三崎亜記の Imaginary Reportage というのが、なかなか読ませる。まずこれは何なのかと思ってしまう。一見するとフィクションらしくない書き方で、本当に事実をレポートしたものかと錯覚する。
内容としては、七十年前の書物に書かれている「ガミ追い」という風習を現代に再現した若者のグループのドキュメンタリーということだ。
リアルなドキュメンタリーに見えるのは、まずその七十年前の書物からの抜粋・引用がていねいに細部まで描かれているからだ。こういったものとしては基本だろうが、真に描くべきなのは「観念」であり、それを捉えていないかぎり、でたらめをそう細かく書き込めるものではない。
「ガミ」というのは、もちろん「神」からきた観念だろうが、ときに人々の間に広がることのある、言葉にし難い不快感や不安感であるという。かつて「ガミ」を追いかけて網で捕獲する風習というか、まじないというか、そういうことを請け負う人々がいた。その風習が現代でも行われるようになり、ただ、それは当然のことながら現代的な背景を持つ。
リーダーの小早川はソフト会社に勤めていた女性だが、「ガミ追い」に対して極めて客観的でビジネスライクな態度でいる。「ガミ」はパソコンで見つけ、動きを追い、メンバーが捕獲する。それは昔と違い、都市部でおこなわれるので、ビルの合間を縫って追跡されもする。過去には「ガミ追い」断絶の原因となった、まさにその電車などの交通網を使って、ガミは追われる。
都市の発展によって失われた共同幻想が、あるいは一種の都市伝説として、変容しながらネットの中で姿を見せる。そういうことかとも思う。捕まえられた (と思しき) 「ガミ」は、昔は分割されて人々の護符となったが、現代ではネットオークションで売られる。人々の集団的な無意識がそれに価値を見出し、値をつけるにまかせられるのだ。
ドキュメンタリーの最後、リーダーの小早川をはじめとするメンバーが次々と死に、「ガミ追い」は三年におよぶ活動をやめ、解散状態となる。それはかつての「ガミ追い」の人々にも起こったことだという。
それを祟りだ、と言うのは簡単だ。が、むしろ「人生」そのもののようだと言う。結局のところわかっているのは、何かを「追う」者は「人生」を「負う」のだということだけだ。そして結局のところ、このような端的な「人生」についてのメッセージをすでに、いわゆるフィクションは負うことができないのではないか。フィクションはもはやエンタテイメントでしかなく、ドキュメンタリーを超える説得力をもって「人生」を語れない。それが「純文学」が力を失ったということに他ならない。
作家の手つきは最後までリアリティを失わず、その「人生」への言及も、ドキュメンタリーにありがちな締めとして、しかしテレビのドキュメンタリー番組程度には説得力をもって終わる。この作家の名は papyrus 42号の表紙では、「小説」の括りの中に入っている。
長岡しおり
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