時評を始めてから、S-Fマガジンというと手が伸びるようになった。なぜだろう。それまでほとんど手に取ったことはなかった。それも、なぜだろう。
J コレクションというハヤカワの叢書シリーズ特集である。いわゆるお手盛りだが、不思議と嫌な感じはない。この雑誌でなくては、そうどこでも紹介されるものじゃないからか。物珍しい引き出しのコレクションを見せてもらった感じがする。
で、寡聞というか不勉強というか、ほとんど知らない作家、知らない作品ばかりだ。時評者となる前には手に取らなかったのだから、当然だ。なのに、どうして時評で取り上げたいと思うのだろう。
S-F作品のそれぞれは必ずしもそうでないと思うが、この叢書シリーズを眺めていると、ある方法論というか、理論に裏打ちされた安心感のある世界が現出している気がするのだ。もちろん、それが錯覚だということはわかっている。が、こういうシリーズを読んでひと夏を過ごすのもいいな、と思えてくるのだ。何か透明な理論で、世界が違って見えてくるかもしれない、という少年じみた期待感とともに。
どんなに浮世離れしたものであったとしても、S-F作品は欧米文化にとっては何かの現実のメタファーであるはずだが、日本においてはほぼ完全に輸入カルチャーだ。だからその浮世離れの部分だけが切り離され、ますます浮世離れした存在になるのだろう。日本でこの浮世離れに呼応するものは、純文学と呼ばれるものしかない。
日本ではS-Fは一時ひどく低迷し、1998年にはS-Fジャンルにおいて単行本が一冊も出ない状況に陥ったという。( そんな中で廃刊にも休刊にもならなかった S-Fマガジンはすごいが。) S-F作品は日本においては何のメタファーでもないかもしれないが、S-Fというジャンルの状況は、日本の文学状況のメタファーになっていると思う。ピュアで抵抗力のない少年は、カナリアのように一番に倒れるのだ。
この文学金魚カルチャーで学んだことなのだが、こういうS-Fジャンルの振舞いは、同じく輸入カルチャーである自由詩のジャンルと似ていると思う。詩で起こったことは十年後ぐらいに必ず文学全体の状況になるという。今、詩の状況が相変わらずドン底なのか、何かの胎動が起きているのか、詳しくは知らない。が、この叢書シリーズ特集の雰囲気からも窺える通り、S-Fジャンルの方は少し持ち直してきているらしい。先行してドン底に陥ったS-Fが、その透明な理論性を先見性に置き換えて、日本の文学全体をいっしょに引っ張り上げてはもらえないものか。
ただ、歴史も背景も持たない日本のS-Fが、それと対照的に固有の背景を持ち、だが同様に社会性を排した「日本の純文学」というジャンルによってのみ、逆説的な「社会性」を与えられる可能性があるというのは、決して喜ばしいことでも、健康なことでもないように思う。S-Fは純文学の方に取り込まれたり、それとの折衷でカスタマイズされたりすることは避けねばなるまい。それがなぜかも明確ではないが、叢書シリーズの顔つきを眺めているうち、その直感が確信に変わってきた。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■