その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第五話
風呂場の排水溝の詰まりがひどくなってきた。夫の抜け毛が増えたからだ。
最初にそれに気づいた今年の夏ごろは、一時的なものだろうと思っていた。当時、夫の新一は仕事が忙しかったうえ、大阪の実家に住む母までクモ膜下出血で倒れるなど、心身ともに過酷な状況だった。だから、月日が経って疲労やストレスが軽減されれば、すぐに元に戻るだろうと高をくくっていたのだ。
けれど、その予想は完全に外れた。
夏が終わり、秋が過ぎ去り、冬がやってきても、新一の抜け毛は一向に減らなかった。排水溝に詰まったモズクみたいな抜け毛の塊を毎日のように掃除しているのだが、それでも翌日になるとまた同じ大きさの塊が見つかる。
最近は風呂あがりの新一を正視できなくなった。雨に濡れた雛鳥みたいになった頭髪が目に入ると、物悲しい気持ちになってしまう。前頭部なんて、いつからあんな簾のようになったのだろう。大人の男は前髪を下ろすべきではない。
新一は私より一歳上の三十九歳だ。結婚した十二年前と比べると、お腹が大きく張り出し、さらに垂れ下がり、全体的な体型もどこかのゆるキャラみたいに丸くなった。だから、この頭髪事情も加齢によるものなのだろう。自然に薄くなってきただけなのだろう。新一はもう立派な中年のオジサンなのだ。
その日の新一は夜十一時過ぎに自宅マンションに帰ってくるなり、酒のにおいを振りまきながらリビングのソファーに横になった。今日も仕事帰りに新宿で飲んできたようだ。十二月に入ってからは毎日こんな感じだ。
「ちょっとー、ただいまくらい言おうよ」
私がたまらず口を出すと、新一は目も合わさず「ああ、わりい。ほんなら、ただいまー」と気のない返事をした。大阪育ちながら東京在住歴が二十年以上にもなる新一だけに、大阪弁と標準語が奇妙に混ざり合った独特の言語だ。
「そのお腹……また太ったんじゃない?」
「ん、そうか? もっと太ってる奴、いっぱいいんじゃん」
出た、デブまっしぐらの言い訳だ。曙と小錦の張り合いだ。私は小さく息を吐いた。これ以上、抵抗しようとは思わない。夫の現実を受け入れるのみだ。
新一はおもむろに靴下を脱ぎ捨て、足の裏をかきむしった。角質なのか皮膚なのか、とにかく得体の知れない白い粉みたいなものがポロポロ零れ落ちる。
「ちょっとー、そこに靴下捨てないでよ」
「ええやん、別に」
「ダメだって。新ちゃんの靴下くさいんだから」
「人間だって動物なんだから、くさくなって当然」
「はあ?」
「健康な証拠だよ」
ダメだ、意味がわからない。開き直りにもほどがある。絶望感が洪水のように押し寄せてきた。新一は女性にもてることをあきらめてしまったようだ。
もっとも、私だって偉そうなことは言えない。ときどき、街のウィンドウに映る自分の姿を見て落ち込むことがある。ヒップラインはずいぶん下がり、二の腕も風に揺れるほどたるんだ。それもまた受け入れるしかないのだろう。
気持ちを切り替えるべく風呂に入った。無駄とわかっていながら、入念に腹部のマッサージをする。美容法やダイエット法はいくつも試したが、どれも長続きしなかった。モデルや女優のように、努力を重ねて外見を磨けば磨くほど、そ
れ相応の恩恵を受けられるような環境に身を置かない限り、人間は緊張感を持続できないのだろう。小学生の子供を二人抱える普通の母親は、たとえ綺麗になったところで相応の見返りがない。だから、がんばれない。
風呂からあがると、リビングに新一の姿はなかった。今日もそのまま寝るつもりなのだろう。新一は朝風呂の習慣があるためか、寝る前の風呂を面倒くさがって回避することが多い。私としては、やっぱり清潔になってから寝てもらいたいのだが、これまで何度言っても変わらなかったため、今は受け入れている。
