水野翼さんの『小説新潮 2012年4月号』の時評をアップしましたぁ。特集はなんと尾崎豊さんであります。ご遺族の了解を得て尾崎豊さんの創作NOTEが公開されることになり、それを新潮社が出版するので、そのためのいわゆる番宣としての特集であります。ほかにど~いえばいいのよっていう感じであります。
尾崎豊さんについては、もちろん代表曲は知っていますが、大ファンというわけではないので詳しくありません。でも歌声に説得力がありますよねぇ。楽曲の場合、よく言われることですが、メロディと歌詞を区別して論じるのはとても難しい。「この楽曲の歌詞、いいよね~」と言われても、知っている楽曲だとメロディと一体化してしまっている。楽曲を知らない外国語の歌詞を読む方が、冷静に判断できるってところがあります。
尾崎さんの場合も歌詞とメロディが一体化してしまっているわけですが、ラジオやテレビで歌声が流れてきても、聞き入ってしまうところがあります。彼は10代の反抗をテーマにデビューしたのですが、そこからどう大人になってくか、苦悩を深めていたようです。ただそのさまざまな苦悩が、尾崎さんの場合、微妙な歌声の揺らぎとして僕らに伝わっていたように感じます。彼は若くして亡くなってしまい、迷いが迷いのまま止まってしまった。悩みを抱えた10代から20代の若者が、いまだに彼に惹かれ続けているのはよく理解できることであります。
たださ、水野さんがお書きになっているように、尾崎豊さんって、大衆小説誌の『小説新潮』じゃなくて、純文学誌の『新潮』にこそふさわしい表現者だと感じますぅ。天国の尾崎さんとお話しできたら、「なんで新潮で特集してくれないんだよ。俺の歌詞、純文学だと思うよ」って言いそうな気がします。この特集について不満があるとすれば、そこだけだなぁ。尾崎さんの楽曲をメロディと歌詞に完全分離することは難しいでしょうが、彼の「純」な部分を、この際、腰をすえて見つめてもよかったと思います。『小説新潮』の特集ぢゃありきたりすぎる。『新潮』での特集だったら、僕は「新潮社の勇気と見識はすごいなぁ」と感じたと思います。純文学作家たちに一定の衝撃を与えるだろうし、新潮社が新しい文学ジャーナルを作ろうとしてるんぢゃないかって深読みしますね。
そんで桜が散り始めて、連日の酒盛りがそろそろ終わりになりそうで悲しいですぅ。ですから今回は石川撮影の桜をアップしました。このブログ、写真掲載がすんごく少ないのよねぇ。なんで写真が少ないかっていふと、僕が写真、あんまり撮らないからなんですが、金魚さん(齋藤都代表)のせいでもあるんです。ブログを始めるとき「文学金魚の編集後記という位置づけですが、あなた個人のお話も書いてかまいません。ただし食事と洋服の話は禁止。それやっていいのは芸能人だけです」と言われたのですね。
思わず「げっ!」と叫びました。別に料理と服の話を書くつもりはなかったんですが、写真はそれをネタにするのが一番楽ですものねぇ。だって食事は1日3回だし、服も毎日違うでしょ。ま、僕の場合は毎回日本酒の画像になりそうですが。あと写真撮りやすいのはペットかな。かわいいけど。で、金魚さんに封じ手をかせられた僕は悩んでいるのであります。ペットは飼っていないから、メシと服以外になんの写真を載せられるのか。結論は基本、文字だけでいいやってことに落ちつきました(笑)。