ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
9(前編)
梓川の左岸ルートを栞は黙々と歩いてゆく。瑠璃と仁はただ、それについてゆくのみだった。
もう昼近い時刻だが、肌寒い。五月の上高地は最高気温がせいぜい十五度、それも標高千五百メートルの辺りの話だ。横尾山荘の付近から涸沢へ入り込み、北穂高岳を目指すなら、真冬の仕度が必要だろう。その登山に鮎瀬が加わった時分は秋で、準備を怠っていたとは思えない。それでも足を滑らせて沢に転がり落ち、身動きがままならない状態では、若い者でも一晩で絶命する。人は寒さや冷えに対し、それほど脆いのだという。
栞はどこまで行く気なのか。瑠璃は不安を感じた。行くのはいいが、そのぶん戻ってこなくてはならない。車の規制の厳しい上高地では、いざとなればヒッチハイクというわけにもいかないのだ。
仁はときおりカメラを周囲に向け、素早くシャッターを切る。そんなことをしていても、見失うことのない栞のペースではあった。
やくざ者。
フェアグラウンド・ホテルで瓜崎が一緒にいたのが、そういった類いの男だった、と仁の口から聞き、瑠璃が思い出したのは栞の言葉だった。
二十年以上も前のことだ。とはいえ何があったのか、ここまで混乱し、言う人ごとに話が違うというのは、当時から多くの噂や憶測があったからに相違ない。
鮎瀬が上高地でトレッキング中の事故に遭い、死んだ。本格的に山に入る前、早朝に単独行動で外れ、午後から仲間と合流しようとしている途中だった。それについては事実として、異論を聞かない。ならば警察、鮎瀬の遺族にとって大きな問題は何もない。が、瑠璃にとって問題なのは、その単独行動の最中、鮎瀬が会ったのが誰で、どんな話をしたか、だ。
会ったのは瓜崎だ。そのことは本人も認めている。どんな話をしたのかは瓜崎にしかわからない。今となっては、それは仕方がない。
しかし、鮎瀬が上高地のホテルで会った男を、やくざ者だ、と言っている者がいる。瓜崎でなく。あるいは学生だった瓜崎がまさか、やくざ者だったというのか。
栞は、それをボンから聞いたと言う。栞の耳に入る経緯として、他にはあり得ないだろう。
ボンにはメールでその件を訊いてみたが、都合が悪いのか、興味がないのか、返事はない。瑠璃とは接触するなと、あの四人から釘を差されているのかもしれなかった。
青山のカルチャー教室で、最終の講座があった日に、瑠璃は栞を呼んだ。講義には出てこなかったものの、受講生への挨拶が済み、施設の職員から花束を受け取っているとき、栞は教室に入ってきた。
瑠璃は栞を、機材を片づけている仁に紹介した。
「二十二年前、上高地で亡くなった同級生の後輩よ」
栞には、「鮎瀬くんが亡くなった日、上高地のホテルで会っていたのは瓜崎という同級生よ。瓜崎くんは最近、行方がわからなくなってるの。この彼は以前、目白のフェアグラウンド・ホテルで瓜崎くんと偶然遭って、そのとき妙な男が一緒にいたんですって」
上手い言葉の見つからない、それこそ妙な紹介だった。
その七分刈りの妙な男は、やくざ者らしいの。上高地で鮎瀬くんと会っていたのも、やくざ者だったっていう噂があるって、あなたは言ってたわよね。
と、そんな説明をする代わりに後を仁に任せ、瑠璃は着物を脱ぎに別室へ向かった。
着替えを済ませて戻ってくると、仁と栞は教室の隅で話し込んでいた。すっかり打ち解けた様子で、仁はスケジュール帳を出し、あれこれ日時を述べ立てている。
「何の相談?」
「上高地へ行くんです」と、栞は視線も向けずに答えた。
