討議『佐藤くん、大好き』:大野露井/青山YURI子/寅間心閑
大野露井:一九八三年生まれ。国際基督教大学大学院修了。翻訳にダデルスワル=フェルサン『リリアン卿』(国書刊行会)がある。
青山YURI子:一九九〇年生。二〇〇九年に渡西。バルセロナ大学文献学部、芸術学部に入学。現地の創作学校でアルゼンチン人とカタルーニャ人作家に師事。
寅間心閑:一九七四年生まれ。大学卒業後、少々不安定な時期を経て会社員になる。労働と飲酒の合間を縫って、日々鋭意創作中。
原里実短編小説集『佐藤くん、大好き』は金魚屋初の小説単行本である。帯にあるとおり「恋愛小説集」であり、金魚屋の考える「純文学」でもある。恋愛が主題なので素直で読みやすいが、奇妙なテイストを持つ作品集でもある。単純だが突っ込みどころ満載のこの小説集について、金魚屋新人賞授賞作家の大野露井、青山YURI子、寅間心閑の三氏に存分に語っていただいた。
文学金魚編集部
■はじめに■
大野 今日の話題としては二つの柱があると思うんですね。一つは原さんの『佐藤くん、大好き』についてのことと、ここに集まったのは文学金魚新人賞を受賞した三人ですから、こういう形で金魚屋から最初の小説集が出たことの意義についても話すべきだと思います。僕は原さんに実際にお会いしたことがないんですが、寅間さんは?
寅間 僕もありません。『佐藤くん、大好き』については、内容についての事前情報もほとんどなく、一回通読しただけなんですが、なにか毛糸玉がコロコロ転がってきて、それがずっと横に展開しているという印象です。縦に重なってゆくものではなく、横に広がって展開してゆく。その中で自分の中にスッとはまる作品もあれば、そうでない作品もある。たとえば『インストラクター』と『ある日々のできごと』。両方とも日常を描いているんですが、内容は非日常的ですね。『インストラクター』はより非日常的な方にお話が進んでゆきますが、『ある日々のできごと』は、日常的な時間を組み替えればこうなるかな、といったリアルな手触りがある。後者の方が僕には理解しやすいというか、はまりやすかったですね。
青山 読解力にあまり自信がないんですが、さりげない表現が好きでした。登場人物の名前の付け方もそうですし、比喩の使い方もそうです。凝った比喩とかではないんですが、それでも印象に残る使い方があります。『水出先生』の「カルガモ」とか。そのさりげなさが可愛らしさにも通じていて、作品集全体の雰囲気を柔らかくしています。ある女の子は、男の子のこういう所をキレイだとか素敵だなと感じるんだなと、すごくよくわかりました。女性読者にとっては、お友達の話を聞いているような楽しさもあるでしょうね。
大野 この作家は睫毛が好きですよね(笑)。『佐藤くん、大好き』は一編一編がどうこうではなく、こうやってまとまっているから魅力があると思うんです。バラで出されて読めば、面白い作品もあるし、そうでもない作品もあるという感じで終わってしまうでしょうね。最初に『レプリカ』という作品が置かれているのが、多分すごく大事なんだと思います。この作品は語り手が分裂していますね。「あたし」が二人いて、どっちが本当のあたしなのか、どんどんわからなくなってゆく。この作品が冒頭にあることで、その後の作品にもなにか仕掛けがあるんじゃないかと読者は期待してしまう。そういう読者の引っかき回し方が上手いですね。たとえば『千晴さん』という作品は名前から女性かなと思ったりするんですが、男性でしょう。『ある日々のできごと』は時間軸が交錯する。最後の『佐藤くん、大好き』は表題作ですから大事な作品ですが、この作品も普通の時間の流れから逸脱しています。原さんの恋愛観を、この作品集にまとめたという感じで一本芯が通っていると思います。
寅間 一人の女性の話を聞いているような感じにはなりますよね。
大野 でも普通の女の子の恋愛だよという見せかけはあるんですが、決してそうじゃない。『レプリカ』もそうですが、主人公の女性は結局男のことが好きじゃない、好きじゃなくなる。この作品はナルシシズムのお話ですよね。最初の方は抑えられていますが、作品集の最後の方になるほどそれが強くなっていると思います。『佐藤くん、大好き』は果たして純愛なんでしょうか。実はこれは、とても独りよがりな恋愛なのかもしれない。
