸らしたいが難しい。「もう帰るの?」と訊くのも、「いればいいじゃん」と落ち着くのも違う。仕方なく求められている答えを返してみる。
「ずっと?」
「はい、ずっとです。多分泊まっていくんですよね。じゃあ、朝まで」
「……」
「そうしておけば、あの人から電話が来ても出なくて済むし。だから、ずっとです」
微笑んだその顔が綺麗だったから、触れようとして手を伸ばす。安藤さんは避けることなく、そのまま舌を出して俺の指を舐めてくれた。どうやら交渉成立しちまったらしい。
ようやく電車が動き始めたと、再びナオから電話が来たのは二十分後。「じゃあ、これからそっちに向かうね」という言葉に「気をつけてな」と答える。その少し前から安藤さんは帰り支度を始めていた。
「こういうゴミって今日捨てて大丈夫ですか?」買ってきた寿司のパックや、ビールの空き缶を指差している。「帰る時に捨てていきますけど」
「いや、いいよ。やっとくから」
「本当ですか? こう見えて私、抱えられるトラブルは一個までですよ」
そう言われると返す言葉はない。ただ、ゴミを出せる日ではなかったので、一つの袋にまとめて冷蔵庫の上に乗せておく。
「今度はゆっくりしに来ますね」
そんな言葉に振り返ると、もう安藤さんは狭い玄関で靴を履き終えていた。近寄りながら「うん」と頷くと、「約束忘れないで下さいよ」と小指を出される。一瞬、意味が分からなかったが、何十年振りかの指切りをした。
「俺からかければいいんだよね」
「はい。絶対ですよ? もし途中で切れたら私、変なタイミングでかけ直します」
アパートの通路で安藤さんは一度だけ振り返った。さっきぐちょぐちょしていたのが嘘みたいに綺麗な顔。手を挙げながら見送った後で、俺は冷蔵庫の上のゴミを取り、建物と塀の狭い隙間に突っ込んだ。
ナオが来るまでにしたことはシャワーと歯みがき。身体だけでもリセットしておかないと、必ずどこかでミスをする。そう思ったから、ちょっと焦りながら済ませた。
こうやって髪の毛が乾き切らないまま、部屋の真ん中でテレビを眺めていると、ここ数日、そして今日の慌ただしさが嘘みたいに思える。トウコさんの出現や、五十嵐先生との約束や、店長の入院。さっきまでここにいた安藤さんや、彼女と店長の奥さんの関係。数えているだけでゲップが出そうだ。
そのまま後ろに上体を倒して、大の字に手足を伸ばした。ああ、と老人みたいな声が漏れる。
そういえば明日のシフトはどうだっけな。まあ、とりあえず行けばいいか。どっちみち安藤さんも来るだろう。暇ならバックヤードで……。
そうだ、と気付いてLINEで電話をかける。これもナオが来る前にやることだ。すぐに繋がったが「もしもし」と呼びかけても返事はない。まだ外にいるらしく、雑踏のざわめきの奥から女性の声でアナウンスが聞こえている。しばらく待ってみたけれど、内容までは聞き取れなかった。そのままスマホを充電プラグに挿す。どこからどう見ても充電中。ちっとも変じゃない。
これから朝まで、この部屋の音は安藤さんに筒抜けだ。昔そんな小説を読んだ気もするが、実は呑み屋で聞いた風俗店のメニューかもしれない。繋がりっぱなしのスマホを見ながら、注意点は何だろうと場違いなチェックを始めたのも束の間、俺はストンと眠りに落ちた。目覚めるとすぐそこにナオの足首。合鍵で家に入ったのか、と気付くまで少し時間が必要だった。
「あ、起こしちゃった? ごめんごめん。ずいぶん疲れてるみたいだけど、どうした? それとも呑み過ぎた?」
そう言って笑う声も、全部安藤さんに聞かれている。そのことを考えると、鏡を突きつけられたように照れ臭く、どことなく不自由だ。
それでもやめようとしないのは、無論快適さが上回っているから。すぐそこの足首にいつ来たのか尋ねると「二十分は経ってない」と上から答えが降ってくる。結構寝ていたらしい。その間、俺でさえ聞いていないナオの独り言を、安藤さんが聞いたかもしれない。それは確かに不自由かもしれないが、俺の方に聞かせたいことがあるなら話は別、いや、真逆じゃないのか?
「はい、もし食べるなら一緒につまんで」
立てかけてあった小さなテーブルを出し、その上にスーパーで買ってきたポテトサラダとミニトマト、そしていなり寿司を並べるナオ。今日二度目の寿司だ。
「あそこのスーパーさ、助六なかったから、おいなりさんだけになっちゃった」
「こういうの好きだったっけ?」
「フフフ。あのさ、何で『助六』か知ってる?」
「は?」
「語源よ、語源。巻き寿司とおいなりさんで、どうして『助六』か。はい、クイズ」
今、不自由さを感じているのは、これが安藤さんに伝えたいことではないからだ。だとしたら、と考える。いったい俺は何を伝えたいんだろう?
