ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
7(後編)
「鮎瀬?」
まるで思いがけない名を初めて聞いたかのようだった。たった今さっき、映画の話をしたではないか。
「山で死んだ、あの鮎瀬か?」
山で死んだ。何という言い草だ。
「そうよ。あなただって、その山にいたんじゃないの。上高地のホテルに」
「うーん、あのホテルが山かな」と、瓜崎は呟く。「家族がしょっちゅう、骨休めに行ってた常宿だからね。崖から落ちるような危険な場所なら、山の中って思うが」
「何を話したの?」それ以上、聞いていられなかった。「鮎瀬くんが亡くなる直前に、何の話をしたのって尋ねてるのよ」
瑠璃自身も意外だった。瓜崎に会った目的とは、高梨が言い触らしている根も葉もない文言の広まりや、警察の動きを教えてもらうことではなかったのか。が、なぜか口に出した途端、二十数年前の鮎瀬の有様を何としても問いただす気になっていた。
「覚えてないよ」瓜崎は急に吹き出した。心底、可笑しそうだった。
「二十年以上も前のことじゃないか」
瑠璃は思わず絶句した。二十年以上前。それはその通りだ。だが、何かが違う。
「最後に話したのは、あなただったのよ」
その鮎瀬の時は止まっている。彼は二十歳のままなのだ。
「どうして忘れられるの?」
人が亡くなったのだ。前後のやりとりを思い返し、反芻するものではないのか。自省と後悔、それを打ち消す自己弁護を交えて。姫子の死に関して、多少は瑠璃もそうだったように。
「意味がないからさ」
瓜崎は言い放った。「最後に話したのが僕だって、誰にわかるんだ? 山道で遭った人がいるかもしれない。その人も僕も、たまたまあいつと話しただけだ。最期の言葉になったとしても単なる偶然で、それが遺言ってわけじゃない」
正しかった。瓜崎の言うのは、いつだってその通りだ。
「でも、わたしには意味があるわ」と瑠璃は言った。「二人で話したのは、わたしについてだったんでしょ? あなたがそう言ったんですって? 少なくとも皆、そう思ってるのよ」
「だったら皆に訊けばいい。まだ僕の記憶が鮮明な頃、皆に話したかもしれない。もし、それを詳しく覚えてるって人がいるんなら」
「不自然だわ」瑠璃は言った。「細かい内容は忘れたとしても、どんな話だったかも覚えてないなんて。他人が言うのは信用できないわ。だから、あなた本人に訊いてるのよ」
「だからこそ、答えるべきじゃないと思ってさ」と、瓜崎は言う。
「正確を期して尋ねられたって、責任は持てない」
「あなたがわたしについて、悪い噂を流したんじゃないの? それを鮎瀬くんが問いただしに行った、って当時は聞いたけど」
そんなことはないさ、と瓜崎はまた吹き出した。
「僕がどうして、君の悪い噂なんか。いろんな話はしたと思うよ。そりゃ女の子の話もしたんじゃないか。そもそも鮎瀬は、君の噂をそこまで気にかけるような関係だったのか?」
そう言われると返事に詰まる。それに瓜崎が瑠璃の噂を流している、というのもまた、当時の噂に過ぎなかった。
「奴は山登りのサークルかなんかで、たまたま近くに来てたんだったろ。僕と鮎瀬もさして親しくはなかったけど、学生の頃だからね。暇にまかせて、そんなこともあるさ」
瓜崎の述べるセンテンスの一つ一つに、反論の余地はなかった。学生時代の行き当たりばったりの感情や行動を、今の分別がついた頭で解釈したところで、理屈に合わなくて当然だ。
「だからさ。意味がないんだよ。二十年より前のことをほじくり返したって。法的にも二十年経てば万事、なかったことになるんだ。時効とか何とか以上に、消滅しちまうんだ」
「消滅?」
チーズを口に入れながら、瓜崎は掌を振った。
「ま、法律とかはともかく僕のポリシーでね。どうせ忘れてしまうことは、最初から忘れることにしてる。だってそうだろ。ストレスを感じる意味がない」
「旅の恥は掻き捨ての、つまり日常版ね」
そうかもしれない、と瓜崎は笑った。
「うまいこと言うね。空間軸と時間軸を変換したわけだ」
「無駄のない人工知能だこと」
瑠璃は認めた。「でも世の中には、秋葉原で売ってるような外部記憶装置がごろごろしてるのよ」
うん、と瓜崎はあっさり頷いた。
