心惹かれるタイトルである。ずいぶん昔に出版されたものだが、息の長い魔法ブームで、この本の人気も息が長いようだ。それにしても、こういうことは紙の書籍ならではだろう。魅力が古びない、いやいっそう増してゆくというのは。それもまた現代に残された数少ない魔法かもしれない。
魔法ブームというのは、世界的にはハリーポッターだ。日本語版で読むとなにやら軽々しく単なる荒唐無稽、それでいて学校制度にのっとっているところがラノベ的な児童文学としか読めない。よく売れたものだ、と思う。というのも、原文は古語混じりで、重厚な文体と本のボリュームが雰囲気を醸し出しているという。それがご都合主義っぽい学園ストーリーとミスマッチして大ブームとなった。
さすがはイギリス、魔法もファンタジーも本家本元だけのことはある。もちろんすべての物語は『アリス』と引き比べられるのだから、奥行きや重層化なしには本質的に受け入れられるわけはないのだ。そして「魔女」という概念においても、歴史とバックグラウンドがあるという点で、日本的に翻訳された「魔女」のイメージとは違っているだろう。なにしろ日本では、ほぼラノベの「ハリーポッター」が受け入れられるのだから。
日本での「魔女」はすなわち『魔女の宅急便』のキキであり、古くは『奥さまは魔女』のサマンサである。これはこれで悪くないけれど、「魔女」や「魔法」の「魔」が「悪魔」の「魔」であることは、これら日本語表記にも表れていて、ようするにアンチ・キリストの要素がなければ「魔女」ではない。
キキちゃんやサマンサときたら、ヘタすりゃ「神さま、助けて」と十字を切りかねない。そこで一瞬でも躊躇する姿があれば、「あ、こいつら違うんだ」と伝わり、見る目も変わってくる。それがテレビドラマやアニメにとってプラスになることはないが、魔女というものが可愛い不思議ちゃん、という意ではない、少なくともそうではない文化から生まれた概念だというのは知っていてもいい。
『魔女図鑑』の魔女は不潔で意地の悪いお婆さんで、少なくとも可愛い不思議ちゃんではない。可愛い不思議ちゃんを探したければ『制服図鑑』でも眺めるほうがよいのであって、「魔女」という概念は本来そういった「制度」から逸脱するもの、それゆえに火炙りの刑に処せられてきたものだ。
『魔女図鑑』の魔女の暮らしぶりはグラビアに載るようなものではないけれど、それに異和感をおぼえる日本の読者もいるだろうけれど、子供たちは結構、喜んで見ているようだ。母親もまた「家庭画報」や「フランス女性の24時間」に飽きあきしているなら、いや他人の暮らしなんてこんなものかも、と思うだろう。
そう、他人も他人、魔女は我々にとって他者なのだ。キリスト教文化圏にあってそれに属そうとしない筋金入りの魔女は、だからといって仏教徒なわけでもアジア的なわけでもない。その日常は非宗教的でのんきなものではなくて、反宗教的であるがゆえに毒と緊張に結びついている。『魔女図鑑』はそれをユーモラスに描いているが、そのユーモアが通じるのは本来の概念が通じるところにかぎるのかもしれない。
金井純
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