「いつがいいですか」
仁は、スケジュール帳をめくりながら訊いた。
「僕は来週以降の平日なら。瑠璃さんも、この講義が済んだから、ちょうどいいですよね」
「こりゃ、きれいだな」
仁の呟きとともに、シャッター音が響く。
梓川の浅瀬は水晶のような飛沫を上げ、鴨が二、三羽ずつ戯れている。仁も意外と山歩きに慣れている様子で、周囲の草花の中からも、珍しそうなものを選んで撮っていた。
一方で瑠璃の足元は、おぼつかなくなっていた。脚力よりむしろ、靴の問題だった。ウォーキングシューズを用意してきたつもりだったが、町中を歩くためのものと山歩き用とは違うのだ、と今になって気づいた。仁は普段と同じスニーカーだったが、栞の足をがっちりと固めているトレッキングシューズに比べたら、瑠璃のはバレエシューズじみて華奢にみえる。
「大丈夫ですか?」
ファインダーを覗きがてら、仁のかける声はおざなりだった。それもそのはずで、明神橋に辿り着くまでは、まだハイキングコースという範疇の行程だった。周囲にはガイドに連れられた高齢者のグループもいた。ここを行く者たちは皆、明神池で休憩し、その後は板張りの通路で繋がった右岸を通って、それぞれ宿泊のホテルへと戻ってゆく。
が、それにしては、と瑠璃は嫌な予感がしていた。
栞の格好はやたらと堂に入っていた。昔取った杵柄なのか、袖のないダウンも機能性の高そうな厚手のボトムも、五月という下界の季節を完全に無視している。上に向かう確信にみちた目的があるようだった。梓川左岸の散策コースに過ぎない今、ここにかぎって言えば、靴はともかく全体のファッションは、軽いウィンドブレーカーにジーンズ姿の瑠璃よりも場違いだ。
重装備の栞の淡々とした足取りは、当たり前のように明神池を通り過ぎて行きそうだった。山の門と呼ばれる徳沢を越え、あのとき彼女らが留まった横尾山荘から、鮎瀬が事故に遭った涸沢の先の中腹へと、そのまま入り込む勢いだ。
しかしもはや、その現場を特定することなどできはしない。二十年以上も前のことで、地元の警察に記録が残っているどうかもわからないし、栞も当時は大学一年生で、事故の場所を確認するどころではなかったはずだ。
「でもなんか、変でしたよね。あの支配人」
仁はカメラを持つ手を下ろすと、瑠璃に歩調を合わせて言った。
「何が?」
「こっちが瓜崎って名前を出すたびに、表情が固まってたっす」
そうだったろうか。もっとも何十年も、毎年のようにホテルを訪れる常連客の名を聞けば、多少は緊張もするのではないか。
どうかなぁ、と仁は呟く。
「行方不明なんだけど、ここへは来てないか、とか訊いたんなら、そりゃ警戒も緊張もするっしょ。でも、そんなドジは踏んでないっすから」
確かに、仁はまた結構な芸をみせた。
上高地のシーズンが短いせいか、平日だというのに、ホテルのラウンジは宿泊以外の一般客で溢れかえっていた。彼らに混ざり、瑠璃たちはテーブル席で簡単な食事をした。仁は年輩のウェイターを捕まえると、「瓜崎さん、まだかな」と尋ねたのだった。
「はい?」
ウェイターより、瑠璃の方がぎょっとした。
「瓜崎さん、泊まってるでしょ」
ラザーニャをつついていたフォークの先で、仁は床を指した。
「ここで待ち合わせなんだけど、遅いから食べはじめちゃってさ。今、部屋にいるのかな」
少々お待ちを、とウェイターは立ち去り、木の階段を四、五段下りて取っ付きのフロントに向かう。
「瓜崎様は、本日、昨日とこちらにお泊まりではありません」
そんなはずないよ、と間髪を入れずに仁は応えた。
「予約したって、言ってたもの」
