原里実:1991年生まれ、東京都出身。東京大学教養学部生命・認知科学科卒業。2014年『タニグチくん』で三田文学新人賞佳作。2016年『レプリカ』で文学金魚辻原登奨励小説賞受賞。
原里実さんの処女作短編集『佐藤くん、大好き』の出版を記念して、創作経緯などをインタビューでお話していただきました。。
文学金魚編集部
■ 街で再開した元恋人が、自分のレプリカを連れていたら? ■
――12月1日発売の単行本『佐藤くん、大好き』には、全部で18の短編が収録されています。
原 2014年から2017年までのあいだに書いたものが並んでいます。
――冒頭の『レプリカ』は、街で昔の恋人に偶然再会したら、その人が自分のレプリカをつくって連れていた、というところから始まる物語ですね。何に着想を得て書きはじめられたのですか?
原 じつは書いたのがだいぶ前なので、少し記憶があやふやなのですが……。女の人の怖いところを書こうと思って書きはじめた気がします。
――女の人の怖いところ。
原 はい。女の人に限らないかもしれませんが、自分の恋人の昔の恋人や、昔の恋人のいまの恋人に、なんとなく嫉妬のような「負けたくない」気持ちってありますよね。でもその気持ちってじつは、自分の恋人そのものに対する執着や、その人を好きという気持ちとは少し離れたところにあるものなのではないか……極端な話、昔の恋人のことなんてもうまったく好きじゃないのに、その人の新しい恋人のことが気になる、ということもあるのではないかと。
――『レプリカ』の主人公がまさにそうですよね。
原 そうですね。その、「パートナーである異性の向こう側にいる同性」という、鏡の向こうにいる人のようなものが、自分のレプリカだったらどうなるだろう? と思って書きはじめたのが『レプリカ』だったと思います。
――『レプリカ』は主人公の一人称「あたし」で語られていますが、主人公がレプリカのことも「あたし」と呼ぶので、途中から両方の「あたし」がオーバーラップしていきますよね。読者からは、「夢を見ていたような読後感」という声もありました。
原 実際に、自分の夢に着想を得て書きはじめることもあります。普通は起こらないことを小説に書くのが好きなんだと思います。日常のなかでは体験できないような世界に、少しでも没入していただけたら嬉しいです。
■ 中高生のころ、書いた詩や物語をウェブにアップして、ひとりで楽しんでいました。■
――小説はいつごろから書いているのでしょうか?
原 中学生のころから書いてはいたのですが、そのころのものは小説とは呼べないくらい短いものでしたね。原稿用紙で数えたら1枚、2枚でしょうか。私が中学生のころ、SNSとかブログとかではなくホームページが流行っていて。HTMLでデザインを組んでページをつくって、書いた詩や物語をそこにアップしていたんです。
――そこから感想をもらうなど、交流が生まれることもあったんでしょうか?
原 ほとんどなかったです(笑)。いちおう、そういった創作物を扱うホームページのリンク集などに参加していたんですが、お客さんはぜんぜんこなくて。それでもウェブ上にアップすることでなんとなく「発表した!」という気分になれるので、それなりに楽しんでいました。
――本格的に書きはじめたのはいつごろからになるのでしょうか。
原 今回の本に収録されているものでもっとも古いのが、2014年に書いた『タニグチくん』です。原稿用紙で30枚ほどの短いものなのですが、そのくらいの長さで最初から最後まできちんと書き終えることができたのは、それが初めてだったような気がします。振り返ってみると、いままででいちばん細く長く続けてきたのが書くことだったのかなと思います。
■ 不慣れな英語でコミュニケーションしていると、言葉による意思疎通の不確かさについて考えることが多かった。■
――イギリスでも小説を書いていたとのことですが、日本で書く際と比べて何か違いはありましたか?
