Interview:市原悦子 (1/2)
市原悦子: 女優・声優。高校時代に演劇部に所属し、卒業後、俳優座養成所に入所。昭和32年(1957年)に俳優座に入団し、『りこうなお嫁さん』で舞台デビュー。同年、新劇新人推賞受賞。舞台を中心にラジオ、テレビ、映画で女優・声優として活躍し、芸術祭奨励賞、新劇演劇賞、ゴールデン・アロー賞新人賞、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞するなどその演技が高く評価されている。代表作に映画『喜劇 女売り出します』、『黒い雨』、テレビドラマ『家政婦は見た!』、『帰郷』などがある。常田富士男と2人で全ての登場人物の声を演じたテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』の声優としても知られる。
市原悦子氏は俳優座で舞台女優としてデビューして以来、映画・テレビの第一線で活躍されている昭和・平成を代表する大女優である。身近なところでは大ヒットテレビドラマ『家政婦は見た!』はもちろん、アニメ『まんが日本昔ばなし』の声優の仕事も多くの人々の心に残っている。今回は市原氏と舞台・映画関係者との対談をまとめた『やまんば 女優市原悦43人と語る』(春秋社)の刊行を機に、最新舞台『市原悦子 うた語り2013 たそがれの舞踏会』の稽古場におじゃまして、演劇についてのお考えや女優業についてのお話をおうかがいした。なおインタビュアーは文学金魚編集委員の小原眞紀子、映画批評の木原圭翔、玉田健太、演劇批評の星隆弘が担当した。
文学金魚編集部
■表現の原点について■
小原 市原さんはテレビ、映画はもちろん、声優としても幅広くご活躍です。今日は十一月二十五日から公演が始まる『うた語り2013たそがれの舞踏会』の稽古場におじゃましているわけですが、この舞台についてはのちほどお聞きするとして、最近のお仕事やプライベートで、今一番ご興味のある事柄はどういったことでしょうか。
市原 わたしはその場その場なんですよ。あまり計画も夢もないし、その場その場で時が過ぎていって・・・。でもあまり消極的なのはよくありませんね(笑)。そうね、世の中、理不尽なことが多すぎますね。酔っぱらい運転で人がはねられて亡くなったり、老人が詐欺の被害にあうとかね。どこに責任を取ってもらったらいいのか、どこに怒りをぶつけたらいいのかわからない事が多すぎます。新聞を読んだりテレビを見たりしていると、そういった事件が一番気になります。わたしは幸いなことに、そういう事件に巻き込まれずにすんでいますけど。
またそういう方たちのために、なんの力にもなってあげられない自分が気になるんです。でもそういうことを考えていると、それがお仕事の中で少しは出ますね。一つのドラマをやるにしても、一つの歌を歌うにしてもね。今回の『たそがれの舞踏会』の中で、ザ・フォーク・クルセーダーズの『悲しくてやりきれない』という歌を歌うんです。あれは安保学生運動の最中に作られた歌ですが、『悲しくてやりきれない』っていう気持ちはとても共感できるんです。舞台では「数十余年経っても悲しくてやりきれない気持ちは今も続いています」というコメントを挟んで歌うんですが、その歌を歌う時は、歌はへたなんだけど、理不尽な出来事への怒りとか悲しみとかが歌に溢れます。お客様に通じているかどうかはわからないけれども、そういう気持ちがあるから、自分の中で歌いたい歌になっています。
小原 市原さんが演じられるお姿を見ていると、そういったお気持ちを持っておられることが、ちゃんと伝わっているような気がします。あくまで役の姿をとおしてですが・・・。
市原 そういった気持ちをどうしたらいいか、筋道立てて話してくれと言われても、それはできません。人さまを説得できる話は出来ませんもの、すべては役者の仕事をつうじてということになります。
ですから井上ひさし、梅原猛、大江健三郎さんたちが設立された、日本国憲法を守るための『九条の会』や、護憲派の『全国革新懇』などからなにかしゃべってほしいというお誘いを受けたりするんですが、とうていしゃべれません。朗読ならできますと言って、皆さんがしっかりとした講演をなさる間に、野坂昭如さんの『戦争童話集』などを朗読したりしています。
小原 テレビドラマに出演されている市原さんだけを見ている人にはわかりにくいかもしれませんが、朗読などを含めて、市原さんにとって音楽的なものがとても重要だという感じがするんですが。
『うた語り2013たそがれの舞踏会』稽古中の市原氏。