「ちょっとお、ちゃんと考えてないでしょう。いいよ、教えてあげる」
「え、もう少し粘れよ」
「いいのいいの、私もちゃんと覚えてないんだから。なんか歌舞伎の演目にあるんだって」
「何が?」
「だから『助六』」
「意味分かんないだろ」
最高に馬鹿馬鹿しい。いつもなら間違いなく声を出して笑っているところだが、そうならなかったのは安藤さんに筒抜けだから、かもしれない。
「まあいいじゃない。そんな話をさ、さっき病院で聞いてきちゃったのよ」
「病院?」
「あ、そろそろ退院なんだけどね、お父さん。なんだかんだで一週間越しちゃったのよ」
いなり寿司を食べながら話すから声がこもっている。こんな感じでも、スマホの向こう側にはちゃんと聞こえているのかな。そんなことを考えたから、少し声が大きくなった。
「じゃあ保険も出るんだな」
「出るけど、一週間でしょ。それじゃ足りないと思う」
「まあな」
「でね、今日保険のこともあるから、ちょっと婦長さんのところに行ったのよ。あ、今はシチョウさんって呼ぶらしい。ほら看護師さんって言わなきゃいけないでしょ? だから師長」
今日のナオはよく喋るが、いつもこんな感じだろうか。もしいつも通りだとしたら、調子が狂っているのは俺の方。そしてそれは安藤さんのせいだ。
結局「助六」の語源がはっきりしないままナオは買ってきたものを食べ終え、コンビニで買ったという缶に入ったワインを美味しそうに呑んだ。
「何か三連休とかって、終わるのあっという間だよね。結局完オフなかったし」連休最終日の明日も、母親に会いに行くから忙しいという。「あれ、明日仕事だっけ?」
「うん、仕事」
「そっかあ。泊まるか帰るかお風呂で考えていい?」
「どうぞ、ごゆっくり」
ナオの入浴中、俺はスマホに耳をあてて向こう側の様子を聞こうとした。安藤さんも今、耳をあててこっち側の音を聞いているかもしれない。そう思って耳を澄ますが、本当に繋がっているのかと確認するほど静かで、彼女の息遣いすら伝わってこない。試しにテレビの音を消してみたが、やっぱり何も変わらない。
「……もしもし?」
思い切って呼びかけてみるが、それでも変化なし。どうやらこの向こう側に、安藤さんの耳はないようだ。
シャワーか、トイレか、もう寝てしまったか。もしかしたら、そもそも聞く気などなかったのか……。その可能性もなくはないか、と思いながらもう一度呼びかける。
「もしもし?」
少なくとも今、この部屋の音が筒抜けになっている不自由はない。ちゃんと聞いてもらえているか、という不安があるだけだ。
結局ナオは泊まっていくことになった。朝七時起床を謝っていたが、それは別に構わない。缶ビールと缶ワインを一本ずつ飲んでから、灯りを消して布団に身体を横たえる。その間もずっと筒抜けのはずだが、さっき確認した限りでは、それが届いていないかもしれない。宙ぶらりん。そんな気持ちのまま、ナオの身体の熱を感じている。
当然熱は伝わるから、俺の内側の温度も上昇していく。風呂から上がったばかりなのに、また汗ばんできた肌を嗅ぎ、舐め、むしゃぶりつく。目が慣れる前に、しがみ付き捩じ込んで全部吐き出そうと腰を振る。
「ねえ、どうしたの? ねえ、ねえ」
歯をガチガチとぶつけながら口を塞ぎ、見えないはずの青い静脈を指でなぞる。ナオの声がじっとりと湿り、楽に出し入れできるようになるまで時間はかからなかった。
そんな調子だからたどり着くのも早い。数時間前に吐き出したのが嘘みたいにナオの脇腹の辺りを汚し、そのまま仰向けに寝転がっても、まだ目が慣れていなかった。
「またお風呂入らなきゃだね。一緒に行く?」
うん、と大きな声を出してみたが、安藤さんの耳には届いただろうか。
一足先に風呂から出た後、スマホに耳をあて向こうの様子を探ろうとしたが、結局何も分からなかった。
「もしもし?」
一度だけ呼びかけてみたが返事はない。でも不思議と電話を切る気も起きなかった。今この瞬間も、安藤さんはちゃんと起きていて、こっちの音に耳を澄ましている可能性はある。だったら、とそのままスマホを戻して寝転がる。
――今日はもう何もしなくていいんだ。
そう思ったことがスイッチになって俺は眠りに落ちた。そして次に起きた時も部屋は暗かった。夜だ。隣でナオが寝ていてホッとする。まるまる一日寝ていたわけではなさそうだ。
今何時だろう? そう思ってもスマホは充電プラグに挿していて、手を伸ばしても届かない。起き上がるとナオまで起こしてしまいそうだし、時計を読めるほど目が慣れるにはもう少しかかる。どうしようか、と考え始めたその時だった。確かにコンコンとノックする音が聞こえた。
「……」
音の方向、そして感触から、きっとノックされたのはこの家のドアだ。胃の辺りがキュッと絞まる感じ。こんな夜中に誰だ? まず思いついたのは安藤さんだが、すぐに違うだろうと確信できた。さっきも電話は繋がっていたし、ここに来る理由はない。だとしたら安太か。この間の電話が変な感じに終わったから、わざわざやって来たのかもしれない。
一分ほど経ち、ようやく時計が確認できた。午前三時五分。さすがにないか、と思った瞬間、もう一度コンコンとノック音。しかもさっきより強めだ。どうしようかと迷っているうちに立ち去ったらしく、その後ドアがノックされることはなかった。
夢じゃないよなあ……。そんな気持ちが聞こえたかのように、ナオが口を開く。
「絶対に今、ノックしてたよね?」
ああ、と変に上ずったこの声も、ちゃんとスマホの向こう側に届いているはずだが自信はない。それほど弱々しい響きだった。
(第42回 了)
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