原 物語の舞台はずっと日本だったので、その意味ではあまり違いはなかったかもしれません。でもふだん英語に囲まれていることで、自分が書いている日本語を客観的に見つめることができるような気がしました。また、不慣れな英語を使ってコミュニケーションしていると、言葉による意思疎通ってとても不確かだなと感じたり、考えたりすることが多くて。日本で日本語を使っているときには意識していなかったことでしたが、それについて書いてみたいなと考えるようになったりしました。
――「言葉による意思疎通の不確かさ」とは、もう少し具体的に言うとどのようなことでしょう。
原 イギリスに住んでいたときに、日本とイギリスのハーフの友達がいたんです。見た目はとても日本人っぽいのですが、小さいころからイギリスに住んでいたので、日本語があまり得意ではなくて。ときどき、どきっとするような日本語の使い方をすることがあったんです。たとえば、「明日友達とパブに行くんだけど、一緒に来たい?」とか。
――「来る?」じゃなく「来たい?」。たしかに日本人はあまり使わない表現かもしれません。
原 でも、英語でいう「来たい?」は、日本語でいう「来る?」ときっと同じような感覚で、別に彼は「来たいなら来れば」というような冷たい気持ちで言っているのではないんです。それがわかっていればいちいち真意を勘ぐってどきどきする必要もないのですが、よく考えたら、それって誰に対しても言えることだな、と。
この言葉はこういうニュアンスで、あの言葉はああいうニュアンス、というのって、全員が全員、自分と同じように感じているわけではないはずですよね。それなのについ、相手が同じ日本人だと、共有できていると思い込んでしまう。そしてそれに従って、「こんな言い方するなんて失礼だ」「ああいうふうに言われたから嫌われているのかも」などと思ってしまう、それってじつはすごく怖いことなのではないかな、と。
――なるほど。自分が言葉にしたつもりでいることが、そのとおり相手に伝わるわけではない、というのは当たり前の話ではありますが、特に小説家や言葉を扱う人にとっては常につきまとう問題でもありますよね。
原 そうですね。そう考えはじめると、自分の考えた言葉が大量に印刷されて出回ってしまうなんて大変なことですよね。受け取られたときにどんなふうになっているのかと思うと、怖くもあり楽しみでもあります。
■ 空っぽのハードディスクが数万円で売っているのを見て、何か不思議な気持ちになりました。■
原 このあいだ、とても冗談みたいな話なんですが、テキストの力について考えるできごとがあったんです。ずっと使っていたノートパソコンが壊れてしまって。
――ノートパソコンが。
原 はい。キーボードにお茶をこぼしたら数日後に電源がつかなくなってしまって、なんとかなかのデータだけ取り出したのですが、ものすごい量が保存されていたことにびっくりしたんです。そしてそれをコピーして保管しておこうと思うと、それを保存するハードディスクが数万円もする。空っぽのハードディスクが数万円で売っているのを見て、何か不思議な気持ちになりました。
――中身は空っぽなのに。
原 はい。私には三つ歳上の姉がいるのですが、そのことを姉と話していて。それで知ったんですが、いま最新のiPhoneって、本体に保存できるデータの容量が、いちばん小さいモデルで64GBらしいんですね。私はいまだに昔のモデルの32GBのを使っていて、小さすぎて困ることはないのですが、最近のiPhoneはカメラや動画の画質がいいので、同じような使い方をしていても自然と必要なデータ容量が増えてしまうらしいんです。
これからもどんどんそうやって、画像の鮮明化とデータ容量の拡大がつづいていくと考えると、果てしないなと思いまして。そういう話をしているときに姉が、「過去をより鮮明に保存するために、私たちは膨大なデータ容量を必要としているんだよね」と言ったんです。
――確かに、写真は過去の記憶を保つのにすごく役にたちますよね。忘れていた昔のことを、写真を見て思い出したり。
原 そうですよね。そしてその記憶の手がかりとなる像をより鮮明に、現実に近いものにするために、ますます大きなデータ量が必要になってしまう。それでテキストの話につながるのですが、同じことが文字でできたらすごいよな、と。つまり、読むだけでそのときの匂いとか、景色とか、からだの感覚とか、全部を鮮明に思い出せるようなテキストを書けたら、このデータ肥大化にストップがかけられるわけですよね。テキストは画像や動画と比べて、データ容量をぜんぜん食いませんから。
――なるほど、「冗談みたいな話」ですね(笑)。
原 はい、ほとんど冗談です(笑)。でも、放っておくと通り過ぎて消えていってしまうものごとをどうにかして保存したいという気持ちや、自分にとって大切なそれらのもののことを誰かに伝えたいという気持ちから、私は書くことを始めたような気もしています。今回の小説集は私にとって一冊目ということもあり、いままでの私がそのときそのときに心に描いていたものを文字にして定着させた本という色合いが強いかもしれません。だからこそ、どなたかの心に少しでも残るものがあればとても嬉しく思います。
(2018/12/14)
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