小原眞紀子さんの連載評論 『文学とセクシュアリティ第008回』 をアップしましたぁ。『賢木』 から 『花散里』 の巻を取り上げておられます。『源氏物語』前半の最大の山場は 『須磨・明石』 の巻だそうですが、『賢木』 と 『花散里』 はそれに向けての地ならし的な巻であるようです。
小原さんがちょっと書いておられますが、『源氏物語』 は天皇を中心とした宮中のお話しなんですよね。小説だからいたしかたないところがありますが、忘れがちになってしまひます。光源氏は天皇の庶子なわけで、だからこそ元々の美貌がさらに光り輝くわけです。日本で最も古い物語文学が天皇家の宮中を舞台にしているといふことは、考えてみると非常に象徴的で重要なことでもありますね。
平安時代、天皇は今よりもずっと現実的な力を持つ日本の中枢でありました。しかし同時代の文学である 『源氏物語』 においてすら、天皇は空白的中心として描かれています。もちろん天皇の人間的な言動は描かれていますが、物語の主人公は天皇の庶子で、身軽に飛び回れるお方であるわけです。
この空白的中心に同心円を描くように 『源氏物語』 は進んでいきます。物語だけではありません。言葉もそうです。発話の対象が『誰か』を明示しないまま、『おわす』などの語尾でそれを示す日本語の骨格は、この頃にはすでに成立していたわけです。
古代から続く天皇制は、近・現代の民主国家では、時に非常に込み入った問題になってしまうことがありますが、必ずしも政治的制度ではなく、文化的な構造の枠組みとしても考えてみる必要があるのではないかと思いますです。
■ 小原眞紀子 連載評論 『文学とセクシュアリティ第008回』 ■