「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
21世紀のカーペットバッガー
やかんの中に、昼間作った麦茶を入れてそのままにしている。
なんだかやかんの中に、最高にクールだと感じた夏の日の思い出を閉じ込めているような気分になり、まだそのままにしている。その日が具体的にどんな感じでクールだったのかは思い出すことができない。麦茶も依然、そのままだ。
「早くポットに移し替えなよ」と同居人が言う。
たぶんだけど、僕に訪れるはずだったあのクールな夏の日は、やかんに入った麦茶をポットに移し替える程度の手間さえかければ、ちゃんと訪れていたのかもしれない。その日が僕に来ることはなかった。
「早くポットに移し替えなよ」と同居人がもう一度言う。
僕は麦茶をやかんの中に入れたままにしている理由を同居人にうまく説明することができない。歯がゆい。
「もう」としびれを切らしたのか、同居人は自分で立ち上がって難なくやかんの中の麦茶を洗って干しておいたポットに移し替えてくれる。たぶん、あの人にはきっと、最高にクールな夏の日を感じる瞬間があったのだろうと、なんとなく思う。
「ねぇ」
「なに」
「クールだった?」
「どういうこと」
訊き返されてしまった。
僕はやっぱりうまく説明することができない。歯がゆい。
どっちでもいいじゃない。
同居人は台所に立つ僕に向かって、居間のソファーに座ったままそう声をかけてくる。
「いや、だめだよ」
僕は流し場の上に備え付けられた蛍光灯の明かりで、海苔の裏表を見極めている最中だった。
「ねぇ」
「なに」
「本当にクールな人は、海苔の裏表なんか気にしないよ?」
「まさか」
まさか、と僕は思った。
「イエス・キリストは海苔の裏表なんか気にしなかったと思うよ」
同居人はそう言い放ってから、居間のテレビのほうへ向き直ってしまった。
そうかもしれない。
僕が海苔の裏表を気にしている間に、キリストをはじめ、僕以外のみんなは最高にクールな夏の日を過ごしているのかもしれない。それは僕にとっての国境線のようなもので、やかんの中に麦茶を閉じ込めることで、僕は僕以外の人たちの侵入を防いでいる。国境なのだから、当然そこには警備員を配置している。彼らは侵入者から僕を守ってくれている。
彼らを何と呼ぶべきだろうか。
孤独?
同居人も出かけてしまって部屋に誰もいないある夏の日、僕は麦茶を作る。やかんの中に入れて、そのままにしておく。国境を守る警備員がすばやく所定の位置につく。そのとき。
「ただいま」
同居人が戻ってきた。警備員たちは警戒を強める。待て、と僕は彼らを制御する。
「あれ、また麦茶移し替えてないの」
僕はそれに対して返事をせずに、同居人が靴を脱いで玄関に上がる様子をずっと眺めている。侵入者であるはずの同居人は、やかんに触れることなく居間にやってきた。
「ねぇ」
「なに」
「クールだった?」
そう訊かれた。
最高にクールな、夏の日の出来事だった。
おわり
バカは逆立ちができない
逆立ちができるようになりたい。
ぼくがそう言うと、友人は「簡単だよ」と答えた。
「どうすればできるようになるんだろう」
自慢じゃないけど、ぼくの運動神経はとびきり悪い。50メートル走のタイムはクラスで一番遅い。女子も含めて、だ。体育の授業で鉄棒を練習することがあった。ぼくは前回りが出来なかったせいで、ひとり居残りで放課後に鉄棒の前に立たされた。体育教師とにらめっこをしながら時間が過ぎて、ついには放課後の終わりを告げるチャイムが鳴る頃、しびれを切らした体育教師が無言のままその場を去っていった。運動神経が悪くとも、先生に勝てることをぼくは知った。
そんなぼくだ。
「どうすればできるようになるんだろう」
「簡単だよ」
友人は答えた。
「まずは逆立ちというものに君が抱いている概念をとっぱらうんだ。固定観念を覆してしまえば、逆立ちが逆立ちじゃなくなる。逆立ちは君にとって当たり前のことになるんだ」
「こてい、かんねん」
友人はいつも決まって難しい言葉を使う。おまけにおかしなことも言う。「逆立ちが逆立ちじゃなくなる」なんて、よくわからない。ぼくはこの友人が実はバカなんじゃないか、とも思う。でも定期テストの点数で、クラスどころか学年でも彼の成績はトップをとっている。ぼくは下から数えたほうが早い。だからぼくは自分がバカだから理解できないんだと思い、とりあえずこの友人の言うことを聴くことにする。
「もっと具体的に教えてくれないかな」
「具体的、か」
「そう、ぼくはどんなことをすれば逆立ちができるようになるか、それを知りたいんだ」
