辻村深月の「ツナグ」という小説が売れて、その続編がスタートしている。このツナグというのは、生者と死者を繋ぐ使者のことだそうだ。このテーマは何度も書かれ、映画化されても当たっている。手を替え品を替えしなくても、ほとんどそのまんまで売れる。なんということだろう。
誰もが一人ぐらい、もう一度だけでも会いたい死者がいるものだし、それは絶対フィクションでしか実現できないことだから、本質的なテーマだとも言える。さらに言えば文学とか芸術とかは常に、すべて「彼岸」を目指すものだから、いっそう本質的だとも。
しかしそのわりには、このテーマの作品がたいてい軽いノリに仕上がるのはどうしてか、考えた方がいいかもしれない。多少重めでも、エンタテインメントの部類からはみ出るということはない。その場合は「涙を誘う」という文脈で、あり得ないことではない、と信じているポーズが重さを生み出すことになる。ポーズと言っても、それがインチキというわけでもなくて、切実に信じたいというだけの状況が作れれば、嫌味のない重さになっていい。たいていは死んだ恋人とかになるが。
「あり得ないことが起こっちゃったよ」というのを全面に出せば、超軽くはなる。大昔の流行歌(!)に「オラは死んじまっただ~」というのがあって、タイトルは『帰ってきたヨッパライ』。天国はよいとこで、酒は美味いし、ねえちゃんはきれいだそうだが、これもまた死と再生のテーマではある。帰ってきたのがニューヨークの恋人でなく、ヨッパライなだけで。
吉本隆明の言葉に、「生死の境を見ない文学は、おそらくは無駄だ」というのがある。戦後文学の人であるから背景はあるけれど、もし字義通りとれば、そんならこういうテーマの作品に無駄なものはない、ということになる。「オラは死んじまっただ~」も含めて。
いや、「オラは死んじまっただ~」は確かに傑作だと思うが、「生死の境を見る」とは、死を不可知なものとして、生の側からぎりぎりまで迫り、その境を見つめる、というものだろう。少なくとも戦後の実存主義ってのは、そういうものだった。だから死者と邂逅する物語とは、「生死の境を見る」ことなく、そこを飛び越えている、と言うのが正しいのだ。
死が不可知なら「生死の境を見る」という命題の「死」の部分もまた、無定義なものにならざるを得ない。結局はそれは「生のぎりぎりの姿を見つめる」ということに他ならず、生を追い詰めていく一つの典型的な場所として、概念としての「死」が援用されるケースが多い、ということである。そのような「死」は、= 「死者」ではない。生者が恋い焦がれる死者とは、生者を救い慰め、追い詰められた生から、むしろ目を背けさせてくれる存在だ。
生が追い詰められていく先は、どこであっても論理的には可能だろう。ただ、尋常な生を抜けたところのはずではある。蘇ってきた死者に慰められることは私たちすべての夢ではあるが、生の延長にある夢であることに間違いはない。
池田浩