代わってすぐにスーツ姿の男が着た。支配人、とプレートを付けている。
「瓜崎様が、こちらにお見えで? 私どもにはご予約いただいてないのですが」
おかしいな、と仁は首を傾げてみせた。
「ここ以外に、泊まるはずないし。そうでしょ?」
はい、いつも、と支配人は一瞬頷きかけ、動きを止めた。
「予約が取れなかったのかな。そういうことはあるよね?」
「ええ、はい。でもこの時季ですと、」
ああ、と、仁はそれを遮った。
「前に宿泊したとき、予約したって言ってたんだ。電話じゃなくて」
支配人は、思い出すように宙を眺めている。
「いつだろうな。シーズンオフになる前か、いや、四月かな」
ああ、はいはい、と支配人は声を上げた。
「確か、四月の半ば頃、お見えになって」
「そう。四月に行ったって言ってた。あの、彼も来るって。なんて名前だったかな。ほら、七分刈りのごま塩頭の」
そんな連れを見た覚えがないのか、それとも我に返ったのか、支配人は応じなかった。
「しかし、そのときには、本日の予約はお受けしませんで」
「ああ、そう? 他の人が受けたんじゃないの。記録のミスとか」
「いえ、ございません」
支配人はきっぱり言った。実際、今日来てないのだから、そちらの思い違いだ、と決めつける様子だった。無論、仁のでまかせなのだから、その通りに違いなかった。
梓川の水面には、うっすらと霧がかかっている。
仁はすでに、カメラを構えるのは止めていた。これだけの繊細な美しさを撮そうとするなら、いずれもっと河原に近づき、時間もかける必要があるのだろう。
仁が支配人にカマをかけたときに言った、七分刈りのごま塩頭というのは、目白のフェアグランド・ホテルで、瓜崎と一緒にいた男の風体なのだそうだ。
「その男が、やくざ者だって、どうしてわかったの?」
見覚え、あるっすよ、と仁は言った。
「以前、バイトで写真週刊誌のアシスタントしてて。巨額の証券詐欺事件に絡んだ総会屋の自宅を張ってる先輩んとこに、カツサンドの差し入れに行かされたんっす。そのときちょうど、人の出入りがあって」
七分刈りの男を見けたのだ、と言う。
「何年か前っすからね。頭はもっと黒くて、ごま塩って感じではなかったっすけど」
「よく覚えてるのね。ちらっと見ただけで」
「普通でしょ。満員電車の中とかじゃないっすよ。もともと、まっとうな奴らじゃないと思って眺めてたんだから」
しかしやはり、仁は人の顔に関しては、尋常でない記憶力が働くのだと言う。それが人並み外れていると気づいたのは、最近らしい。
「子供の頃からっすね。なんで忘れられるのかって、そっちの方が不思議なんだけど」
「やっぱり、カメラマンの血筋かしら」
「親父はまあ、ご承知の通り、ヨーロッパの皿とか、足の長い女とかしか撮りませんが。俺だって、きれいな女は撮りたいと思うけど。そうじゃない顔も、頭の印画紙に残っちまう」
瓜崎の顔も、ごく微細なところまでくっきり覚えていた。
「変な顔でしたね。女みたいに色白で唇が赤くて。なのに頭の骨格が大きくて」
最近の瓜崎からは、そんな特徴が隠れたように思っていたが、仁の目のファインダーは歳月を取り去ってしまうようだ。
「頭が大きいのは、たぶん脳味噌が詰まってるからだわね」
「なのになんで、やくざ者なんかと一緒にいるんです?」
それが仁の好奇心の源らしかった。それがゆえに瓜崎の女房の顔まで見て、また今、上高地の川縁をともに歩くはめにもなっているのに、苦に思う気配もない。ただ面白がっているわけでもなく、出来事すべてを吸収している、という言い方がぴったりだった。若い。だから何も構わない。ようするに、そういうことだ。自分たちもそうだったろうか、と瑠璃は考えた。
