創刊20年、第40号が出たということで、大変おめでとうございます。このご時世に、快挙であると考えます。水木しげるをはじめ、京極夏彦らの祝辞が続いている。
それらを読むにつけ、雑誌にも歳を経るのがふさわしいものとそうでないものがある、と考えた。雑誌が時代を切り取るものだとしたら、いつまでも出し続けるべきものでもないかもしれない。雑誌編集部が出版社の一部署であるかぎりは、その進退は発行部数その他の経済要因で決まるのだろうが、撤退ばかりが悲劇なわけではない。雑誌として、その名が当初のアイデンティティを保てなくなってもなお、何らかの事情で出され続けるのも、それ以上に悲劇的だ。
「怪」はもちろん、歳を経るのにふさわしい雑誌だ。ということは、この号を迎えて感じることだろう。創刊当初はおそらく、三号雑誌になりかねないキワモノに映ったのではないか。
雑誌というものは、人の佇まいに似ている、と思う。「every dog has his days」とはよく言ったもので、時代の寵児というのは人にも雑誌にもあり、誰もが、また何でもそれなりの「よかった時代」を持っている。その時期を過ぎると同時に消えてなくなることができるなら、幸せなのかもしれない。そうもいかない人も雑誌も、過去を知っている人々をかぎりなくがっかりさせる。
一方で成熟が遅く、その時代がなかなか訪れない、ということもある。大器晩成とよく聞くが、しかし本当にそれに該当する場合というのは、めったにないものだ。栴檀は双葉より芳し、たいていの才気は若い頃から明らかであったり、見る目のある者には認められたりするものだ。よほど遅くなってから現れてくるものとはやはり、よほどの器と見るべきだろう。
さて、人ならば大器と化ける可能性をゼロではなく秘めているものとして、少なくとも生存は許される。雑誌では、すでにその時代を過ぎてしまったという場合はともかく、可能性を感じたからこそ創刊したが、採算ベースに合わないで廃刊ということがある。しかしそれは結局、秘めたる可能性と発行形態とのバランスの問題ではなかろうか。
谷川雁は、怪 vol.30 刊行のときに「下品な『太陽』、安い『銀花』」と評したという。しかし、上品だからインチキがないとは言えまい。高い雑誌だからといって、それを糊塗できるとはかぎらない。伝えようとする核を維持し続けているからこそ 20年続いたと言うのは容易いが、上品ぶらず、安く留まり続けることが結局は、その核を守るための最大の方途ではないか。
イロモノ、キワモノとしてお披露目された人や物が、それゆえに無駄な形式主義を廃し、意外な知性や真摯さを武器に、ふと気がつくと大御所めいたものになっている、というのは痛快な光景だ。「怪」もこれから太陽も銀花も仰ぎ見ず、そのように変貌するかもしれない。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■