友人は腕を組んで考え込む仕草をしてみせた。本当に考えてくれているのか、それとも考えているフリをしているのか、それはぼくにはわからない。でもこの友人はいつだったか、ぼくに前回りの居残りをさせた体育教師のことを指して「あいつは本物の馬鹿だから気にしなくていいよ」とこっそりとぼくに耳打ちしてくれたこともあった。だからぼくは彼のことを信じることにした。
放課後だった。
どこからかカレーの匂いがした。
放課後になると、不思議とどこからかカレーの匂いが漂ってくるのは不思議だなとぼくは思った。放課後というのはもしかしたら、カレーの匂いのようなものなのかもしれない。校庭では同じクラスの秋吉君が、ひとつしかないバスケットコートにぽつんと立っていた。何をしているのかと思えば、スリーポイントシュートの練習をしているようだった。でも秋吉君の腕から放たれるボールはそもそもリングに届かないで、その手前でふんと落ちてしまっていた。もう少しリングに近づいたほうがいいんじゃないかなと思ったけど、秋吉君は頑なにスリーポイントシュートの練習を続けていた。放課後だった。
「君にとって逆立ちが逆立ちでなくなれば、いいわけだから」
「うん」
「君はいつも自分のことを「ぼく」と呼んでいるだろう?」
「そうだね、「オレ」なんて呼ぶのはなんか恥ずかしいな」
「じゃあそれを逆さまにしてしまおう」
「うん」
「君は今日から「くぼ」君だ」
ぼくはこの友人が実はバカなんじゃないかとも思う。
ぼくは「くぼ」ではない。
文句を言おうとして、ぼくは友人に話しかけようとしたらもう彼は用が済んだと思ったのか、そこからいなくなってしまった。あれ、と思い、周りを見回していると、バスケットコートのところにいる秋吉君になにやら声をかけていた。秋吉君の表情はここからだとよく見えないけど、なにやら首を縦に動かしている。たぶん友人の話を熱心に聞いているのかもしれない。よしたほうがいい、とぼくは思った。なにせ友人はバカかもしれないのだ。秋吉君、きみがするべきことは自分の立つ位置をもうちょっとリングに近づけることなんだ。
話が終わったのか、友人はぽんぽんとぼくのほうに戻ってきた。
「なに、話してたんだい」
「秋吉君がシュートがちっとも入らないって言うから、ちょっとアドバイスしただけだよ」
「なんて」
うーん、と友人は考え込む仕草をしてみせた。フリなのかどうか、ぼくにはわからない。
「ひみつだよ」
「なんで」
「なんとなく」
友人はそう言ってから笑った。どうせまたコテイカンネンに関することでも言ったのだろう。ぼくは、もしかしたらその瞬間、友人を心の中で軽蔑してしまったかもしれない。そのことに関しては、今は後悔している。
「ほら」
友人がバスケットコートのほうを指差した。
秋吉君が、さっきとは全然違うフォームでボールを放った。
綺麗な放物線を描いたそれがゴールに吸い込まれていく様子を、二人で眺めた。
「ねえ」
「なに」
「ぼくも逆立ち、できるかな」
「できるさ、きっと」
辺りから。
カレーの匂いが消えた。
おわり
Kさん宛の手紙
今から流れる文章は、もう3年も前に僕がある友人へ向けて送ろうといろいろ準備したにもかかわらず、ついには恥ずかしくなって、送り損ねた手紙になります。
僕は誰かへ向けて手紙を書くときにまずパソコン上に打ってから、それを便箋に書き写すという方法を取っています。先日、データの整理をしておりましたところ、その懐かしい文章をふと読みたくなってみたのです。
3年前。
若輩者である僕の身からすれば長い年月です。
今改めて読み返してみると、どうしてなかなか、これはちょっとした文章なのではないかと思い、この場で、名前を伏せることで発表してみることにしました。また恥の上塗りをしてしまうかもしれませんが、もしかしたら3年後、つまり現在の僕のように、「ちょっとした文章」と思ってくれる人がいるかもしれない、そんな淡い期待を込めて、送るべき相手に届くことのなかったこの手紙を発表することにいたします。
それでは。
*
K様
ああ。
ため息から始まる文章にろくなものはないと言います。
その通り、これからダラダラと綴られる文章はろくなものではないので、今から申し訳ない気持ちでいっぱいです。
性懲りもなくまた書いてしまいました。
どうやら僕は「手紙を突然書きたくなる」病にかかってしまっているのかもしれません。そしてやはり宛名にはあなたの名前が思い浮かんでしまいました。
こんな恥ずかしい文章をあなた以外に見せることなどできない、というのも理由のひとつです。あなたは幸か不幸か、僕のダメな部分をたくさん知ってくれています。
そういう意味ではとてもありがたい存在です。
ありがとう。
さきほど少し病気の話をちらつかせてしまいましたが、実は今僕の体調はすこぶるよろしくありません。
