僕の住む街に、隠れ家のようなブックカフェがある。そこで僕は何かを取り戻してゆく。導かれるように求める何かに近づいてゆく・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる、本格的日本語小説処女作!
by 文学金魚
僕は物語の世界に遊ぶようになった。本を読み終えて、一言、二言クララさんと話し始めるとそれは起こった。ごく自然に物語の世界に入って、すべての出来事を生き始めるのだ。人も物も風景も鮮やかだった。だけどそれは時空堂以外の場所では起こらなかった。クララさんと時空堂がなければ、僕は物語の世界に入ってゆけないのだ。
「僕は世界のすべての物語ではなく、ただ一つの物語を見にここに来ているような気がするんだ。その物語の中にはクララさんもいるはずだと思うんだけど」
思い切って話すと、直前まで読んでいた本のことをすっかり忘れてしまっていた。
「そうだと素敵ですね」
「僕をその物語に連れて行ってもらませんか」
「いいですよ」
あっけないほど簡単だった。どうしてもっと早く、お願いしなかったんだろうと思った。気がつくと僕は少し冷たい風を頬に感じて、山の展望台のような場所に立っていた。遠くの街の灯りを見下ろしながら、山頂に向けて歩き始めた。登らなきゃならなかった。でも山道は真っ暗じゃない。時空堂のステンドグラスの灯りのように、薄い緑色の光で照らされていた。
オーロラじゃないか!
山頂の上に、どう見ても雲ではない、鮮やかな緑色に輝いて、瞬時に形を変えてゆく光の帯がたなびいていた。北極圏以外では見ることのできないオーロラを目指して、僕は山頂への急坂を駆け上がった。一気に登った。息が切れた。間近で見るオーロラは、緑と白と薄紫色の光のカーテンだった。風にあおられるようにしなやかに動いた。
「きれいですね」
いつの間にか、クララさんが僕の後ろに立っていた。彼女の背後に街の灯りが煌めいていた。
「クララさん!」
思わず手を伸ばすと、透明な水の膜に触れたように彼女の姿が波打った。もう一度指で触れてみたが、やはり輪のようなさざ波が広がった。
「これはなに?」
「わたしの王国が終わって、あなたの王国がはじまる境界よ。ここから先は、あなたしか入れないの」
「どうして境界なんかあるんですか?」不安になった。
「悪いことじゃないよ」さとすようにクララさんが言った。
「一つの世界とその隣の世界の間には、必ず境界があるの。境界があるから世界はそれぞれ違う特徴を持って、唯一の世界でいられるの。違う秩序の世界、時間の流れを必要とせず、言葉を使わずに音や色でお話ができる世界もあるの。だから、別々の法則で息づいている世界の間には、境界が必要なの」
僕はオーロラを見ていた。光だけでなく、なんともいえない旋律を発していた。その音がどんどん大きくなり、複雑に絡まり合った。
「行ってらっしゃい」クララさんが言った。
「行ってきます」
数歩歩いただけで空気が変わった。僕はオーロラの川の中にいた。地球に近い部分は透き通った白やグリーンで、宇宙に接する上の方は深い赤とピンク色だった。しかし僕を最も圧倒したのは、オーロラから流れてくる音の響きだった。
オーロラは音の流れだった。複数の音色が絶妙なハーモニーを織りなしていた。穏やかに揺れるグリーンの旋律を背景に、螺旋を描いて高い音域を奏でる白い光の筋が現れ、稲妻のようにオーロラの川をよぎって消えた。赤や薄紫の音は低く安定した音で、メロディーに深みを与えていた。
幸せだった。思わず振り向いた。クララさんは元の場所に立っていた。僕が手を振ると、クララさんも手を振り返してくれた。ちゃんと僕が見えているんだ。だけどそれは、いつものクララさんじゃなかった。
白髪がブラウン色に変わっていた。ほっそりとした身体つきはそのままに、顔も、腕も、胸も脚も若々しかった。三十代、二十代、それともまだ十代のクララさん? 僕はクララさんを目指して走り始めた。目だけは同じだけど、若返ったクララさんを、もっと間近で見たかった。
「どうして戻ってきたの?」
クララさんの声は不安そうだった。同じ場所に立つと、クララさんは元のおばあさんに戻っていて、ちょっとがっかりしたけど、僕は弾んだ声で言った。「あそこから、若い頃のクララさんが見えたんだよ」
「ええっ!」
「どうしたの、そんなに大変なことなんですか?」
クララさんは聞いていなかった。震える声で「大変。戻らなきゃ」と呟いた。
ふっと音が消えた。
あたりを見回すと、オーロラが天から落ちてきて、世界が真っ白になった。静かに天が崩れてきたような感じだった。僕は暗闇に包まれる前に、赤い閃光を見た。ドンと激しい音を立てて、時空堂の床に倒れていた。右肩から激痛が走った。膝も動かせない。
「加賀谷さん、しっかりして! すぐに救急車がくるから!」
クララさんの声が聞こえた。「ごめんなさいね、ごめんなさい」と繰り返していた。どうして謝るんだろうと思った。
身体を持ち上げられ、柔らかい台に乗せられた。目を開くと店内の本棚がゆっくりと遠ざかっていった。店の前で両手を揉み合わせ、泣きそうな顔をしたクララさんが見えた。
僕は痲酔を打たれて手術を受けた。目覚めると右肩と腕、それに右膝をギプス固定された状態で病院のベッドで寝ていた。痛みはあったがなぜか呑気だった。治るまでちょっと時間がかかりそうだなぁと思った程度だった。ただ医者の言葉は違っていた。
担当医は僕より十歳くらい年上で、上腕骨折と膝の靭帯損傷だけですんで運が良かったですねと言った。四メートルの高さから落ちると、脊椎損傷や頭蓋骨陥没などの、取り返しようのないケガをすることもある。四メートルだって? 僕は驚いたが黙っていた。
