辻原登氏の新連載「東大で文学を学ぶーードストエフスキーから谷崎潤一郎へ」。その冒頭、学ぶ = 真似する ということについて、論じられている。
タイトルから明らかなように、東大や立教、東海大などで文学と創作について教鞭をとってきた辻原登氏の講義という形式だ。学者で創作もする、いわゆる学者詩人や学者作家とは違い、辻原氏はまず作家であって、その創作の現場を伝えるために教鞭をとる。この二つは似て非なるというより、全然異なることだと、この第一回を読むと感じる。
まず学者作家にとって創作は自己の解放の場であるのか、余技としてのエクスキューズが働くのか、本業の学問ほどには方法論を突き詰めようとしないことが多い。そこで頭を使ってしまうと、学問に申し訳が立たないとでもいうかのようで、創作作品としては学者が書いたものとして読むしかなくなる。批評をさせると、これも忠誠心なのか省エネなのか、本業の延長で捉えようとしたり、余技としての戯れ言となったりして、教育効果を期待できるものがあまり出てこない。
つまりは創作の方法論は、方法論なしには書き続けていけないと感じる、そして書き続けなければ生きていけないと感じる、プロパーの創作者にこそ論じさせるべきなのだ。そのプロパーの中でも、方法論について模索し続けようとする作家は、そう多くはない。しかし作品以外の教育的な何かを、他人、とりわけ後進に残すことができるのは、こういった理論派の創作者だけだ。
このご時世、ではそれを受け取る側はどうかと言えば、誰もが手っ取り早く成功することばかり考えている、というのが実態ではある。プレテキストなんか学ぶくらいなら、その間に自身の書いたものを一つでも多く新人賞に応募する方が得策だ、といった風潮だ。
しかしそれでも、何も学ばない = 真似しない = すなわちオリジナリティがある、などと錯覚できていたのは、一昔前のことだ。ネット上のワナビ = want to be たちは、自分の書くものがいずれの部分もすでに、巷に溢れる何かに似通っていると知っている。とすれば今さら、何を学ぶことがあろう。やはり巷のあちこちにあるらしきニーズのどれかに合致するチャンスをつかむことがプロへの道と思っても、さほど不思議ではない。
とはいえそれは、学ぶ = 真似る ことを低次元に捉えているがゆえの結論に過ぎない。辻原登氏の考察は、日々の創作から発したものであり、近代小説の一般的特徴(すべてが探偵小説であるという)、そうであることの本質(父殺し、だという)から、会話体の鍵カッコの扱いにまで及ぶ。そして本当に学ぶべきは一言一句より、その「姿勢」だ。
たとえば女性作家にとっての(父殺しであると言われるところの)近代小説とは何か、ということについては、辻原氏の考察をそのまま当てはめようがない。ただ、創作を続けてゆくことの本来的な困難、それに対する危機感、そのためには自身の方法論が絶対に必要であるという確信は、創作者なら誰もが共通して持つべきものだ。真摯さも緻密さも、それにともない、必然的に現れてくるに違いないものである。
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■