寅間 異性との距離の詰め方が特殊ですね。最終的に異性との距離を詰めたいのか詰めたくないのかが、ちょっとわからないところがあります。精神的に理解し合いたいのか、フィジカルに接したいのか。この作品集を恋愛小説集として見るなら、ちょっと変わった恋愛だなと思います。この作品集で単語としてセックスが出て来るのは一箇所だけじゃないかな。『ある日々のできごと』だけですね。朴訥な語り口ですから、セックスという単語が出てきただけで、なんとなく違和感があります。
■恋愛とフィジカル■
大野 どこまで作家の意図なのかはわかりませんが、肉体的接触がほとんど出てこないのは事実ですね。小説を批判的に捉える人はしばしば、なぜ意味もなくセックスするんだと言ったりします(笑)。男女が出て来るある程度長い現代小説では、必然的にセックスシーンがあるわけですが、一つのツカミのように描かれている場合も多い。それがルールだという暗黙の了解があるだけなのかもしれない。村上春樹さん最新刊の『騎士団長殺し』は、珍しく海外で評判が悪いらしいんですよ。アメリカで毎年ワースト性描写賞が開催されていて、『騎士団長殺し』が候補になった(笑)。引用されているものを読んだんですが、確かにちょっと気持ち悪い。マンガっぽくもありました。セックスシーンは結局のところ、刺激を与えるためのものなのか、ほかの意図が込められているのか。
寅間 もちろんセックスシーンを書かなくてもいい物語もあると思います。またセックスシーンに過剰な意味を読んでしまうと、物語を歪めてしまうこともあります。『佐藤くん、大好き』では厚い本の中で一回だけセックスって単語が出てきますから、お、言ったな、という感じはある(笑)。
青山 寅間さんが今文学金魚で連載しておられる『助平ども』は、その逆ですね。わたしにはちょっと眩しすぎるかも(笑)。
金魚 『佐藤くん、大好き』のテーマはなんだと思いますか?
寅間 「恋愛小説集」という帯の文句を見ながら言うのもなんなんですが、異性、恋愛対象との距離の詰め方を、様々な形で表現した作品集ということになりますかね。
青山 テーマかどうかはわかりませんが、恋愛の一瞬を大切にすくい上げてスケッチしたような作品集だと思いました。
大野 恋愛小説なんですが、どこかアンチ恋愛小説という感じではありますね。恋愛で当然期待されているものを、焦らして焦らして結局出していないと思います。世間一般の恋愛小説の起承転結で展開する作品は一つもない。そういう意味では本当の恋愛に近い面もあるんじゃないかな。誉めすぎかもしれませんが、リアルな恋愛小説かもしれない。もちろん一人の女性の恋愛遍歴として読めないこともない。そうすると最後の『佐藤くん、大好き』が本物だとすれば、それ以前の小説は、主人公の脳内で展開した恋愛を文字に定着させた作品だと言えるかもしれない。ありそうでなかった小説ですね。
金魚 まず恋愛小説とは何かを定義しなければなりませんね。あるいは原さんという作者にとって恋愛とは何か。
大野 『佐藤くん、大好き』はすべてが恋愛に結びついていますね。恋愛の話ししかしていない。文学金魚は純文学を大事にしていると思うんですが、本当の恋愛小説、純文学の中での恋愛小説というものは、突き詰めてゆけば、『佐藤くん、大好き』のような作品ということになるのかもしれません。さまざまな出版的要請によって、紋切り型のフィルターをかけられた恋愛小説は沢山ありますが、そういった小説に対する皮肉とも受け取れます。
寅間 最初に毛糸玉のような小説と言いましたが、シンプルな毛糸玉が花になったり街になったりしている感じはしますね。一定のトーンとして、シンプルな何かが展開していっています。『新年会』という作品で、主人公がライダースジャケットの革の匂いを嗅ぐ。この作品は具体的な単語がどんどん出てきて情景が目に浮かびます。だけどその土着的な物語を途中で放り出しているような気配がある。ここから何かが始まるのかな、と思うと始まらない(笑)。これを長い物語にすると、作品集の中で浮いちゃうんだろうなという気もします。毛色が違う分、あらかじめ決めた着地点じゃないところに降りているような気がします。
