ミステリー専門誌ということで、毎号の特徴はやや見えづらいのではないか。
実際、雑誌はジャーナルとしてリアルタイムの状況を伝える役割がなければ、あまり存在意義はないだろう。もっとも最近はムック形式で、雑誌と単行本の中間的なものもよく見受けられる。リアルタイム性や読者とのコミュニケーションツールとしてはネットがあり、いわゆる雑誌のあり方としては過渡期にあるようだ。一方で技術革新の結果、印刷費も安くなっていて、ハード面では敷居が低くなっていることも確かだ。
J-novel 5月号では、北区内田康夫ミステリー文学賞の十周年記念トークショーが再録されている。この賞の名前は、なかなかいい。作家の内田康夫が北区出身であることからだが、京都とか横浜とかドラマを感じさせる地名でない「北区」というプレーンさがいい。
内田康夫と、その「浅見光彦シリーズ」のTVドラマで浅見役を務めた榎木孝明のトークショーでは、しばしば地名が出てきた。そのことは実はミステリーというジャンルにとって、またとりわけ内田康夫の小説作法にとって、存外に本質的ではないか。
ずいぶん前人気、数字 (視聴率) の取れるTVドラマ企画というジョークで「きんさん・ぎんさんグルメ温泉殺人事件」というのがあった。きんさん・ぎんさんは言うまでもなく当時人気のあった双子の100歳姉妹で、ミステリードラマがしばしば旅番組のようになるのも周知のことだ。
内田康夫は、あらかじめプロットを立てない作家らしい。それでは構造を失い、ぐだぐだの長い純文学みたいなものになるかと思うが、内田康夫の場合、特にそのデビュー作はほとんど「骨組みだけ」といった印象があった。江戸川乱歩賞に応募して一次審査で落ち、納得できずに自費出版して認められたのは、有名な話だ。
内田康夫は日本人には珍しく、論理構造が最初からスパッと見えてしまう、本来的な欧米型のミステリー作家なのだろう。江戸川乱歩賞のような、推理とは無関係な情緒やシチュエーションを重視する評価軸からすれば、「貧しい」作品ということになろうか。
作品を豊かにする方法としてオーソドックスなのは、具体的な場所の描写を細かくしてゆくことだ。それは何もかも出来あがってしまってからつけ加えるのでなく、その場所ならではのディテールがプロットに微妙に影響を与える可能性を残しておく。主となる縦軸はぐいぐいと物語を進めるのに忙しいので、従となる横軸による空間の拡がりの方が、むしろ一般読者や視聴者の目には留まりがちだ。
ミステリーに限らず小説とは、空間の拡がりを時間軸で戦略的に統御してゆくゲームだ。トークショーでも囲碁のことに触れているが、内田康夫が小説を書き始めたきっかけが囲碁仲間とのやりとりで、書ける書けないという言い合いからだったというのもよく知られた話で、象徴的だ。
囲碁同様、小説が統べるべき空間もまた、本来的に抽象的な「文学空間」だろう。少なくとも、すでに既成の物語の手垢がついた場所であるべきでない。その意味で「北区」という言葉の貧しさは清潔感につながっている。
池田浩
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