「野心より、義理」という大泉洋の特集で、そのタイトルになんとなく笑ってしまう。それはもちろん、大泉洋の物言いとか表情と重なっているからで、特集自体はよく言えばそれを裏切らない、悪く言えばそのまんまで、すなわち雑誌の特集としてこのタイトルが掲げられたところで、良くも悪くも決着はついたと思える。
良くも悪くもと言いつつ、こういう決着の付け方は、印象としてはかなりいい感じで、しかしこれは文芸誌の特集なんだろうかと思い、けれども文芸誌以外のどんな雑誌が、こういう雰囲気をかもせるだろうか。
どんな雑誌も、そのジャンルのカルチャーを引きずっている。その雑誌固有のカルチャーが形成されるのは当然だし、喜ばしいことだが、文学業界、映画業界、音楽業界といった業界色に染まるのは、そういう雑誌が一冊増えるという意味しかなくなる。
文芸誌はたいてい、と言うか文芸誌こそ文学業界のコードに縛られ、ヒエラルキーを形作っている存在だが、「読むことと書くこと」という原点に立ち戻れる可能性のあるものは、文芸誌しかない。「Papyrus」= 「紙」という即物的な名のこの雑誌で、グラビアもインタビューも芸能雑誌の匂いを立てず、また必ずしも文学的・教養主義的な解釈をなすりつけようともしていないように思える。どこか晒されたような紙の上に印刷された、というに留まる清潔感があり、今回でいえば大泉洋というなかなか定義しがたい魅力のある人物とよく合っている。
こういう視点で読むと、いわゆる文芸誌として掲載されているに違いない小説作品も、ちょっと逆転したように読める。たとえば一群の「RUNNING STORY」は文字通り「RUNNING」しているので、通常の文芸誌の「連載小説」とは違い、始めも終わりもないのではないか(もちろん、あるに決まっているが)と錯覚させる。
それが狙いなのだろうが、つくづく妙な雑誌だと思わせるところがあって、いいんだと思う。文芸誌とか文学的制度を壊そうと意図しているとか、意気込んでいるというわけでは、必ずしもない。ただ透明な、産まれたての昆虫のような、新しい制度ができかかっている感じもあって、面白い。
巻末近くの最後に置かれた「RUNNING STORY」の一つ、木下半太の「人形家族」を眺めていると、推理ものというのは制度なんだと、それへの批判意識をわざと欠落させ、制度性を露わにし、それが無垢のままに誕生するあり様を人目にさらす、というのもありだな、と思える。
批判しているつもりで、批判の手つき口つきが批判対象に接近してしまう、というのはよくあることだ。というより、自称批評家のジャーナリズム小僧は批判している対象に取り込まれたくてうずうずしているとしか見えない。とすれば、そんな中途半端な業界内お約束の文芸批評が届かないということは、雑誌そして作品の側からの、文芸批評に対する批判になってやしないか。すきやき肉と犯罪について書かれたRUNNING STORY を読みながら、そう思った。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■