リニューアルしたそうである。何をかと言うと、連載を増やしたとのことだ。文芸誌が手軽にやれるリニューアルと言ったら、連載と読み切りのバランスをいじるか、ヴィジュアルを加えるかぐらいしかない、とは思う。結局のところは作品が並んでいるのが文芸誌で、その作品の書き手たちは、そう簡単にはリニューアルできないのだから。
実際には、長く続いている雑誌は動かない特徴を持っていることが多いみたいだ。連載か読み切りかと、右往左往でリニューアルをするのは、雑誌の寿命を縮めるのではないか。どこにでもある他の雑誌との違いを理解してくれる読者は存外、少ないだろう。
とは言え、ある人いわく「どんな人にもファンはいる」。これは芸能人についてのコメントだったが、雑誌カルチャーもそうだ。赤字であったにせよ、リニューアルで編集方針がふらついたにせよ、さらにはメチャクチャだったとしても、そのカルチャー周辺にはまあ、ファンはいるっちゃ、いる。そして芸能人でも雑誌でも、そういうファンに囲まれている限りは別段、自己を省みたり、否定したりする理由を見出さないのが普通だ。ファンにとっても、外部からの声など余計なお世話というものだろう。それが浮気をしない、いわゆるコアなファンであれば。
yomyom の固定ファンが、コアと言える強度を有しているかどうかは、残念ながらわからない。強度がないからリニューアルするのか、あるから安心してリニューアルするのかも、編集部だけの問題に過ぎない。
で、そのリニューアル誌面で残った、ほとんど唯一の読み切りは新井素子の短編である。
新井素子という作家は、ずいぶん以前からいる人だという印象がある。きっと固定的なファンを持っているのだろう。そういう作家は自分のファンの顔を思い浮かべながら書いたりするんだろうから、その作品の完成度だの文学的価値だのを、外野がやいやい言ったところで無駄なことだ。作家のファンと雑誌のファンとの重なり合いにしか、本当のところ小説を掲載する意味もない。
小説は、地震で停まったエレベーターの中のことだ。ごく狭い空間に死人が出て、恋が生まれ、医療部隊もトイレも設置され、小便を飲料水として食べ物の分配、携帯電源によるローテーションでの時刻確認――で、たった一日ぐらいしか経ってないとわかる。
出色の出来なのは、しりとりが始まるところだ。こういった場合に人間たちがやるだろう、馬鹿馬鹿しくもリアリティのある場面。
どうしてもわからないのは、そのエレベーターに閉じ込められていた女主人公が実はドラキュラだった、という最後の展開である。エレベーターの中での社会の発生、しりとりのユーモラスなリアリティを楽しんだ口には、それをどう受け取ったらいいのか困惑する。面白いか?
だが、それがきっと新井素子とファンの間で成立している何かの「お約束」なのだろう。「読むこと」はいまや、他者たちの間の約束事を確認する作業となるほどに、ミニマル化している。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■