寝室はすでに薄明りになっていた。ダブルベッドに目をやると、布団の片側だけこんもり盛り上がっている。新一のイビキが不規則に聞こえてきた。飲酒が一定量を超えた日は、このイビキも騒音なみにうるさくなる。
私は不快感をおさえながら布団にもぐりこんだ。隣で胎児のように丸くなる新一に背中を向ける。しばらく目をつむったが、眠れそうになかった。こういうときも、私は無理に抵抗しない。眠れそうにないのなら、眠らなければいい。
ほどなくして、背後のイビキが止まった。新一が目を覚ましたのか、背後でもぞもぞ動く気配がする。「亜由美……」囁くような声が聞こえた。
次の瞬間、なにやら湿り気のある生温かい感触が首筋に走った。すぐに新一の舌だとわかる。私は乱暴に体を引き寄せられ、あっというまに組み敷かれた。目を開けると、新一の顔が迫ってくる。そのまま唇が触れ合うや否や、鮮魚の切り身みたいな柔らかいものが口の中にぬるりと入ってきた。
う、くさい……。心の中で顔をしかめた。酒とタバコのにおいに加え、汗のにおいも強烈だ。これだから寝る前は風呂に入ってほしい。
二人の子供のことが少し気になったものの、すでに別室で寝ていたことを思うと、全身に力が入らなくなった。新一の欲望をあっさり受け入れてしまう。
甘い言葉も満足な愛撫もなく、ただ淡々と挿入された。快感もなければ感想もない。自然に濡れてしまうから痛くもない。あの女性特有の生理現象は、実は心身の状態とは無関係なのではないか。ただの防衛本能かもしれない。
新一が果てるのを待ちながら、適当に声を出した。痛みはないものの、精神的には苦痛だ。青山で事務の仕事をしていた二十代のころ、満員電車で経験したオジサンのにおいが新一からも発生していると思うと、無性に切なくなる。
それでも抵抗する気になれないのは、それによって生じる未知の領域がなんとなく怖いからだ。思えば子供のころから、この抵抗というものが苦手だった。なんでも素直に受け入れるほうが私の性に合っていた。抵抗に伴う責任と正面から向き合うくらいなら、誰かにしたがっていたほうが楽だ。時として波風が立ったときも、その波風に吹かれるまま、ふらふらと流されていればいい。
私は口呼吸を意識して、丸みを帯びた新一の背中に両腕を回した。この人のことが嫌いなわけではない。人間的には真面目で優しい良き夫だ。だいたい、オジサンになった夫をオバサンになった妻が拒絶してどうする――。そう自分に言い聞かせながら、ひたすら新一にしがみついた。不思議と体が熱くなった。
二人目の子供が生まれて以降、新一との行為はめっきり減り、今では数ヶ月に一回程度になった。新一にはわかりやすいところがあって、こうやって思い出したように迫ってくるときは、たいてい私になにか相談事があったりする。
この夜もそうだった。新一は私から離れると、隣で脱力したように仰向けになりながら、なにやら意味ありげで大袈裟な溜息を繰り返した。「どうしたの?」と私から訊いてほしいのが見え見えなので、あえてしばらく放置する。
「どうしたのって訊けよ!」新一が開き直った。
「あはは」思わず笑ってしまう。「だって、わざとらしいんだもん」
「なんか話しにくくなったやん」
「そんなに重い話なの?」
「まあ」
「えっ」不覚にも動揺した。「まさかお義母さんの容態のこと?」
「いや、それは安定してるみたい。意識は戻ってないけど」
「ああ」
「そうじゃなくて……」
新一はそこでいったん咳払いをして、仕切り直すように言った。
「大阪に引っ越すのってどう思う?」
突然すぎて、なにも頭に浮かんでこなかった。
壁時計の針の音、加湿器の音、唾を飲みこむ音、心臓の音、呼吸の音、とにかくあらゆる音がやけに耳に響く。聴覚神経が自分のものではないみたいだ。
「……お義父さんと同居するってこと?」
私が訊ねると、新一は小さくうなずき、事情を話し始めた。
「実はさ、なんか言い出しにくくて、ずっと黙っててんけど、九月くらいにお父さんから言われてん。……実家に戻ってこうへんかって」
「お義父さんが!?」