あなたの若さなら、六週間もあれば、リハビリして退院できますよ、と医者は快活に言った。そうそう、事故なんで、警察が調書を取りに来るはずですから、協力してくださいねと付け加えた。
やはり僕は梯子から落ちたことになっているらしい。梯子って、クララさんが本棚の上の本を取るために使っているあの梯子だよね。でも僕はいつ、梯子を登ったんだろう。
「加賀屋さんが落ちたとき、店主はどこにいましたか?」
調書を手にした若い警察官が尋ねた。
「確か奥のキッチンにいたと思います。梯子は絶対使わないように言われていたのですが、勝手に使っちゃったんです。自業自得ですね」
ウソというか、そもそも梯子を登った記憶すらなかった。しかしクララさんに迷惑をかけたくなかった。
「じゃああの梯子は誰が使ってるんです?」
「クララさん、あ、店主だけですね」
「あのおばあさんが? 登ってるの、見たことあります?」ちょっと驚いた声で聞いた。
「何度も見ましたよ」
「へぇ」警官が気のない声を出した。「あの日、加賀屋さんは、深夜までお店にいらしたんですよね。あのお店、ちょっと暗いでしょう。梯子の段が見えなくて、足を踏み外したんじゃないですか」
彼が聞きたいのはこの質問のようだった。
「ないですよ。間接照明ですけど、お店の中はじゅうぶん明るかったです」
「じゃあ、どうして加賀谷さんは梯子から落ちたんです?」
「疲れてたんでしょうね。いきなりめまいがしたんです」
警官は不思議そうな顔で僕を見た。「それじゃあ、あのお店を訴えたりするつもりはないんですね」と聞いた。
「まさか。あのお店の照明とか、営業時間に、何か問題あるんですか?」
「いえ、ありません。加賀谷さんが訴えたりしない限り、調書は形式的なものです」
警官は二つ折りの調書を閉じると、ペンを胸に挿した。少し表情が和らいだ。「ちなみに加賀屋さんは、どうしてあの店に通っていらしたんですか」と言った。
「昼間働いてますから、夜、落ち着いて読書できるブックカフェは貴重なんですよ」
「そうですか。ご協力ありがとうございました。お大事に」
そう言うと警官は椅子から立ち上がった。
病室の窓にかかっているカーテンが風で揺れると、あの日見たオーロラが目に浮かんだ。それにあの旋律。口ずさもうとしても、思い出せない。あそこに行ったことの、何が悪かったのだろう。クララさんに説明してほしい。でもクララさんは見舞いに来なかった。あの夜以来会っていない。クララさんはだいじょうぶだろうか。時空堂はどうなってしまったんだろう。
退院した日の夕方、時空堂に行ってみた。看板は出ていなかったが、窓に灯りが見えた。ドアをノックしてしばらく待つと、クララさんが開けてくれた。深い霧の中に沈んでいるような目で僕を見た。「来てくれてありがとう。怪我の具合はどうですか」と静かに言った。
「腕のギブスはまだ取れませんが、だいじょうぶです」
時空堂は何も変わっていなかった。天井まで届く本棚、きれいに並んでいる無数の本の温もり、規則正しい音をたてて動いている壁時計、二つの窓に、温かい光のステンドグラスランプ。やっぱりここは落ち着くと思いながら、僕は奥のテーブル席に座った。
香りのいい紅茶をいれてくれると、クララさんは「お見舞いに行けなくてごめんなさい。わたしはここを離れられないのよ」と言った。
「気にしないでください」と答えたが、離れたくないんじゃなくて、離れられないんだと思った。それは当然のことだと思った。
「お店、閉めてるんですか?」
「そう。加賀屋さんが元気になって、そして許してくれるまではと思って」
「じゃ明日から開けてください」
「ありがとう」クララさんは小さくうなずいて微笑んだ。
「この前、僕が見たのはなんだったのか、説明していただけませんか?」
「難しいわね」
クララさんは黙り込んだ。ときおり口を開こうとするのだが、言葉は出てこなかった。
「物語でもいいんです。何かヒントをください」
「それじゃあ」とクララさんは深く息を吸い込んだ。意外な物語を語った。
「むかしむかしのことだけど、生まれつきすごい力を与えられた魔女がいたのね。でも若くて未熟で、しかもそれに気づいていなかったから、たくさんの過ちを犯してしまったの。人々を幸せにしようとして、大きな災いを、戦争をもたらしてしまったりして・・・。ついには天主様の怒りに触れて、彼女には決して解けない呪いをかけられてしまったのよ・・・」
「じゃあクララさんは、魔女なんですね」
「いえ、ただの物語よ」
それでじゅうぶんだった。
僕はまた時空堂に通い始めた。以前と同じだった。本を手に取り、アームチェアに座って読書にふける。お茶がなくなりそうになると、クララさんが静かに近づいて注いでくれた。ただ以前のように、クララさんと物語の世界に入ることはなくなった。そんな必要はもうなかった。
長い長い物語を読み終えて僕は尋ねた。
「クララさん、魔法はいつ解けるんですか?」
「もうすぐ。すぐよ」茶目っぽくクララさんは答えた。
時空堂を再開してから、クララさんは若々しくなった。もしかして、あの時見たように、どんどん時間をさかのぼって若返ってゆくのだろうか。
僕はもう時空堂の物語の中にいた。もし魔法を解くことができる人がいるとすれば、それは僕だという予感があった。
僕はお店の中を見回した。奥の方に、本棚の上まで届くあの梯子が見えた。「今度は落ちたりしないよ」と僕は呟いた。
(下編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 金魚屋の本 ■