市原 音楽だけじゃなくて、ダンスも好きですよ。今はもたもたしてるけど、若い頃はそうとう動けました。舞台育ちで青春をそこに捧げたから、やっぱり舞台での歌や踊りというものが自分の故郷として揺るぎなくあります。俳優は台詞が表現の中心ですが、それだけでなく、ダンスを含めた動き、叫びや歌、そういったすべての人間の動きを使って、自分の考えるイメージをどうやってお客さまに伝えようかとやってきました。
というのは俳優座に入った時から、運命的と言うとオーバーだけど、役をもらうと、それが必ず歌を歌う役だったんですね。それもかなりの数を歌って踊らなければならなかったんです。なんの素養もなかったのに、それをこなさなければならなかった。でも体操の先生に、オリンピック選手にしてやるって言われたくらい身体が動いたんですよ(笑)。見よう見まねで勝手な動き、勝手なダンス、勝手な歌唱でいろんな表現を試みて今にいたりました。
■言葉について■
小原 わたしは詩や小説など、言葉の表現に関わるものなんですが、最近出版された『やまんば 女優市原悦子 43人と語る』を読ませていただいて、市原さんが言葉に対して非常に鋭敏な感覚をお持ちだと思いました。ドラマなんかを見ていても、台詞が過剰で説明的になると、とたんにつまらなくなってしまうでしょう(笑)。でも市原さんの演技とか朗読には、そういった説明的要素があまりありません。それはやっぱり、今おっしゃられた舞台での肉体感覚によって育まれたものなんでしょうか。
市原 台本をもらうと、わたしはカットしてくれと言うことが多いんです。ドキュメンタリーのナレーションでも、しっかり素晴らしい映像を撮っているのに、それをまた言葉で説明していることがしばしばあります。私、仏像の展示会で解説のためのナレーションの仕事をしている時に、その台本がていねいすぎて説明的なんです(笑)。お客様は素晴らしい仏像を目の前にしているんだから、言葉は最小限にして欲しいとお願いしました。
小原 対談集『やまんば』の中で、『たそがれの舞踏会』で共演されるミッキー吉野さんが、しきりに市原さんは変わらないんだ、ぶれないんだということをおっしゃっています。そのぶれない部分が表現の核になっていると思うんですが、それが市原さん独自のリズムを作り出しているように思います。リズムといっても、ドラマなどの台詞でも朗読でも、歯切れのよい五七調のリズムでポンポンと響いてくるかというと、そうではないですよね。独特の、時にはリズムを壊したり、中途半端なような感じだったりします(笑)。
市原 間の取り方も大事ですし、外れたリズムが持つ魅力というものもありますね。ソレソレソレソレといった浮いたリズムもありますが、わたしが好きなのは、やっぱり大地の響きですね。海は怖くて泳げないんですが、波がざーっと押し寄せてくる怖い音、それから原住民の方がお祭りで叩く、大地から湧き出てくるような太鼓の音、足踏みの音とかに惹かれます。あれは人間の鼓動なんですってね。
小原 市原さんの演技には、あえて破調を使うことで、見る人をグッと惹き付けるといったところがあるように思います。演技を拝見していると、相手の言葉を終わりまで聞かずにかぶせ目に台詞をおっしゃったり、それもちょっと棒読み的なかぶせ方だったりします(笑)。でも見る人はそれに惹き付けられてしまう。
市原氏と文学金魚編集委員の小原眞紀子。
市原 〝せりふをまとめるな〟と千田先生に云われました。ストンと語尾を落とすのも大事だし、語尾をビシッと決めるのも大事なんだけど、いわゆる言いくるめたような、まとめたような語尾はつまらない。やっぱり不安定に終わって、あとを引くのがいいと思います。見る人の中で、それぞれに違う感覚が湧き上がるような終わり方ですね。
小原 人間のやってきた芸能で、演劇と音楽が一番古いですよね。太古からあったと思います。市原さんの演技には、演劇・音楽の、一番古いなにかを思い起こさせるような要素があるような気がします。
市原 そうであれば嬉しいですが(笑)。
■ブレヒトについて■
小原 市原さんのルーツは舞台ですが、ベルトルト・ブレヒトがお好きだとうかがいました。ちょっとブレヒトにつてお話いただければと思います。
市原 それはやっぱり、『三文オペラ』などなどの音楽を作ったクルト・ワイルの曲の魅力ですね。千田是也先生がドイツでブレヒトを研究して、帰国されて、日本では俳優座で初めてブレヒトを上演しました。その時にわたしも出演したんです。そういう経緯もあってブレヒトは大好きです。
『コーカサスの白墨の輪』では、産みの親と育ての親が子供を奪い合う。産みの親と育ての親が両側から子供の腕を引っ張って、さあどちらが親か裁判をしようとなった時に、育ての親が腕を離してしまう。その時に、本当の愛情は育ての親にあるとわかるとかね。