「そう、びっくりするやろ。一人暮らしがしんどいんやって」
さすがに驚いた。いくら義母が長期入院中だからといって、あの義父の口からそんな弱々しい言葉が出てきたなんて信じられない。なにしろ、義父の傲慢さと遠慮のなさは半端ではないのだ。私と新一の結婚式が終わった直後から、私のことを躊躇なく亜由美と呼び捨てにし、さらにアホだのボケだのと息をするように言ってくるようになった。そんな高圧的な人なのだ。
「まったく、不思議なもんやな。俺は昔からお父さんのことを嫌ってたし、なんなら早く弱ってほしいと思ってたけど、いざ本当に弱ったとこを見せられたら無性に切なくなってさ。おかしいよなあ。嫌ってたはずなんやけどなあ」
新一はそこで自虐的な笑みを浮かべた。沈黙をうっちゃるように続ける。
「正直、前までは実家のことなんか深く考えてなかってん。今どき長男だからっていうのも古いし、俺の人生は俺のもんやし。だから、将来あの家に住む人がいなくなったら、そんときは売ればいいじゃんって軽く考えてた」
「うん」私はとりあえず相槌だけ打つことにした。
「だけど、最近は思うねん。なんていうか、あの家を壊してまで俺が築きたいものってなんやろうって。そうまでして東京に住む理由ってなんやろうって」
「うん」
「家を受け継ぐか、家を看取るか。そのどっちかを考えたとき、実は看取るほうが大変なんよな。家のリレーに抵抗して俺がアンカーになるってことやから。だから、そこまでする理由が東京にあったらわかるんやけど、よう考えたら別にそんなんないなって。だったら、抵抗に伴う責任のほうが重く感じてさ」
思わずハッとした。抵抗に伴う責任。胸がざわざわする。
「し、仕事はどうするの?」私は動揺をごまかすべく、パッと思いつくことを訊いた。「今の会社を辞めて、お義父さんの仕事を継ぐつもり?」
「まさか。俺に葬儀屋は無理やわ。そもそも昔から嫌いやったしな。だけど、映像制作の会社なら大阪にもたくさんあるやろ」
「まあ」
「だから余計に思うんよ。俺が東京にこだわる理由が、東京のほうが首都で最先端だからとか、その程度のことやったら、なんかこう、ダサいなって……」
「ふふ」無意識に小さな笑みがこぼれた。確かにそれはダサい。
「東京への固執って、要するに田舎者の発想なんだよなあ。ほら、花の都・大東京に死にたいほど憧れるって、なんかナガブチックじゃん」
その後、新一の話はどんどん脱線していき、いつのまにか清原和博の未来がテーマになった。おそらく清原は近いうちに離婚するという。どうでもいい。
私はそれを聞き流しながら、頭の中を整理した。正直、新一には言ったことがなかったが、自分なりに考えたことは何度もあった。我が夫は昔ながらの古い家系の、たった一人の長男坊なのだから、その妻なら大阪の実家のことが気にならないわけがない。あの家の未来を握っているのは、新一以外にいないのだ。
一方の私は東京の核家族育ちで、生まれてからずっと賃貸マンションで暮らしてきた。だから栗山家のような事情には疎いのだけれど、だからといって無頓着になるという世間一般のイメージは、あれはたぶん嘘だ。想像力不足だ。
実際は疎いからこそ無頓着にはなれず、「長男の嫁」という言葉から連想される未知の世界に不安を募らせてしまう。知らないからこそ、テレビなどから得た知識に翻弄され、さぞかし大変なのだろうと、重く受け止めすぎてしまう。
だから、新一と結婚したばかりのころ、私の母がよく言っていたものだ。
「亜由美はこれから大変になるのよ。いつかは大阪のお義父さんとお義母さんと同居して、栗山家のお墓を守っていかなきゃいけないんだから」
それを思うと、少し落ち着いた。そうだ、決して寝耳に水ではないのだ。ついにこの日が来たか、そんな感想のほうが正しい。わかっていたことなのだ。
新一はひとしきり清原のことを語り終えると、唐突に話を戻した。
「まあ、まだ決めたわけちゃうけど、そういう人生の選択肢もあるかもしれんなって思うから、亜由美の意見を聞きたくてさ」
