エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第三章 天路歴程
通り抜けてきた狭く汚い通路を格子越しに覗きこんだ。歩哨がひとり見えた、肩に鉄砲を担ぎ、尻にもばかでかいリボルバーを吊り下げ、動きには一本調子なところがあった。右手にはすっかり苔に飲み込まれておんぼろの壁。割れ目から二三本の草花がひょろっと飛び出していた。みずみずしい葉色だった。俺はとびきりうれしくなって、むき出しの板床に慎重に身を投げ出して、救急隊にいる間に覚えたフランスの歌を次から次へと一つ残らず口ずさんだ。ラ・マデロン、アベク・アベク・ドゥ、レ・ガリオット・ソン・ルール・ダン・ルサック––––締めにラ・マルセイエーズを元気よく歌い上げたところ、番兵が(何度か巡回の足を止めていたのだけどあれは思うに驚きのあまりついついということなんだろう)武器を置いて味わい深そうに罵ってきた。獄舎の役人は幾人も通り過ぎたが俺にも色めく唱歌にも一顧だにしなかった。俺のほうも別にどうでもよかった。それでも二三人、こっちを指さして話し合っているのがいたので、俺はもっと困らせてあげようと思って若干強めに歌ってみたりした。ついに喉が枯れたところでお開きにした。
宵闇が迫っていた。
俺が思う存分仰向けに寝そべっていると二重に南京錠の掛けられた扉の格子の隙間から十歳ぐらいの男の子と女の子の影が見えた。二人は壁によじ登って遊んでいた、だんだん暗くなる夕暮れの中、二人は夢中でこの上もなく優美だった。長いこと二人を見つめていた。やがて残照に最後の幕が下ろされ、二人も壁もろともおなじみの神秘界の中に溶けてしまい、あとに残るのはよりいっそう陰鬱さの垂れ込めた秋空を背にして物憂くほんのかすかに身じろぎする退屈な歩哨の影法師だけだった。
いまになってようやく俺は喉の渇きを覚えた。飛び起きて格子窓に向かって騒ぎ立てた。「なにか飲み物をくださいよ」長い議論の末に守衛長は忌々しげに「かまわん」と言い放ち、番兵が俺の要求を聞いて一度視界から消え、戻ってきたときには水をなみなみ注いだスズのコップを携えさらに重武装の番兵を連れていた。片方のやつがコップの水と俺の様子を監視する間に、もう片方が南京錠とガチャガチャやりあう。扉がわずかに開き、水を持った番兵がめんどくさそうに入ってきた。もう一人は扉の前を動かなかったが、銃を構えていた。水が置かれると、入ってきた方の番兵は直立不動の姿勢を取ったがその姿には謝意を持って遇すべきものがあった。そこで俺は礼儀正しく「どうも(メルシー)」と返答し、板床に寝そべったままの姿勢をくずさなかった。間髪を容れず番兵は俺がスズのコップをのこぎり代わりにして脱出口を拵える可能性について舌鋒鋭く講釈を打ち、断固として早く済ませたほうが身のためだと言った。俺はにやっと笑って、生まれつき飲み込みの悪いタチなんでご勘弁を許しを乞い(この言い草がどうも彼の癪に触ったみたいだ)連中の言うところの水ってやつを確かめもせずにがぶ飲みした、ノヨンで学んだことが役に立ったわけだ。いつまでもぶっそうな眼差しでじろじろと俺を眺めた末に番兵は通路に引き下がり、信じられないほどの警戒心をもって扉を再び施錠した。
俺は高笑いしてそのまま眠った。
それから(俺の判定だと)四分ほど眠りこけたところで、枕元にそびえ立つ少なくとも六人の男に起こされた。夜の闇は濃く、尋常じゃなく寒かった。俺は連中を睨みつけながらこれはまたどんな犯罪を犯しちまったんだろうと思い巡らした。連中のひとりが繰り返していた、「起きろ。行くぞ。四時だ」何度か失敗したがなんとか体を起こした。連中はおれを円く取り囲んだ、足並みを揃えて数歩進んだ先に倉庫のような部屋があり、そこで俺の大袋小袋それに外套も返却された。その際いくらか愛想のいい声の番兵が半分に割ったチョコレートを手渡してきて、こう言った(かるく凄みを効かせた口ぶりだった)、「とっとけよ、いいから」杖も見つかった、この「備品」を連中がふざけて弄んでいたから俺が使い道を教えてやった、杖のぐるっと曲がった先に袋の口を輪っかにしてひっかけて誰の手も借りずに荷物を背負い上げてみせた。新しい番兵二人が ––––あるいは憲兵二人のほうがいいかもしれない–––– 俺の身柄の護送を正式に引き受け、俺たちは三人で通路を進んだ、あの歩哨がやたらにこちらを気にしていたので、俺は声高らかに返事のないさよならを告げた。歩哨がこちらを間抜け面で眺めているのがありありと見えた、薄闇に奇妙な姿形を浮かべていたが、踵を返して行ってしまった。
(第08回 了)
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