先日はさすがのあなたでさえ、僕に心配の旨を伝えるメールをしてくれましたね。あれはすごくうれしくて、その日一日は顔のほくそ笑みが止まりませんでした。通りすがりに僕を見た人はさぞかし気味悪がったことでしょう。
医者の話ではヘントーセン、なるものがひどく腫れているらしく、そのせいで腎臓やら肝臓にも悪い影響が出ている可能性があるとのことです。
そんなことが起こり得るのかは素人の僕にはわかりませんが、とにもかくにもヘントーセンというやつが悪さをしていることだけは確かなようです。
そうです、僕がこのようなしごく迷惑な手紙を書いてしまうのも、ひとえにヘントーセンというやつのせいなのです。
どうかここは僕のヘントーセンに免じて、少しだけお時間をお借りできれば幸いです。
ああ。
またため息を吐いてしまいました。
いつだって僕は前置きが長すぎるのです。自分でもわかってはいます。でも、止められないのです。どうしようもない人間です。
やっと本題に入ることができます。本題とはいっても別に大した内容ではないですし、ひょっとしたら本題のほうが短いことだってあり得ますが、気にしないでください。
忘れてください。
世の中には忘れたほうがいいことだってあるのですから。
さて、本題。
今日はあの日のことについて書こうと思います。
あなたと二人でS夫妻宅へ遊びに行った日のことです。
11月16日のことでした。
あの日は僕が下心を出して早めにあなたを呼びだそうと池袋で待ち合わせをしたところ、日頃の多忙さであなたが寝坊したために僕の悪だくみは見事に外れてしまいました。悪いことはできないものだなと痛感しました。
無邪気に僕の財布を手にするあなたの珍しいスカート姿も、埼京線車内での心地好い沈黙も、僕にとってすべてが至福の時間となりました。
駅に着くとそこかしこにクリスマスの装いが為されていて、木枯らしの冷たい風でさえ冬の匂いを運んでくれているようでもありました。
S氏はいつものようにひょうひょうと現れて僕らをあっという間にかっさらうと、奥様であるY子さんの運転する車でスーパーへと連れ去られましたね。
二人はまるで本当の夫婦のようでした。
いえ、本当の夫婦であることは間違いないのですが、そうなる前の二人をほんの少しだけ知っているだけに、二人の振る舞う夫婦的やりとりはなんだか夢でも見ているかのように思えてくるのです。
スープのやりとり。
お肉の量について。
もやしともやし豆の違いについて。
お鍋は偉大な食べ物です。
そこにあるだけでいろいろな会話が生まれます。
僕はS夫妻とあなたと一緒にいれることが誇らしく、自分のみじめさも忘れてその場を楽しむことができました。
誇り。
ともすればそれはとてもくだらないことに思えます。
事実、僕の中には捨ててしまいたい誇りとやらがたくさんあります。
でもY子さんの前で背すじを伸ばしてしっかりと挨拶するあなたの姿はとても美しいものでした。
それを誇りと呼んでいいかどうかはわかりません。
でもきっと、あなたの中の大切な何かがそうさせたのでしょう。
僕にとって、そんなあなたと知り合えたこと。
そのものが大切な誇りなのです。
あの日はずいぶんと早く時間が過ぎてゆきました。
デザートの特製寒天を食べ終えて、与野本町駅まで歩く足取りはひどく重かったのを憶えています。まあ単純にお腹が膨れていたせいもあったかもしれませんが。
こうして文章にしてみると、あの日の記憶が甦ってくるようで、僕はひとり楽しくなってしまうのです。もしもここまで読んでくださっているようでしたら、そんな僕の愉しみに付き合わせてしまってごめんなさい。
そうそう。
最後になりますが、お誕生日おめでとうございます。
本当はこの一言を言いたかっただけなのですが、ずいぶんと遠回りをしてしまいました。
やっぱりごめんなさい。
すべてはヘントーセンのせいなのです。
おわびに何かプレゼント的なものを贈ります。もしもご迷惑でしたらこっそりと捨ててください、僕の見えないところで。
それでは、日頃の感謝も込めて。
25歳のお誕生日おめでとう。
ごうき
*
いかがでしたでしょうか。
ちなみに、僕はKさんのことを天使と呼んでいます。彼女はまさに天使のような存在だから、僕はそう呼んでいます。
こうしてまた恥の告白を重ねたところで、本日は失礼させていただきます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
今後、またもしテキストの上でお会いする機会がありましたら、そのときはどうぞお手柔らかに。
よろしくお願いします。
おわり
(第20回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■