「私の意見って言われても……。まだわかんないよ」
「そりゃそうだよな。急にごめん」
「ちょっと時間もらっていい?」
私はそう言って、頭ごと布団にもぐりこんだ。
こういうことに抵抗するのが苦手なのは自分が一番よく知っている。もしも私が抵抗して、このままずっと東京に住み続けたとしよう。それはすなわち、栗山家の歴史を私たちの手でいったん終了させ、新たな栗山家を私たちの手で築くということだ。破壊と創造をどっちも担うのは、あまりに責任が重すぎる。
リレーをやるなら、第一走者とアンカーだけにはなりたくないのだ。
それ以来、新一の様子はあきらかに変わった。
大阪行きについて口では「まだ迷っている」とか言いつつも、腹の底では決心が固まったように見える。今まで政治の話なんかしたことがないのに、急に大阪都構想について語りだしたり、やしきたかじんの病状を気にしだしたり、とにかく大阪を意識した言動が目立つようになった。こないだまで東京オリンピックの開催決定で興奮していたくせに、なんとまあ、わかりやすい人だ。
新一がそうなると、私まで流されてしまうのはいつものことだ。師走の日々を過ごしながらも、なんとなく東京での生活が終わりに近づいてきたような気がして、感傷にふけってしまう。きっと今回も、新一が最終決定を下せば私は受け入れるのだろう。従順な犬みたいに、ただ新一についていくだけなのだろう。
ただし、ひとつ気がかりなのは二人の子供のことだ。本当に大阪に引っ越すとなると、二人とも友達と別れることになるわけだが、それは大丈夫なのか。
「ねえ、大阪は好き?」まずは小二の秋穂にそれとなく訊いてみたところ、間髪入れず「大好きー。だって、USJがあるもん」と返ってきた。
「もし大阪に引っ越すってことになったら、どうする?」
「毎日USJに行くー」
秋穂は顔いっぱいに無邪気な笑みを広げながら、甲高い声を挙げた。大阪のUSJにはこれまで十回以上は行っているくせに、まだ飽きないようだ。この調子なら、たとえ大阪行きをごねたとしても年間パスポートで釣れるだろう。
一方、小五の孝介は「別に」と答えにならない言葉を発した。少し不安になったが、最近の孝介は反抗期に突入したのか、なにを話しかけても素っ気ない。九月から通い始めた進学塾も、最近は私の送迎を拒否して、一人で自転車通学している。だから、気にすることではないのだろう。そういう時期なのだ。
いつのまにか年の瀬が迫ってきた。テレビでは二〇一三年の主な出来事を振り返る、年末恒例の番組が連日のように放送されている。今年は岩手県を舞台にしたNHKの朝の連続ドラマ『あまちゃん』が空前の大ヒットを記録し、プロ野球では宮城県を本拠地にする東北楽天ゴールデンイーグルスが球団初の日本一に輝くなど、なにかと東北地方が盛り上がった。二年前に未曾有の大震災があったことを思うと、それは東京生まれの私にとっても喜ばしいニュースだった。
来年は大阪が盛り上がればいいな――。テレビを見ながら、そんな気持ちが芽生えてきた。大阪は派手でにぎやかで、おもしろい人がたくさんいて、安くて美味しい店がごちゃごちゃ並んでいる。私にとっては、そんなイメージだ。
だったら、大阪移住も悪くないかもしれない。生まれてからずっと東京で暮らしてきたのだから、他の土地に興味もある。ずっとマンションだったから一軒家にも期待がある。不思議なもので、だんだんわくわくしてきた。まったく、私はつくづく犬みたいだ。したがうことで幸せを感じるようにできている。
これまでもそうだった。幼いころは三歳上の姉のことが大好きで、いつも姉にくっついて遊んでいた。進学先の都立高校も、姉の母校だからという理由で選んだ。大学進学をせず、高卒で働きだしたのも、それが姉と同じだったからだ。
新一と付き合いだして以降は、そこまで姉に尻尾を振らなくなったが、その代わり新一がそういう存在になった。新一は根っからの長男気質で、何事も率先して行動するところがあるから、私としては尻尾を振りやすい。「あんた、新しい飼い主を見つけたみたいな感じだよねー」とは、いつかの姉の冗談だ。
