文芸誌時評をいろいろと書いてきて、今更だけれど、これは「文芸時評」じゃないんだし、ってことに気がついた。その違いがやっとわかった、という感じ。
一言でいうと、文芸誌時評ってのは、雑誌を一冊の本として見たときの書評になり得ると。もちろんフツーの文芸時評のように、その号に掲載されたものから任意の一作品を取り上げる、という場合も多いんだけど。ただ、その作品がそこの、その号に載っかっていることに、何かの理由というか、必然性というか、もっと漠然とした「縁」みたいなものがあってしかるべきという「思想」のもとにあるのがすなわち文芸誌時評では、と。
そうでも思わないと、この多種多様な雑誌に載っかっている作品の集積が、単なる集積に見えてきてしまう。これは偶然ここに載ってるので、別にあっちにあってもよかった、と、そういうことだって数限りなくあることは承知している。純文学系では、理解し難いとはいえ、それぞれにカラーなり基準なりあるし、それゆえにこそ一般の興味を惹く作品が見当たらないわけだが、「とにかく面白いのを集めました」と呼ばわっているエンタメ系ではやはり、どれがどこに載っていてもよいのか。
とすれば雑誌の目次は、編集者たちが交換した名刺を見せられているのと変わらない。レビューアーができることはフツーの「文芸時評」で、つまり「文壇」という一大集積地を前提として、今回「たまたま」○○誌△号に出ていた誰それの作品は、前回は「たまたま」××誌の□号に出ていた作品よりも何たらである、というようなことを述べるしかない。
それは一見、各文芸誌という制度を相対化しているようだけど、実際にはそれらを「文壇」という制度に回収しているだけだ。しかし文壇とやらも文芸とやらも、いや文学と呼ばれるものすら知らぬとすれば、すべては一冊の書物から始まるのではないか。私たちは皆、一冊の書物と出会い、そこから始まって現在に至っている。だとすれば「文芸誌」という、たまたまであっても毎月であっても、とにかく「書物」の形態をとろうとしている代物に対して、その「書物性」をどこかで信じようとする姿勢、それが「文芸誌時評」なのだ。
あるいは各文芸誌は、書物であろうとすることなどとっくに放棄しているか、もしくはその努力は尽きかけているのかもしれない。yomyom 秋号の目次にずらりと、恐らくは意図的に平板に並べられている「最終回」と「新連載」を眺めると、ページも束も、紙に印刷されていることすらも便宜的なもののようにも思える。本という形態をとっているのは単なる惰性なのだ、とでもいうように。
それでも雑誌には雑誌の作り方がある。たとえ習い性のゆえであっても、雑誌という書物を作るための形式的なお約束によって雑誌であることが保証されるなら、そこに書物であることのアイデンティティをあえて読むこともできる。
たとえば「yomyom スケッチ」と題された error403 による 1 ページの漫画、今回は「家事についての小さな発見」。退屈でなかなか動く気にならない家事も、「ホームステイ先でもうすぐお別れのホストファミリーへの恩返しだ」と想像するとやる気になる、という。今号の掲載作品はもしかして、こういった類いの想像力の産物を集めたのかと想像すると「書物」になる。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■