金魚さん(齋藤都代表)の文芸誌時評 『文蔵とは』 をアップしましたぁ。金魚さん、まぢで日本で刊行されている全文芸誌を網羅するつもりのやうですね。編集者の僕がいうのもなんですが、ちょっと驚きであります。ここまで本気で日本の文学界を相対化して捉えようと考えているとは思わなかったな(笑)。
それにしても、金魚さんの「電車の中で、文學界とか群像とかを読んでいる人がいたら、どうだろう。まずなにか、やむを得ない事情があるのではないか、もしかして少し頭のおかしい人ではないか、場合によっては自分が席を移動した方がよくはないか、と考える」という記述には笑ってしまひました。僕も「やむを得ない事情」で電車なんかで文芸誌や詩誌を読むことがありますが、あの気恥ずかしさはなんなんでしょうね。スポーツ新聞や週刊誌を読む方が絶対に気楽だと思います。
「文学」と「文芸誌」は質的に違うんだと思います。文学は短歌、俳句、自由詩、小説、評論であろうとフラットに文学ですが、「文芸誌」は暗黙の前提として、読者がその独自のカルチャーに参加することを求めているからだと思います。それが文学とは人間の自由な精神の生産物であるという原則と、抵触するわけです。詩壇や文壇に対して抱く抵抗感も同質です。それらは人間の自由な精神を束縛するような気がするわけです。
もちろん僕は詩誌、文芸誌や詩壇、文壇の重要性を充分認識しています。しかし一方で、それらを既成の枠組みとして捉えるのではなく、相対化して考える姿勢は必要でしょうね。文学者がある特定のカルチャーに取り込まれてしまうのは、とても危険だと思うわけです。