二十代のころは、そんな自分に主体性のなさを感じ、若いころにありがちな「自分探し」というか、いわゆるモラトリアムみたいなものに陥りそうになったこともあったが、今はそれもなくなった。よく考えてみれば、私は決して主体性がないのではない。この犬みたいなアイフォローユーの生き方を自ら積極的に選んできた結果、今も昔もちゃんと充実感を得られている。
だいたい、犬はいい。従順だから、いつだって人に愛されてきた。いつだって人を癒してきた。人が犬に癒されてきたと考えるのは人の傲慢だ。
私にとって、したがうことは屈することではない。したがうことは自分を捨てることでもない。したがうことこそ、私の主体性なのだ。
いったん気持ちが大阪に傾くと、妙に腹が座ってきた。
地元の東京を離れることになれば、当然たくさんの別れがあるだろうが、家族と一緒だと思うと、そこまで寂しさを感じない。いつのまにか立川に住む親や横浜に住む姉よりも、新一と子供のほうが自分の家族だと思えるようになったのだろう。今は旧姓で呼ばれるより、栗山と呼ばれるほうがしっくりくる。
パート先のファミレスでは、残り少ない時間を噛みしめるように働いた。制服に着替え、ちらほら訪れる客を笑顔で応対する。客が少なくなると、パート仲間とおしゃべりに熱中した。厨房の隅は高校の教室みたいなものだ。
特に八重樫さんと杉浦さんは、私が入店した五年前からの古い付き合いだ。偶然にも三人とも同い年で、家庭では子をもつ母であり、夫をもつ妻でもあったため、すぐに意気投合して仲良くなったことを覚えている。
彼女たちともお別れになるのか。ふと思うと、無性に切なくなってきた。
この五年間、パート先は私にとって唯一の社会だった。狭くて地味な社会だけれど、それでも楽しい場所だった。帰りに三人でカラオケに行った回数は数えきれない。八重樫さんは大のジャニーズ好きで、いつも女だてらにジャニーズソングを熱唱していた。一方の杉浦さんは椎名林檎とか川本真琴とか、そういうジャンルを好んで唄っていた。男性だと、オザケンやくるりあたりが神らしい。
「ねえねえ、栗山さん聞いたー?」
私が厨房に入ると、八重樫さんが鼻息荒く話しかけてきた。隣に杉浦さんもいる。きっと他人の噂話だろう。おしゃべりタイムの定番ネタだ。
「さっき杉浦さんから聞いたんだけど、内藤さん辞めちゃうんだって!」
「えっ」
「ねー、びっくりするでしょー。あたしもマジびびっちゃったー」
八重樫さんは年齢に似合わない若者口調で言った。よどみのない笑顔を浮かべながら、大袈裟に目を丸くしている。今日も厚化粧だ。
相変わらず感情表現がオープンな人だ。全身からキノコが生えてきそうなほどジメジメしている私とは大きく違う。以前、新一に会わせたときも「八重樫さんって人は、苗字が八重樫なだけあってオープンスタンスやな」と言いながら笑っていた。それはギャグだったらしいのだが、私は今も意味がわからない。
「なんで辞めるの?」
私が訊ねると、八重樫さんが無意味な手振りを交えながら説明に入った。
「来年の春に内藤さんの旦那さんが大分の実家に帰ることになったらしくて、それで一家で引っ越すから、もうパートは続けらんないみたいよ」
「なんでも、旦那さんのご両親と同居するんだって」杉浦さんも口を挟む。
内藤さんはパートの先輩だ。年齢は私たちと同世代なのだが、キャリアが上のため、少し距離を置いた付き合いになっている。特に八重樫さんとは馬が合わない。いわく、エグザイル好きの内藤さんとは美意識が異なるという。
「へえ、そうなんだ。寂しくなるなあ」
私は当たり障りのない感想を口にした。あまりにタイムリーな話題すぎて動揺してしまう。きっと近いうちに、私も同じことを告げるのだろう。
「内藤さんもよく決断したよね。あたしだったら同居とか絶対ないなー」