『セツァンの善人』は、善良な娘シェン・テが、知的で合理的に物事を考える男性のシュイ・タに変装しなければ生きていけないという劇なんですが、人間の中にはシェン・テとシュイ・タに分離してしまうような二つの要素ががあるわけです。苦しい時代に、善意だけでは生きられないという二人(二つ)の要素の葛藤のお話なんです。結局は善意だけでは生きられない娘シェン・テが、「神様助けてください、わたしはあなたが言うような善良な娘では生きられません」と言うわけね。そういう話は単純だけど、やっぱり心を打ちますね。
それに加えてワイルの曲ですね。なぜかワイルの曲に魅了されたんです。なんて演劇的なんだろうと思いました。今までの音楽とは、まるで違うようにわたしには響いてきました。この世は辛い、あのユートピアに行くんだ、なにがあろうと行こうと、みんなで行進してパラダイスを探しにいくんですが、その時の歌ですね。音楽とそれに加わる大地を踏みしめる音、とにかく理屈なしにここから逃げたいと歌う歌が、胸を打つんです。
それで『三文オペラ』ですっかりクルト・ワイルの虜になったんですが、歌うのは難しいんですよ(笑)。半音だらけの不協和音で、リズムが途中で変わるんです。ずいぶん稽古しましたが、稽古を重ねると楽しくてね。何十年たっても忘れられずにいたんですが、日比谷のシャンソンの会で、一曲歌ってくれと頼まれた時に、ワイルの曲ならということでお引き受けしたんです。へんちくりんで、誰も歌わないですから(笑)。それが病みつきになって、またワイルの曲を勉強しなおしたんです。ミッキー吉野さんはワイルの曲がお好きですが、他の音楽家はどうでしょうか。ミッキーさんは、やっぱり特殊な方ね(笑)。
星 せっかく演劇のお話になったので、もう少しブレヒトについておうかがいしたいと思います。対談集『やまんば』の中で、市原さんはブレヒト原作のワイルのオペラ、『マルゴニー市の興亡』挿入歌の『アラバマ・ソング』がお好きだとおっしゃっています。あれはすごく現代音楽的な感じがします。普通の演劇の空間から、いきなり不協和音的な音楽の世界に入っていきます。一般の商業演劇の音楽と質が違うからこそ、なにかとてもリアルな感じがします。人間が普通の生活で交わす会話や独り言のリズムや間にすごく近いような感じです。あれを舞台で歌うときの、お客さんの反応はどういった感じですか。
市原 びっくりなさってるわね。やっぱりワイルの曲って暴力的ですよ。オーバーに言えば、殴りかかられるようなね。みんなハッとして、聞いていらっしゃいます。そういうお客さんを惹き付ける力が、ワイルにはあると思います。
星 観客にしてみれば、普通の物語劇を見ているつもりが、そこにちょっと意外な質の音楽が紛れ込んでくるような。
市原 そうそう。台詞ではもう間に合わないような高まりと飛躍があって、それが突然強い歌で表現されるわけです。お客さんはびっくりなさるわけですが、それによってブレヒト劇の内容がより深く伝わるような気がします。目をさまさせるような力をワイルの曲は持っていると思います。
星 ブレヒトの演劇論には『開かれた芝居』という言葉がよく出てきますが、観客を劇の中に閉じ込めてしまうと、劇を見終わった後に、観客の中に残る物が少ないといった意味だと思います。ブレヒト劇の歌は、お客さんに対して劇の内容を開く、劇の内容を決めつけないでお客さんに差し出すための入口になっているような気がするんですが。
市原 そうねぇ、ブレヒトの芝居って、そこのところが難しいわねぇ。ブレヒトの芝居って、嫌いな方は嫌いよね(笑)。
星 物語を見たい観客には、内容が単純と言いますか・・・。
市原 みんな平等で幸せにならなきゃという考えで書かれている面があると思います。でもいくら努力したって世の中は変わらない、ずーっとこのままなんだと。ちょっと『家政婦は見た』のようだわね(笑)。いくら家政婦が見てのぞいて、なんて人たちだろうと思っても、日本を引っ張っていくエリートは結局は変わらない。それが松本清張先生原作の『家政婦は見た』の精神なんだけど、ブレヒトの戯曲はちょっとそれに似たところがあるわね。この世の中をどうにか変えたいと足掻いても、結局は変わらないんだということを言っているから、そういうブレヒトにアレルギーがある方はいらっしゃいますね。でもそこにワイルの曲が入ると、理屈なく胸がさわぐんです。
■今の演劇について■
星 今の演劇の音楽についてどうお考えですか。
市原 今の若い方の舞台は、歌って踊るものが多いですね。テレビの演劇放送で見るくらいですが、歌って踊るシーンが必ずと言っていいほどありますね。でも軽いのね。楽しそうだけど、わたしには素通りしてしまう(笑)。
星 もうちょっと説明していただけますでしょうか。