大野 デジタル的なコミュニケーションもほとんどありませんね。スマホもSNSもほとんど出てこない。独りよがりな恋愛に見えるけど、ちゃんと生身のコミュニケーションをしている。セックスが出てこないことにもちょっと通じますが、今の文芸誌に掲載されている作品は、どうしてと思うくらい頻繁にSNSに言及します。その理由は、若い人がみんなやっているから、それについて書かなきゃダメだということしかないと思うんですね。原さんの年代は中学生の頃にはSNSらしきものがあったと思いますが、あえて書いていない。今の小説からSNSを始めとした現代的要素を取り除くと、昔の小説と何が違うのということになっちゃうと思うんですよ。出て来るデバイスやテクノロジーが新しいだけで、中身はあんまり変わってない。『佐藤くん、大好き』には年号とかも出てきませんね。いつの話かまったくわからない。僕もそういう小説しか書かないので、原さんは先のことまで考えて書いているような気がします。
■ジェンダーについて■
金魚 時間軸がないのは『佐藤くん、大好き』の大きな特徴かもしれません。
寅間 意図的なんでしょうね。読んでいると、読みやすくてサラッと読めてしまうんですが、途中であれ?と思って戻って確認してしまうようなところがある。
大野 作為的といえば作為的なんですが、それが鼻につくということはないですね。もう少し抵抗があってもいいと思うくらい、サラリと読めてしまう。
青山 『佐藤くん、大好き』は、独りよがりな恋愛だとか、男の人が見えていないとか、そういうことを言う人がいると思います。でもわたしには、それがあまりよくわからない。
金魚 独りよがり、男が見えていないなどは、男の読者の感想でしょうね。この本の最良の読者は、そういうことを気にする層ではないと思いますよ。
青山 妄想的、想像的な恋愛という捉え方がわからないんですよ。かなりリアルな恋愛が描かれていると思います。
金魚 うん、そういう意見が聞きたい(笑)。
青山 わたしは『佐藤くん、大好き』を読んで、みんなこういう恋愛をしているよねと思っちゃったんですね。原さんは瞬間の切り取り方が上手いと思いますが、『面影の舟』なんかはわたしが一番好きな作品です。「この世でいちばんきれいなものを見た」で始まりますが、恋愛の一番美しい瞬間を切り取っています。
大野 ジェンダーの問題を話し始めると危うい上に長くなりますが、文学の世界もほかの社会と同じで、ずっと男が牛耳ってきたじゃないかとしばしば言われます。確か円地文子の小説に対して、男性作家たちが座談会で、あの作家は女の描き方が下手だな、と言っているものがありました。女性作家も、男性作家のように女を描けるようになるべき、ということなのだと思います。作家が女性だから、その人が書いた女性はすごく女性的なんだという理屈が通用しないわけですね。そういう理屈というか雰囲気は、僕らもまだまだ引きずっている所があるんじゃないでしょうか。また女性作家の方でも、男性作家とか読者を意識して、女性の一番ドロドロした面を描いてきたところもあると思います。
たとえば大学の授業で取り上げるのは、圧倒的に男性作家の作品が多い。アメリカではあえて女性作家ばかり取り上げる授業もあるようですが、これもまた女性だから取り上げているわけです。どっちにせよ偏りがある。そういった偏りが根強く残っている一方、徐々にですがフラットに性差というか、ジェンダーを気にしない作家や読者も増えている気がします。
昭和の作家のジェンダー観は僕らとぜんぜん違うでしょう。頭のいい男女の高校生が、三島由紀夫にインタビューするという企画がありました。すごく建設的ないい話をしていたんですが、男の子がふと「三島先生、女ってのはものを考えるんですか」と。三島はその質問を当然のように受けとめて、「ぜんぜん男と違うのは確かだな、ハハハ」で終わってしまう(笑)。だけどそういうジェンダー観の持ち主が書いた小説だからといって、女性蔑視になっているかというとそうでもない。作家と作品と時代状況というのは、一筋縄じゃいかないのと同時に、やっぱりどこかで作品に表れているような気がしますね。
寅間 時代錯誤なジェンダー観で作品を書いてはいけないかと言うと、そうでもないところがあります。そういう観点がストーリーに凄みを与えるなら別にかまわない。逆に作家の特色が際立って、いい作品になるかもしれない。小説家はノンフィクションを書いているわけじゃないですからね。
金魚 『佐藤くん、大好き』は帯に「金魚屋の純文学」と銘打っているわけですが、皆さんどういうところが純文学だと思いましたか?