「で、いろんなことを勝手に記憶してて、頼みもしないのにアクセスしてきてさ、データを読み込ませようとする」
「その通りよ。しかも、それがデータ化けを起こしてる可能性がある。だからオリジナル・データで確認しようとしてるの」
「珍しいことじゃないさ。拒否すればいい」
「わたしのセキュリティ・ソフトはバージョンが古くてね、残念ながら。鮎瀬くんが上高地のホテルで会ったのは、やくざ者だったとも聞いたわ。そいつに崖から突き落とされたんだって」
明確な記憶があるのは、そこまでだった。
あの湾岸のビアホールで悪いものを口にしたか、させられたにせよ、いきなり意識を失うというのは解せない。それは脳卒中とか、そういった症状ではないか。だが襲ってきた吐き気は、タクシーに乗って意識を回復した後のことだったし、少なくとも病院の簡易な検査で異常は見つからなかった。
「貧血とか、そういったものかもしれませんね」と医者は言い、採血もした。貧血なんて、食事中でも起こるものなのだろうか。
「疲れが溜まりますとね。そんなこともあるでしょう」
若いとも経験豊富ともつかない、中途半端な年格好の医者はそう応じた。亮介の友人が勤めている総合病院で、連休の谷間に当たる火曜に診てもらい、検査結果がすぐ聞けたのはよかった。
瑠璃の体調は、週の半ばには完全に戻っていた。雑事を放り出していたことが何かしらの禊ぎのようで、洗濯や掃除から徐々に身体を動かしていった。
その頃合いを見て、満を持したというわけでもないが、出しそびれていた二百万円を舅姑に渡し、栞の一件にけりがついて肩の荷も下りた。
どうやら自分のペースが取り戻せそうだった。土曜日には青山での講義がある。ヤマ場でもある冬の回だ。明日のクリスマスの回と、最終日の正月の回、どちらにもパンフレット用の撮影が入る。先週はゴールデンウィークの連休初日にかかって抜けたので、瑠璃の病気で講義延期というはめにならずに助かった。
「その服、いいですね」
早めに教室に入ると、川村仁が挨拶もせず、いきなり声をかけた。
すでに照明がセットされ、花材や食器が見栄えのする位置に置かれている。もっとも実際にシャッターが切られるのは、受講生が着席し、講義が佳境に入った頃だ。それまで花材や食器の位置は自在に動かし、カメラを意識せずに扱った方がよい。
「そう、いいでしょ?」瑠璃はにっこりした。
「ええ。東欧とか、ハンガリーのクリスマスって感じです。修道院の隣りに住んでます、みたいな」
カメラマンらしく、仁はあまり言語能力豊かではない。そのぶん苦心して絞り出す表現は感覚的で、ファッション誌のキャプションに使えそうなときもある。あの新宿のデパートで衝動買いした服だったが、「女子学生のようだ」と言われるより素敵だった。
カメラマンからのダメ出しに備え、他に何着か、ジャケットも含めて持ってきていたが、用はなさそうだ。メイクも普段通りで問題なく、仁は軽快に準備を続けている。
「着物のときは前もって見せてもらって、いいっすかね」
いつも目の前のことでいっぱいの仁が、次回の段取りに気を回すなど、今日はよほど余裕があるらしい。
「いいけど。そんなにたくさん持ってないわよ」
最終回の撮影は、お着物で、というのは仁の主張だった。ぴったりのものがなければ、姑に借りに行かなくてはならない。正月がテーマの講義を五月にやるのだから、選ぶのには悩むだろう。
大丈夫っす、と仁は請け合った。
「瑠璃先生のお着物姿、ってだけで。俺、それ見たいだけっす」
そんな上手口をいつの間に、と瑠璃は笑い、振り返った途端のことだった。三、四人が教室に入ってきた。
「すみません。今日は入室はまだ、」
瑠璃は一瞬、言葉を失った。
ずかずかと近づいてきた背広の男は、高梨だった。実々と柿浦。最後にのっそり入ってきたのは寺内だ。
「どうして。どうかしたの?」
どうして、どうかしたの、とオウム返しに高梨が呟く。
「どうかしたの、はこっちのセリフだよ。先生」
高梨は瑠璃を睨めつけ、教壇に掌を突いた。
「ほらぁ。いるじゃないか、ぴんぴんして」
高梨は三人に向かって、呆れたように言い放った。
何のことか、わからない。寺内は視線を外し、教室の後方で腕組みをして考えている。柿浦は疲れ果てた顔つきで、やはり瑠璃と目を合わせない。実々だけが大きく瞳を見開き、瑠璃と仁を探るように交互に眺めている。