市原 だって、世の中そんなに楽しくないですもの(笑)
星 お客さんの中に、演劇を見ている間だけは、苦しいことを忘れたいという欲求があるんじゃないでしょうか。
市原 舞台を見ているときまで、深刻になりたくないといったようなね。
星 僕は公演回数の少ない小劇団の舞台を中心に見ているんですが、そういう劇団、特に野外劇などは、音楽の使い方なんかも含めて、観客の生活と地続きになっているような感じがするんです。たまに元気のいい人気劇団の舞台を見ると、確かに楽しいです。でも見終わった後に残るものが少ない。チケット代の分だけは楽しませてもらったという感じがします。
市原 演劇はゴツゴツと引っかかってくるものであってほしいんだけど、滑らかにつるつるとお話が進んでいってしまう作品が多いですね。歌でも芝居でも、なんかギクシャクして、進まないような進むような、楽しいような楽しくないような、そういう解決できないような矛盾が心に引っかかってくる方がわたしは楽しいんです。それについて考えるようになりますから。
鐘下辰男さんの演出で、武田泰淳原作の『ひかりごけ』の舞台を見たんですが、あれは孤島に飛行機が不時着して、少年たちが生きていくために人肉を食うか食わないか惑うといったお話なんです。ああいう舞台を見ると、わたしだったら食うだろうか、弱ってきて死ぬときに、食われていいと思うだろうか、食べないでって思うだろうか、どうぞ食べてと思うだろうか、友人が死んでいったら食うだろうかと思って、見ていてグワーッとなってしまいました。なにかを突きつけられたような感じです。こういうギリギリのところを描いてくれると、人間はものを考えるなぁとつくづく思いました。『ひかりごけ』は極端な、強烈なお芝居でしたが、どっちかといえば、そのようなある極限を描くような芝居が見たいですね。
星 『ひかりごけ』では後半の裁判場面の、弁護側と被告側のどちらの立場も身につまされます。でも最後は判決が出ないまま、被告人の独白で終わります。そういう終わり方は、ブレヒトの『三文オペラ』にも通じるものがあると思います。『三文オペラ』では主人公のメッキー・メッサーが、終わりの方で観客に「わたしは有罪か無罪か」と問いかけますね。あの時のお客さんの反応は舞台上から見ていてどんな感じですか。メッキー・メッサーは無罪になって助かるわけですが、お客さんにメッキー・メッサーを助けてくれという反応が見られますか。
市原 見られません。なんで助かるのっていう方向にもっていかないと、成功じゃないでしょうね。その疑問がずっと残ったままお客さんに帰ってもらわないと。そうか、世の中そうなのか、理不尽だわね、という感覚で帰っていただかないとね。
星 ああそっか。そうですよね(笑)。
市原 そういうところ、ブレヒトは難しいですよ。皮肉な視線で、裏を描いていますから。
星 戯曲を読んだだけでは、その空気がわからない。
市原 そう。またメッキー・メッサーという主役は魅力的な男ですからね。ダンディでハンサムですから、助かると嬉しい。でもそれに騙されちゃダメよってことです。そこが伝わるようにしっかりお芝居を作らなくちゃならないから、難しいですよ。
星 この後、映画やテレビのお話をうかがいますが、舞台で演じられる時と、テレビや映画で演じられる時は、意識して変化させている部分はおありですか。
市原 そうですね。舞台は千人ものお客さんが入っていて、一番端の方にもちゃんとお芝居が伝わらなくてはいけないから、表現を意志的にとどけますね。マイクもありませんから、声も張らなきゃならないし、動きも大きくしたりね。テレビや映画は、カメラが紅潮した顔や、汗が出たりするところまで全部映してくれますから、そこに生の存在として演じるってことでしょうか。そういった違いはありますが、役作りは同じです。どういう人間を描きたいのか、作品全体は何をいいたいのか。でも舞台を長くやっていてテレビや映画の仕事になると、演技がちょっとオーバーになることがあるのでそれを気を付けます。逆にずーっとテレビや映画の仕事をやっていて舞台に戻ると、今度は演技が小さくなってダメですね。その切り替えを間違えないようにしないといけません。
『市原悦子 うた語り2013 たそがれの舞踏会』
市原悦子氏主演のショー・ライブ。台本・演出 塩見哲、音楽 ミッキー吉野氏で、四人組男性ヴォーカルグループ・エクセランド(EXCELLAND)が出演。11/25(月)の千葉・君津市民文化ホールを皮切りに、12/19(木)の千葉・四街道市文化センターまで関東各地を巡演。
(2013/11/07 後編に続く)
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