八重樫さんが付け睫毛をパタパタさせながら言うと、杉浦さんも同調した。
「私も大分とかありえないわー。東京じゃないと暮らせないもん」
「あら、杉浦さんの旦那さんも四国じゃなかったっけ?」
「そうだけど、うちは実家の話になっても二秒で断るような人だから」
「旦那さん、けっこうドライなんだ」
「うん、そういう人で助かってる。だって、巻き添えくらうのは女じゃん」
「まあね。女って旦那次第で生活変わるから」
「だよねー。同居なんてマジ最悪ー!」
「内藤さん、超かわいそー!」
二人の会話を聞いているうちに、だんだん複雑な気持ちになってきた。
ああ、そうか――。女が夫の両親と同居するのは、一般的には最悪なことなのか。内藤さんは夫に巻き添えにされた、かわいそうな存在になるのか。
それはつまり、私も近いうちに同じような目を向けられるということだ。自分では微塵も思っていなかったことだけに、突然うしろから頭をはたかれたような衝撃を受けた。私自身がどれだけ前向きに大阪行きを受け入れようとも、周りは勝手にそういう憐れみを抱く。まるでサーカス一座に囲われた動物のように、一方向からの理屈だけで同情されてしまう。それが現実のようだ。
その後も二人の噂話は続いた。私は適当な相槌を打つことしかできない。
「内藤さんのご主人ってフリーランスじゃなかったっけ?」
「確かグラフィックデザイナーとかだったと思うよ」
「えー、それなのに大分に帰っちゃうの?」
「やっぱフリーだから生活が大変なんじゃない」
「あー、都落ちってことかー」
「旦那の都落ちで、両親と同居って最悪だよねー」
私は思わず唇を噛みしめた。逃げだしたい衝動に駆られる。
都落ち――。なんだ、その短絡的な言葉は。内藤さんには内藤さんにしかわからない事情があるかもしれないじゃないか。ただ東京を離れるというだけで、あたかも敗者のように決めつけるのはあまりに視野が狭い。二人とも東京に妙なプライドがあるのかもしれないが、それは二人が地方出身者だからだろう。
胸の奥から不快感が込み上げてきた。同居は最悪、かわいそう、都落ち。この三つの言葉が頭の中をぐるぐる駆け巡る。いったいなぜだろう。なぜこんなに嫌な気持ちになるのだろう。自分の気持ちがうまく整理できない。そういえば、嫌という字は女へんに兼ねると書く。なんだか、それも嫌だ。だから厭だ。
とにかく、この二人に対して負の感情を抱いたのは初めてだった。しかし、それでも必死で平静を装った。笑顔をつくろいながら、適当に調子を合わせる。ここは私にとって唯一の社会なのだ。狭い社会だからこそ、壊したくない。
午後四時、ようやくパートが終わった。今日はいつもより長く感じた。
帰り道、珍しくバス酔いした。帰宅するなりトイレに駆け込んでしまう。心の中を埋め尽くしているモヤモヤを、胃液と一緒に吐き出したかった。
秋穂が学校後の習い事から帰ってきた。こういう日は子供たちと楽しく過ごすのが一番なのだが、孝介は午後八時まで塾の予定だ。新一は今日も仕事という名の飲み会で遅くなるという。だから、いつもより秋穂とたくさんしゃべった。以前、USJに行ったときの写真を見返しながら、思い出話に花を咲かせる。
いつのまにか時計の針は午後九時を指していた。いつもなら、とっくに孝介が帰ってくる時間なのだが、今日はまだのようだ。まったく、どこで道草を食っているのか。これだから、一人で自転車通学するのには反対したのだ。
孝介に持たせている携帯電話を鳴らしてみた。しかし、一向に出ない。
あれ、おかしいな? ちょっと不安になって塾に電話した。
「えっ、お母さん知らないんですか? 孝介くん、お休みですよ――」
途中から、塾の先生の声が聞こえなくなった。受話器を床に落としていた。血の気がみるみる引いていく。指先が小刻みに震えていた。
(第05回 了)
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■