上高地は神降地などとも著し、その風光も空気感も下界と隔絶された美しさだが、神が降りたとされる明神池は水の淀んだ泥沼で、およそ聖地とは思えない。
池の端から点在する小岩を渡り、栞は池に沈没せんばかりに黒い水面を見つめている。
瑠璃は板張りの通路から動けず、木々の間から栞のその様子を眺めるばかりだった。脇を回り込み、仁が切るシャッター音が聞こえてくる。栞を撮っているらしい。
泥沼に吸い込まれそうに水辺に立っている栞の姿は、確かにどこか神々しいものがある。神というのは、この世の泥沼にしか降臨しないのかもしれない、と瑠璃はふと思った。
「変わってない」
危なっかしく岩を伝って、池の端から戻ってきた栞はそう囁いた。
二十数年前、あのときも山に入る前に、仲間とここへ来たのだと言う。一年生の女の子たちを連れて観光コースを廻り、自信のある有志がさらに穂高を目指す。そんな緩いグルーピングだったなら、鮎瀬が一人でキャンプを離れ、ホテルからまた合流しようとした気ままも頷けた。
明神池の参道入口にある小屋風の料理屋で、三人は遅い昼食を取った。空に薄く雲がかかり、一時的なものだろうが、小雨がぱらついてきた。屋外の席には、藁葺きの屋根がかかっている。
栞は物思いに耽り、仁はカメラをいじっていた。瑠璃はただ、足が痛かった。
「なんで、あんなにウマが合っちゃったの?」
栞を紹介した後、瑠璃は仁に尋ねたのだった。
実々といい栞といい、自分と歳の変わらない女が、こんな子供に籠絡されていくとは。彼女ら自身が、子供だからではないのか。
「ウマって、そんなんじゃ、なくて」と、仁はぶつぶつ言った。
「でも、栞さんって、かわいいっすね。実々さんと一歳違いと思えないな」
「わたしともよ」と瑠璃は言う。栞は無論、少女めいてはいるが、二十歳前後の男の子に、かわいいと言われるのは承伏しかねる。
そうじゃなくて、と仁はまた、ぼやくように呟く。
「鮎瀬って人のこと、本当に好きだって、わかるから。実々さんって結局、何が好きで、何を考えてるやら。だけど歳上の女性だから、こっちはそんなこと気にしないや、って具合になっちまう」
とりあえず、やれさえすれば? と、品のない言葉を口に出すのを、瑠璃は堪えた。
瑠璃にすれば、栞の方がよほど何を考えているやら、だ。
しかし日本橋の店のショーウィンドウを破壊したことも、栞と亭主とのやりとりにしても、仁に話したところで、純愛からくる混乱などと捉えかねない。二十歳の女の子なら混乱でも、四十女が同じことをやるのは奇態な快楽を求める計算に決まっている。が、そんな快楽の存在自体、仁には想像つかないかもしれない。
いずれにせよ、仁にそんなことを話して聞かせる必要はない。仁が栞をどう美化しようと、瑠璃自身、くだらぬ嫉妬心とは無縁のはずだった。
「あなた方は、この先も行くの?」
瑠璃は、ヤマメの塩焼きの背を箸で潰しながら尋ねた。
とにかく上高地の、例のホテルへ。意気投合した栞と仁の、それが目的だったはずだ。瓜崎と鮎瀬が込み入った話をしたなら、瓜崎の部屋でだろうと思われるが、最初に瑠璃が聞いた通りなら、あのラウンジで昼食をとりながら、だった。
ならばその場所で、瓜崎のホテルにおける常連ぶりも確認し、目的は果たしたと言えよう。そして仁が探りを入れて判明した通り、瓜崎は今、あのホテルに潜伏しているのでもなさそうだった。
(第17回 第09章 前編 了)
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