大野 たいていの人は、最初は何も考えずに小説を読み始めますよね。十代の頃に小説が面白くなってどんどん読んでいったものが、世間では純文学と呼ばれていたと。確かに制度的なものはあって、それを支えているものを探ってゆくと、結局は芥川賞と直木賞に行き着くのかもしれません。松本清張とか司馬遼太郎は、もしかすると純文学と呼ぶにはあまりに格調高いのかもしれません(笑)。そんなことを考えてゆくと、純文学という制度にはあまり意味がないのかも。だから制度とは別に考えるしかないわけですが、僕としては内容の次元と同時に、表現、言葉の次元で新しい何かを提示しているものを純文学と呼びたいですね。『佐藤くん、大好き』は恋愛小説ですが、純文学を感じさせるところが曲者かな(笑)。
■純文学について■
金魚 『佐藤くん、大好き』は、ちょっと極端なことを言いますが、すんごく売れたとしても、芥川賞は受賞できないタイプの作品だと思います(笑)。それはどうしてなんでしょうね。
大野 まず震災が出てこない。方言もほとんど使われていませんね(笑)。
金魚 最近の純文学小説で、震災がテーマだったり方言小説が多いのは、なぜだと思いますか?
大野 小説が、早急にその小説を消費してくれる多くの人々に向けて書かれているからじゃないでしょうか。
寅間 震災や方言は、単純にリアリティに直結する要素ですね。時代性と土着性です。具体的にパッとイメージできますから、良くも悪しくもパッと物語の世界に入れる。原さんはそういったリアリティとは遠いところで小説を書いていますね。読みながらセクシャルな要素のないところなど、吉本ばななをちょっとライトにした感じの小説かなと思ったんですが、時間軸の使い方が特殊ですから単純にそうとも言えない。ただこれで芥川賞を受賞できるような作品だったら、金魚屋さんは興味を示さなかったんじゃないでしょうか(笑)。
大野 時代性と土着性を排しているのは意図的なのか、あるいはこういうものしか書きたくない、書けない作家なのかという問題はありますね。ただ作家は他者の作品から影響を受けるでしょうが、書きたいものだけ書いてそのレベルが高くて作品が魅力的だったら、やはりそれは純文学になる、純文学と呼び得ると思うんです。それが純文学ではないと言うなら、純文学の定義の方がおかしい(笑)。純文学は文学のための文学というふうに捉えられたりしますが、その中に社会化された作家、社会化された作品という概念が入り込んでしまっている。自ずとこうでなければならないというラインがあります。純文学の世界は新しいものを求めているようでいて、実際はちょっとずつマイナーチェンジしているに過ぎないように見えますね。
青山 スペインでは純文学という概念はないですね。小説はフィクションの棚です。古典文学の棚、外国文学の棚、ハルキ・ムラカミの棚もあります。
金魚 青山さんは『佐藤くん、大好き』を純文学だと思いますか?
青山 ここに来るまでそういうことはぜんぜん考えていませんでした(笑)。寅間さんの毛糸玉といっしょですが、わたしの印象はパステルです。ある瞬間を原さんの線や色を使って、淡くてきれいな絵に置き換えてくれているようです。絵画を見るときと同じ感覚を抱かせてくれる作品が純文学のイメージです。絵にもエンタメと純文学の違いはあると思いますが、ただ読む、知るだけでなく鑑賞できる小説のような。線がきれいだったり。線、その一文を見るためだけにその箇所に何度も戻ったり。主題も抽象的だったり、筆跡や素材の扱い方もその小説の大切な要素として認められていたりするイメージ。『佐藤くん、大好き』は描き方にも工夫があり、わたしの中の純文学のイメージに重なる部分があるんですが、日本の純文学かどうかはちょっとわかりません。(後編に続く)
(2019/02/01)
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