ルーマニアは正教の国であり森の国であり、ちょっと神秘を感じさせる物語の国でもある。ドイナ・チェルニカ氏は作家で翻訳家、ジャーナリストだが、小説ではなく〝物語〟作家を自任しておられる。彼女の清新な物語文学を、能楽の研究者であり演劇批評家でもあるラモーナ・ツァラヌさんの本邦初翻訳でお届けします。
by ドイナ・チェルニカ Doina Cernica著
ラモーナ・ツァラヌ Ramona Taranu訳
第15章 ボズガ、ラヴリとティーネスがなにかをたくらんでいる
ボズガのあくしゅうのせいで草花がはえない、ベラドンナの花しか見かけない荒いふちで、ボズガはどろの水たまりに自分のかおをまんぞくそうにうつしていました。ハエのラヴリとガのティーネスは近くにいました。
「あたしって、かわいそうよねえ」ボズガはなげきましたが、気もちはウキウキしていました。
「しかし、やるよね」ラヴリがはねをブンブンならして言いました。「なにかを思いついたらさいごまであきらめず、やりぬくよね」
かじるものなく、ひつじの毛糸ひとすじ、木の切れはし、ちょっときれいなむぎわら一本すらないこの場所で、ティーネスはなかなか落ちつけずにいました。しかしブンブンとはねをならす仲間にあいづちをうちました。
「銀狐はわなにかかったよね。あいつよりボズガのほうがずっとあたまがよくて、うつくしいよ!」
あまりのうれしさに、ボズガのはなはトウガラシのように赤くなりました。まんぞくそうにブウブウとなきごえをあげました。ボズガのあくしゅうにだいぶなれていたラヴリとティーネスですら、なきごえと同時にはっしたボズガの匂いにめまいを感じました。
「ヴズはもう知っているのかな?」ハエがたずました。うわさをあっちこっちへ広めるのがハエの楽しみなのです。
しかしボズガはふたりにすべてをあかす気はありません。
「王子たちはわなからぬけだすのかな? どう思う?」ボズガがはなしをかえて、気にかかっていたことをふたりに聞いてみました。
「クモのあみから? ハハハ!」ラヴリがおもしろがって、わらいだしました。それからクモのことを思いうかべました。かれたこずえ、くちはてたうつろ、どくヘビやドブネズミがうろうろしているどうくつなどに、クモが夜な夜なつむぎだしている糸のわなを思いだしました。そしてそのねばつく糸のわなに自分がつかまってしまったことをそうぞうして、ハエのはねがきょうふにふるえました。
「それはありえない!」ハエがさけびました。
「だけど銀狐がしんじつを知らずに死んでしまったら、もったいないんじゃない?」
ティーネスのことばは、いじわるではなく、くうふくからきているようでした。
バカな! くだらないことを言って、たのしみをだいなしにするんだから、とボズガは思いましたが、そのいらだちを悲しげななきごえでかくしました。
「あたし、だれもきずつけたくないのよ」
「もちろんもちろん」ガとハエは、うたがいぶかそうにうなずくと、ブーンと音をだしました。
ボズガはふたたび水たまりの中の自分のかおを見ました。ヴズのゆびわを自分のはなにはめたら、どんなにすてきだろうとそうぞうしてみました。それからふたりにほんねを言いました。
「あのさ、あなたたち、力をかしてくれない?」
第16章 クモのわなにかかっていた少女、王子たちと子馬たち
ブナの木のこずえに、風にほされる小魚のようにとらわれの身となっている少女、王子たちと子馬たちは、銀狐のことをふかく心配しながらわなからぬけ出すほうほうを考えていました。しかし王子たちと子馬たちが思いついたすべてが地上ではうまくいきません。クモのあみにとらえられたまま、彼らは風に吹かれてただよう葉一枚ほどの力もなかったのです。少女はアイレとイルとちがって自分の生まれそだった世界にいるのに、やはりむりょくでした。
「わたしはどうしてなにもできないんだろう」
少女は、王子たちが口にしないしつもんに答えるように言いつづけました。
「地上の世界では、こまったときは、だれかにたよらなければいけないんだけど」
近くにあたらしいあみをつむいでいたクモは、そのことばを聞いていやらしくわらいだしました。
「それはどういう意味?」虹のむこうの子どもたちがたずねました。
「友だちがいたら、たすけてくれるの」
王子と姫は、すぐにカエル、女王バチ、エメラルダ、ハリネズミやカタツムリのことを思いました。少女はふたりが考えていることをさっして、話しつづけました。
「でも友だちがたすけに来てくれるには、まずこまっていると伝えなくちゃ。こちらから、どうにかメッセージをとどけないと」
