エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングス。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングスの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第五章 大部屋の面々
むしろ、監督官からはしょっちゅう、いや週二回くらいかな(俺がノートン=ハージェス銀行から小遣いの引き出しをするようになった途端ね)身なりのことで注意を受けた、曰く貴様は良家の出だろう、(つるんでる連中とはちがって)ちゃんと教育も受けている、きちん清潔な格好をして不潔で無学な連中に輝かしい模範を示してもらいたいんだがね――で声をひそめて「病棟」は貴様や貴様のダチにはずっと居心地がいいぞと言い添える、ふたりだけで一人前の大人らしく暮らせるし食事も部屋でとれる、食堂はいやだろう、食べ物も口に合うはずだ、うまいぞ、特別に料理されたものだからな……締めて(と監督官はチップをねだるグランド・セントラル駅のボーイのようにうずうずと落ち着かない掌を差し出して云った)これっぽっちでいいんだがね、たしかにその気になればその場で払えたが――かわりに鼻で笑ってやった、いくぶん身勝手ながら我が身かわいさがまさってさすがに窓から蹴り落とすのは自粛したよ。床屋の名誉にかけて言わせてもらえば、彼は一度だって取引を持ちかけたりしなかった、監督官による「立身」論講座(と俺とBは呼んでいたんだ)はといえば俺たちみんなの慰みものだったけれどもね、口に戸は立たず、あいつの地獄耳にも聞こえていただろうさ。床屋は三十前後の物静かな二枚目だった、目つきが剃刀のように鋭くて――あと彼について知っていることといえば、若きロシア人と床屋がある日ふたりして、中庭を抜けてまっすぐ屋内に入る代わりに、石壁と炊事場の角に設えられた小さな戸口を抜け道にしたこと、その後彼らを見ることは二度となかったのでどうやらうまくいったらしいということだけだ。たえず抜かりのない我らの身柄確保の守護者たちも、獅子の心を宿す看守たちも、何が起きたのか気がついたのは数時間が経過したのちのことだった、十フィートの壁がよじ登られて、それ以下の障害はつぎつぎ突破され、娑婆への逃走が(非国民根性まるだしの御仁ならこう言いたくなるはずだ)連中の目と鼻の先で断行されたのにもかからわずだ。しかし――杳として知れずだ。フランス政府がわざわざ二人を逃亡させたのかもしれないだろ、ついに――その比類なき諜報組織によって――床屋と若き同胞が霧吹きになみなみ入ったTNT爆薬で監督官の命を狙っていることを突き止めたがためにさ。どんなこともありえるんだよ結局。事実として、極上品の剃刀一組(立身奨励派の監督官から策士の理容師に公衆衛生のためにと提供されたものだ)と炊事場の備品であり床屋がじゃがいもの皮むきのために借りていたナイフは――彼は一日交替の皮むきで、俺たちみんなにいつも支給されていた特別仕様の安全調理具に対して、おれの腕前と仕事をばかにしてやがるとぼやいていたっけ――オルヌの幾分重苦しい空気のむこうに床屋自身とともに消えたんだ。大部屋にいる彼の姿ははっきりと覚えているよ、ナイフで丁寧にりんごを剥いて若きロシア人と分け合っていた。脱走決行の日の夜――俺たちの士気向上のために――二人の逃亡者は無事に町の境を越えようという手前で密告されたとご丁寧に伝えられた、その後再送還されて、諸々に加えて、終身強制労働の刑に処された――あとは(賢者は一言にして足る)、耳がありゃあな云々。さらに夜間点検が設けられることになった、看守は三度俺たちの人数を数え上げ、その合計を三で割って立ち去った。
(第33回 了)
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