「あのメールは何なの?」柿浦が顔を上げ、訊いた。
「メールって?」
「先週、金曜の晩に送ってきたメールよ。あなた、瓜崎くんと会ってたでしょ?」
勢い込んだ口調で実々が言う。気のせいか、そばにいる仁に聞かせたがっているかのようだ。
「会ったけど。だって私と話したがってるって、あなたが伝えてくれたんじゃないの」
「で、金曜の晩に二人で会って、何があったの?」
「何って、別に、」瑠璃の語尾が途切れた。
何かあった。何もなかった。どっちだろう。
「これよ」
柿浦が携帯を渡した。「これはどういうこと?」
瑠璃は携帯の画面を読んだ。差出人は瑠璃になっている。「今、彼と」というタイトルだ。
「今、彼と品川の辺りにいます。このまま消えようと思います。何だか眩暈がして、自分が誰かも、もうわからない」
「なにこれ」瑠璃は呟いた。「こんなメール、送ってないわ。だいいち、どういう意味?」
「それを訊こうと思ってさ。返信したんだけど、読んだ?」寺内が初めて口を挟んだ。
瑠璃は大テーブルに近づき、自分のハンドバックから携帯を出した。仁はカメラ機材に手をかけたまま、彫像のように固まって見つめている。
「何も来てないわ」
「電話もしたわよ。何度も」と柿浦が言った。
「いつ?」
ええと、と柿浦は視線を彷徨わせた。「連休が空けてからだから、この水曜と木曜。青葉台のお家にも」
「携帯、渡してもらおうか」高梨が威圧的に言った。
「どうして? 嫌よ」
大きな声を上げた瑠璃の後ろに、寺内が回り込んだ。
「いっしょに見よう。勝手にいじったりしないよ」
なだめるように低く囁き、肩を叩いた。瑠璃は携帯を開き、寺内の言う通り操作した。
「やっぱり着信拒否になってる」
寺内は舌打ちした。「この四人、全員だな」
送信ボックスを開けさせると、寺内は瑠璃の手を退け、自分でボタンを押す。
ないな、と彼は呟いた。「送信済みボックスから、あのメールは削除されている」
「さっきのメールのこと? 柿浦が見せてくれた?」
「そう。この四人全員に送られてきた。君の携帯アドレスからだ」
「それで返信をくれたのに、着信拒否になってたの? わたし、そんな設定してないわよ」
「してないって、じゃ、誰がしたんだ。亭主もいないし、あんたの携帯を触れるのって、誰だよ」
ふと見ると、すでに受講生たちの姿が廊下にちらついている。高梨が、わざと声を張り上げているのは明らかだった。
「こっちの着信日時は、金曜の夜、十一時一分よ」と、柿浦が言った。「そのとき、まだ瓜崎くんと一緒にいた?」
ええ、と瑠璃は頷いた。「だけど、」
だけど。
そうだ、その頃だ。なぜか意識を失い、店を出てからタクシーに放り込まれていた。記憶がない二、三十分の間。
「彼って、誰のことかと思ったわよ」
実々がうんざりしたように息を吐く。「駆け落ちの報告なんか、わざわざしてくれちゃって」
そう言いつつも、実々は目の端で仁の姿を捉えようとしている。
「最初はね、だから心配なんかしてなかったのよ」と、柿浦が取りなすように説明した。「何のことやら、って思って。ただ、瓜崎くんがいないっていうから」
「いない?」
何の間違いかと、携帯をいじっていた瑠璃は顔を上げた。
「そう」と、高梨が銅鑼声を張り上げた。
「金曜の夜から帰ってない。二人で駆け落ちしたんじゃないなら、瓜崎はどこにいるんだ?」
「知らないわ」瑠璃は言った。「会って話をして、十一時過ぎに品川で別れたのよ。わたしは一人でタクシーに乗って」
「出てもらえませんか」
仁の声が響き、撮影用のライトが点いた。あまりの眩しさに、四人は腕を上げて顔を背ける。
「もう時間ですから」
仁は瑠璃と高梨の間に割って入った。胸でこづくようにして高梨を押し、四人は後方へ下がった。寺内から順に教室を出た。柿浦が視線を逸らしている一方、実々は目が勝手に動いてしまうかのように、やはり仁を一瞥して出て行く。
「最後に会ったのは、あんただ」と、廊下から高梨の声が聞こえた。
(第14回 第07章 後編 了)
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