イアン・マクドナルド特集である。イアン・マクドナルドは北アイルランド出身で、今もテレビ関係の仕事をしているらしい。
インタビューでは、アメリカ人がアメリカ的な SF を書くのは簡単だが、北アイルランド的な SF を書くのは難しいと語る。歴史を持っているぶん、それに縛られるということか。しかし同時に、分断されている土地に住むことで、SF 的であろうとなかろうと小説が生まれるとも。歴史もしがらみもない、純粋な運動体としての闘争。理想的にはSF とはそういうものなのだろう。
S-Fマガジンには「状況」がない。震災による日本人の変化とか絆とか、そういったゴタクを断ち切っている。未練がましい純文学各誌は、爪の垢を煎じて飲むように。まあ、遠い未来を見据えているんだから、当然か。そしてこの変わらなさが、S-Fマガジンを50年以上も刊行させてきたものだろう。
その誌面で「今」を感じさせるものは、ロードショー映画の紹介ぐらいだ。もちろん SF 映画なので、撮影技術の進歩を除けば、まあ、いつ公開されてもいいようなものだが。
学生時代、何度かは手にとったことのある S-Fマガジンを本当に久しぶりに見たわけだが、先に述べた状況からの断絶のせいか、古びた感じはしない。相変わらずだな、とは思うが。相変わらずカタカナが多い。変わらないことでどんどん古びていっている他の文芸誌と比べて、特権的な立場にある。そして新たに気づいたのは、カタカナだけでなく、漢字も多いということだ。
漢字とカタカナで組み立てられている論理は、骨太で透明でわかりやすい。今号は第7回日本 SF 評論賞の座談会が掲載されているが、存外に読める。純文学雑誌の作品評など、まるで禅問答だが。評者が自身をアピールすることより、作品を正確に読み解こうとする意欲、さらにその能力も、こっちの方が上ではないか。
座談会ではブラッドベリの代表作「華氏451度」について、これまでと「180度違う」読解が示されており、興味深い。興味深いのはその内容だけでなく、発想の転換のラディカルさである。
いわゆる文壇では、評価の定まった作品を別解釈するとしても、従来と少しずらすとか、内容は同じでタームやバックグラウンドの思想を新しくしただけというのが多い。作品の作者に、というよりも、従来の読解者である批評家に遠慮でもしているのか、とすら感じるときがある。
ブラッドベリはすでに古典であり、また「S-Fマガジンとは」の総括コラムによれば日本文学の土壌になじむ叙情性に満ちているということだが、だからといって何らとらわれる必要はない。読解の可能性を広げるのに、誰の顔色も窺う必要はないのだ。
SF 周辺の人々は、その発言を見ていると、いわゆる文壇人よりもずっと頭がいいんじゃないかと思う。小説の技術や定義についても、説明が明確だ。理系の研究者なども多いから、擬似アカデミックな雰囲気をかもしているところはあるが。
人間の知性を形づくるのは、ある程度以上になると、生来の知能でも訓練でもなく、その人の性格だと聞いたことがある。自由な雰囲気、闊達な性格はそれ自体、人の知性を進化させる。大人にはしがらみのない頭のオアシスとして、子供には自由を尊ばせる教育として、「古典」を読ませるなら SF にしておいたらどうか。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■