子どもたちは、クモがつくった太いなわとねばっこいあみを見ました。身動きできないので、はちみつの入った杯や、トカゲのうろこ、それに花のねに手をとどかせることができません。彼らのことばやさけびさえも、あみのすきまをおおう油っこいカーテンをつらぬくことができず、クモが住む木より遠くへはとどかないのです。クモはやすまずに働き、一夜のうちに子どもたちがつかまったわなの上に、もう一枚のあみをかぶせました。王子たちは、息がつまるようなわなのかべを見て、ふかくためいきをつきました。少女の話から、ふたりは地上の世界のことをよく理解できるようになっていましたが、それもむだでした。だれかをよんで、助けてもらうことなどふかのうでした。
第17章 母親としての銀狐の心がいたむ
銀狐は少しずつわれにもどってゆきました。さいしょは痛みがはげしくてなにも感じられず、わなの鉄のはがくいこんだ自分の手から、高くとびだす赤い血のしずくをただただ見つめていました。それから自分のからだとはかんけいないようにあふれだしていた、血しぶきがどんどんひくくなり、小さくなり、ほそいひとすじとなって、からだを赤色にそめてゆくのを見ていました。きりのようなものがかかっていた銀狐の目は、ついで血が色あせてゆくのを見ました。からだにくっついていた血がかわきはじめ、さいしょのあざやかな赤がもみじのようなくれない色となって、そのあとに雪の下でねむっているふるい落ちばのちゃいろへと変わりました。銀狐のほそい手から流れでた血で、まわりにはいい香りがただよっていました。したいになっても、銀狐はいつもと同じジャスミンの香りがするでしょう。それはブーンと音をだして近くをとんでいたラヴリにはわからないことで、彼は今にも銀狐が息をひきとるのをまっていました。したいであれば、ハエはやっと主のようにふるまえるからです。おなかがすいてふきげんなティーネスも、くびを長くして銀狐がまだ生きているのか、死んでしまったのかをうかがっていました。このふたりがまっていたしゅんかんは、じっさいもうすぐおとずれるのかもしれません。鉄のはにはさまれた小さな手は青くなりかけていたし、手さきはすでに死にかけて黒くなっていたのです。
銀狐はしばらく自分の手さきが少しずつ黒くなるのを見ていました。それから目をゆっくりうごかし、つめたそうだけどなつかしく、キラキラかがやくヴズのゆびわを見ました。そのゆびわがどうしてそこにあるのか、ボズガとなんのかんけいがあるのか知らないまま銀狐は死にかけていましたが、もう気になりません。ボズガの匂いにまみれたゆびわはけがれていましたが、たいせつなのはヴズがそれにかかわっていないことです。りっぱで気だかいヴズは、ボズガにかかわることなんてできないでしょう。そう考えて銀狐はふかいやすらぎをおぼえ、死にむかってゆきました。しかしハエの暗いブーンという音や、ガのちんもくを少しも気にしていなかった銀狐の耳に、とつぜんべつの音がきこえてきました。いつもの銀狐なら、それはもみの木のうらにかくれて、自分の死を楽しみに待ちながらひづめをならすボズガだと気づいたでしょう。しかし今はかみなりのことが思いうかびました。それに雨のこと。虹のこと。アイレとイルのこと。
「わたしの子どもたち!」銀狐はふかいなげきを声にだし、だるさをふりはらいました。からだによみがえったはげしい痛みと同時に王子たちのことがしんぱいになり、痛みよりも不安がつよくなったのです。いいえ、ヘビのことばはべつに信じていません。自分の子どものことをだれよりもよく知る銀狐は、母親が地上にいるかぎり、彼らが虹のむこうの世界へともどることはないとわかっていました。かみなりやいなずまがあっても、どしゃぶりの雨にふられても、子どもたちはここからにげようとしないのです。だから銀狐はアイレとイルのことを思い、血のながれがとまって冷たくなった黒い手さきを見てけっしんしました。くるしみやきぼうさえもどうでもよく、今やることは一つしかありません。ほそいうでのきずぐちの近くに、むざんにも牙を入れました。まえの痛みにあたらしい痛みがかさなって、身ぶるいしながら、銀狐はゆっくりと自分のうでをかじりつづけました。あともどりはしない気もちで。
絵 アンナ・コンスタンティネスク
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* 『少女と銀狐』は毎月11日に更新されます。
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