メフィストという雑誌を初めて手に取ることになった。本当にたくさんの文芸誌が出ているが、大出版社の講談社からも、このような雑誌が出ているとは知らなかったのは、単に不勉強だからだろうか。
手に取って、まず目がちかちかした。表紙の紙が万華鏡のような奥行きのあるヒカリモノで、見ていると幻惑される。そうか、小説とはそのようなものにすぎない、という謎かけか。読んでいる間だけでも、ちかちか幻惑されればよい、それもそう簡単ではない以上、そうなることを目指すのがいわゆる大衆小説の道なのだ、ということか。
講談社には、講談社ノベルスという単行本シリーズというか、ブランドというか、講談社的に言えば部署があって、メフィストはその雑誌ということらしい。今号の特集は「講談社ノベルス30周年記念企画 My Precious 講談社ノベルス」ということで、ちかちかの表紙や、おどろおどろしいロゴに似合わぬフツーな特集である。たくさんの作家の皆様がごく従順に、「私の好きな講談社ノベルス」を挙げている。
文芸誌レビューを担当するようになって、本屋のコーナーで文芸誌を物色していてよく思うのだが、人間のすることってのは誰でも似たようなものだ。作家や芸能人がデビューするとき、自分の個性とかウリとか、立ち位置とか考えるように、雑誌も新創刊されるときにはその個性とかウリとか、他の雑誌に立ち混ざっての位置とか考えるわけで、その点は編集者も同じなのはわかる。
それでチョー可愛く装ったり、このメフィストとかみたく、おどろおどろしい迫力とか幻惑される感じとかを表紙に込めたりと、いろいろ趣向を凝らすわけで、それはもちろん読者層の開拓とか、隙間を狙った新しい雑誌カルチャーの設立とかって、きっと社内の企画書には書かれてるんだろうな。
まあ、読者も編集者と同じ人間だから、何かカルチャーを打ち立てれば、なんとなくその水が合うって読者が集まってくる、ってのはわかる。だから編集者たちは臆せず、自分らの好みや人間性を打ち出せば、おのずからそれなりにナニかできますよ、って。だけどそれって、メルマガとかのレベルの話じゃん?
もちろん紙の雑誌だからって、メルマガなんかとは一線を画す戦略を立てなくちゃ格好がつかないって思い込みは、これまた批判の対象になりそう。だけど問題は、文芸誌ってのは、編集者と読者だけでできあがってる雑誌とは違うってこと。
文芸誌である以上、読者はそこに掲載されている小説を読むわけで、結局は雑誌ではなく、各々の小説の読者なんだから。つまり文芸誌は所詮、作家とその読者で成り立っているんだって、考えてみれば、考えなくたって当たり前のこと。
で、どんだけ百花繚乱の雑誌カルチャーをぶち上げても、作家の書く小説のバリエーションがそれについてくるかってこと。結局は各文芸誌で、売れる作家を使い回している以上、作家たちの持っている世界と、雑誌が作ろうとしているニッチなカルチャーとの間に齟齬ができるのは目に見えてるしって。
と、特集が特集なだけに、抽象論に終始してしまった。この号については巻末の座談会について触れようと思ったが、ナニがなにやらわからん、というクレームにしかならないので、それはまた今度。この雑誌を取り上げる機会があったらね。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■