* 永田耕衣墨書作品「生死神通」。九十一歳の「旭寿」(耕衣の造語)以降の作品(著者蔵)
■『葱室』(昭和五十九年-六十年)■
餅膨れつつ美しき虚空かな
衰えは秋霜に在り天照るも
父母の昔の霜を踏みにけり
柚子の香や夢と思いて働く人
空蟬に肉残り居る山河かな
朝顔を秘するが如き命かな
父母未生以前の稲の花なりけり
わらんべの寂しさに在り炎夏翁
田荷軒風騒
こわれずに在る空蟬の余命かな
維摩経・方便品第二 賛頌
菜の花や此の身の響の如く行く
書漢、井上有一の死・六月十五日
狼有一また出て来うぞ桐落花
金魚鉢我等死す事明らかなり
茄子の雨・雨の茄子でも同じ事
葱室やひつくり返る物も無し
少年を噛む歓喜あり塩蜻蛉
皆過去の眺めせりけり赤蜻蛉
葱屑の夢の水照りを眺め哉
死を以て逃亡と為す葱の国
逃亡も夢なり夢なり葱の国
■『人生』(昭和六十一年-六十三年)■
渇愛の葱葱と葱刻むなり
花茨忘も不忘も忘れけり
河骨や天女に器官ある如し
土方巽・追悼追加一句
芍薬や難思ゆたかなる舞漢
亡妻ユキヱに献ず
澄む水の平面遠き思いかな
この露と暫く居れば露となる
盤珪不生臨済不滅冬日二個
白隠に参つたまる餅冬日達
餅白うして人間に怖れあり
亡妻追憶品
遺影妻春や雲公してくるよ
春の道この滑稽な〈延び〉掴まね
空蟬の生の空機の山河かな
今日雲公出ぬと申すに牡丹哉
蘇東坡銘
撫子や我が死一点未完にて
盤珪禅師銘
撫子や我迷わねば迷い無き
枯草を触るは燃ゆる心かな
我いずれ我をば失すお茶の花
秋霜や綺羅裡綺羅綺羅それでよい
触り合い藁塚動く世の怖さ哉
■『泥ん』(昭和六十三年-平成二年)■
薄氷が写さんとしき綾晩年
虻唸ヤ放屁無クンバ人死ナン
火蛾の我の終の溺れの白湯哉
新民俗学考
割箸は昔西日に供えしなり
白髪葱人生は生のマンネリズム
橋の辺に箸割る音や秋の暮
満月の姥捨山の放屁かな
源流は其処で終つて春の暮
大晩春泥ん泥泥どろ泥ん
泥んまで行かねば淋し春の暮
色身の消入り現れ入り夏景色
烈日の西日なりけり最晩年
蓮辨や神の顔剃る人現れぬ
人類を泥とし思う秋深し
翁行くまだ六歳の秋風と
冬*父ノ母ノ胎ニゾ還ラナン
雪景や老松途中如如途中
■『狂機』(平成二年-三年)■
洪水やご幣造りは亡父かな
濁を以て透徹と為す洪水記
金子晋、即今野老足かけ九十一歳を狼頌するに《旭寿》の二字を発明す
女声蟇君かや我は旭寿翁
死んだかと問えば笑いつ鯰の死
鯰の死*生死残像共に臭し
窮達の放屁いづこぞ秋の暮
田荷軒狂風五位品 父林蔵に難便苦ありき・偲びて一句
今日亡父代りの脱糞とす露の世
老狐その尾俺に呉れんかい早う早う
文学を飼わば冬日の泥んなか
日日生死反復の贅薄氷
鴛鴦を眼下に如如と野糞哉
死に遅れ猪と遊ばな桃の花
親しめば生死泥どろ春の暮
人生の濁ゆたかなる牡丹哉
平成三年五月十八日・第六回・詩歌文学館賞受賞・所感
白牡丹俺死んだんと違うんやな
薄氷の虚空に乱れ心在り
■『自人』(平成四年-七年)■
源流の貧をば喫す心延びて
源流の現実は強観念なり
老雪や無欲の欲が深くなる
大腿骨マル折レノ秋深キカナ
秋空も乾空乾のむくろかな
云うたら然やろ季語もみな人類や
朝顔や糞出ざれば無能なり
神に枯茄子の思い出水の如し
今日放屁一発も無し池暑し
朝顔や死神は少年であつて欲し
焼藷の金色荘厳食なれや
人間の遠薄氷の時間かな
白蓮の虚空ぴたりの自人かな
無眺めの無無の無の無や冬の海
白梅や天没地没虚空没
死心地の肉体の夢梅の跡
■『未刊集・陸沈考』(平成七年-八年)■
自家倒壊の大地震難や白梅忌
カンカラと缶響くなり空初音
うぐいすや水田に水田が写つとる
枯草や住居無くんば命熱し
みな夢の真んなか遠し春の暮
有時人生生死共に多多や虚空蝶
梅花父母
父恋が母恋なりき梅白し
父母の忌は白梅に任せけり
梅花咲き出したというて泣きにけり
梅花とは何ぞ父母寂しき
或る日父母が居ないと思う梅花かな
梅花永らへて父母と同じき
泣かで泣く梅花挟みの涙かな
【付記】
永田耕衣後期俳句全集である『永田耕衣俳句集成 只今』(平成八年[一九九六年]沖積舎刊)から百句を選んだ。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■