「震えて眠れ、子どもたち」という、なかなか麗しい特集である。
最近、地獄をテーマにした絵本が売れていると、テレビのニュースでやっていた。それを読み聞かせると、よく言うことを聞くようになるそうだ。大人の都合なのかと思いきや、子どもたちにも人気があるという。マンガなどでも怪談物はよく出ている。
子どもはどうしてそんなに怖い話が好きなのか。もともと非力なくせに、非力さをこれでもかと思い知らされたいらしい。非力なまま魅入られたようにずるずると恐怖に接近してゆく。そういう話は聞く気にならない、と拒絶できるようになるのは、かなり大人になってからだ。
要するに人は、特に子どもは未知なるものに対して免疫がない、ということだろう。もし子どもが未知を未知のまま放置できる動物だったら、その精神が拡がることもない。子どもは恐怖にとらわれることでなく、それを乗り越え、怖がらない自分を夢想して怪談に近づく。で、たいていは失敗して「震えて眠る」はめになるのだ。
なんであれ、子どもからネガティブなものを遠ざけようとする風潮の中で、子ども時代の恐怖体験の持つ貴重な豊穣さが、特集では加門七海と軽部武宏、京極夏彦と黒史郎の対談などで語られる。今、あまりつかわれなくなった「情操教育」、あるいはあのフロベールの「感情教育」といったことは、多少極端でも豊かな感情の振幅を作りだしてやることによって初めて可能になるのではないか。
「恐怖」を一端として、感情の振れ幅のもう一方の端は「笑い」だろう。そして恐怖は何かの弾みで笑いとなる。精神の収縮と解放。そのリズムを呼吸のように獲得することが精神の自由に繋がり、成長となる。
ふと京極夏彦の連載を読んで、それがカフカの「家長の心配」とよく似ていることに気づいた。カフカの作品では、登場人物は実体のない、あるいはつかめないものに縛られ、怯え、最後はそれに殺されたりもするが、カフカが友人たちに自作を読み聞かせ、大笑いしていたのは有名な話だ。今、子どもたちへの怪談の読み聞かせの会の様子を、大人が笑って見ているのに近いだろうか。
怪談のコツは平板な語り口にある。聞き手の感情を大きく振れさせるのに、大げさな抑揚は逆効果であることが多い。本当に「ぞっとする」のは、聞き手が事実をそのまま目撃したかのように錯覚したときだろう。文体としては、そこで求められるのは、文学においてよきものとされる文体と等しい。かつて名だたる文学者らが子ども向けの「怖い話」に腕を競っていたという文学史についても、特集は触れている。
小説作法にかぎって言えば、怪談にリアリティを与え、同時に客観視した平静さを与えるのは、ディテールの描写だろう。それは日常と非日常を繋ぎ、事件と見るべき事態と、それを何事でもなくやり過ごそうとする心理とを拮抗させる。文学が持つべき本来的な緊張感が否応なく要請されるという意味で、文学者も子どもと同様、「怖い話」によって鍛えられるのかもしれない。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■