女性作家を順繰りに特集しているようだ。今回は野中柊。それで前に特集されたらしい、原田マハと対談している。そのタイトルが「猫と暮らす、犬と暮らす」で、内容もまたタイトルに違わず、そのまま。
いわゆる文芸誌の対談らしきものを期待していると、びっくりの肩すかしなのだが、(おそらくは)図らずもその文芸誌の対談なるものについて考えさせるものになってしまっている。
なにしろ思わず、ページ抜けの落丁かと、めくり返してしまうほどの短さだ。このこと一つにも「対談」なるものが制度として、文芸誌に与えられている佇まいに、いかに慣らされているかを思い知らされるのだ。
どーんと分厚い文芸誌の巻頭か真ん中へんに、目次にはでっかい活字で、当該文芸誌カルチャーの重鎮もしくは重鎮候補と思しき書き手が二人、対面して、当該文芸誌カルチャーにとっての重要なテーマと思しきことを語り合っている。その重要さのあまり対話は尽きることなく、という状況を映して対談ページはそれなりの枚数になるのが普通ではないか。簡単に終わってしまう話なら、わざわざ対談をセッティングし、テープを起こす必要などない。
と、そのように考えるのが、文芸誌カルチャーにすでにどっぷり浸かり込んでいる証しではないか。実際の日常生活では、顔を合わせて話をするのはたいていオフモードであり、仕事の話をあえてするというのは、それなりの事情のある、少なくともその端緒はかなり緊張をともなう状況である。
原田マハの田舎住まいを訪ねて、その暮らしぶりに関心を示し、生活にとって重要な要素である犬や猫のことについて語り合う、というのは、どう見てもフツーの訪問で、フツーのおしゃべりである。(よく考えれば)特に必要のない、緊張はしないという申し合わせがあったとしたら、それはそれで試みではあると思う。
話をされている御本人たちにとって、犬や猫がそれほど重大事なら、このテーマでもっと熱く、延々と話し合われてもよかったろう。いや、そうだったのだが、あまりのことに編集部でカットしたのか、とすらおもわれるような “ 放送事故 ” っぽさすら漂う。しかし、これができるのは、女性たちならではだろう。
男たちなら、犬猫、あるいはプラモデルでもゴルフでも、盛り上がりながらも文学論に収斂させてゆく。求められていることがわかっているし、そうすることの引き換えとして、自分たちが熱く語った情熱の対象を “ 文学的なるもの ” でもあるものとして認めさせるよう、はたらくことだろう。
この対談「猫と暮らす、犬と暮らす」の最後にとって付けられたような、感性をビビッドに保ちましょうね的な会話は、そういう男たちの生産性、その自分たちが築き上げてきた制度に、自分たちで物分りよく乗っかってみせることを “ 知性 ” と信じて疑わないことのマヌケさを当てこすっているようにも読めるのだ。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■