『PHYCO-PASS サイコパス』というアニメの特集である。『踊る大捜査線』の本広克行氏が監督を務めているということで、組織に集う群像劇となっている点が共通する。全体が組織のロジックやヒエラルキーに支配されているということでは、警察ものが構造的に SF 的なのだ、と知らされることは、意外だった。
それは考えれば考えるほど奇妙だ。警察組織が、いやあらゆる強固な組織が、本来的に馬鹿馬鹿しく硬直した一面を持つと言っても、それらは元をただせば現実的な必要性から生じたはずだ。少なくとも現実の犯人を逮捕するための活動が、ファンタジーと同類であっては困る。組織のロジックが優先され、現実離れする弊害があるとしても、それはあくまでも弊害であり、どこの組織にもあり得る。
『踊る大捜査線』は、その現実的な組織としての警察を描いて人気を博した。人の集まりであるからには、多くの日常的な馬鹿馬鹿しいことがたくさん起きて、しかしそれは組織のロジックの抽象的な馬鹿馬鹿しさに抗うものだった。
その拮抗を描くには、やはりアニメでは難しいように感じる。三次元の我々にとって、二次元のアニメは非日常だ。非日常だからこそ、実写ドラマよりいっそう様々な細部を捨象し、くっきりしたメッセージを届けることができる。そしてそれはしばしば、くっきりしすぎる。
サイコパスとは、一般の普通名詞としては異常な性格の持ち主を言う。それは通常の変わり者ではないし、単純な自己チューというレベルでもない。そのロジック自体が我々、常人には想像がつかないような特異なものだ。そしてこの『PHYCO-PASS サイコパス』というタイトルは、この特異な犯罪者気質とは一見、無縁である。むしろ、そういった犯罪者気質を前もって数値化し、篩にかけ、隔離するためのシステムを呼ぶ、という設定らしい。それは社会全体のシステムだが、中心として描かれる組織は、ここでも警察である。
現在でも警察は、犯罪者を研究し、理解し、その心情に接近する。ヤクザを取り締まる警察がヤクザに似てくるのと同様に、警察の組織が犯罪者の心理やロジックに逆説的に近づくということはないか。『PHYCO-PASS サイコパス』というタイトルが示すのは、そんな皮肉であるのかもしれない。
タイトルが皮肉、というのはいかにも SF 的で、それというのも SF というのは文明批判だと言われている。批判するからには、文明というものの発展を信じているわけで、設定されたように世の中が進む、あるいはすでにそのような萌芽が現在、見えている、ということでなくてはならない。でなければ、批判するのに都合のいい設定を自らしただけで、マッチポンプということになる。
犯罪者気質が数値化され、前もって判断され、隔離される社会というのが、今の我々のどんな状態に警鐘を鳴らしているのか、いったい何のメタファーなのかは、よくわからない。ただ、その構造の類似によって、様々にスピンアウトが可能な発展性がある、という意味では、『踊る大捜査線』を前提にした現実のメタファーなのだ、と言えないこともないだろう。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■