巻末に「小説検定」(南陀楼綾茂 = なんだろう あやしげ 出題)がある。今回のテーマは「山と川」。この「小説検定」、見ているうちになんとなく違和感というか、妙な感じに陥ってくる。
今回について言えば、山と川にまつわる小説に関する知識クイズなのだが、そういったことと、いわゆる「本を読む」ということとの関係について何やら考えてしまったわけだ。
その本の内容が、そのまま教養として広く定着する、ということはめったにない。書物として思いつくのは源氏物語ぐらいだ。たとえば紫の上が、と言えば、どのような女性との関係なのか、察することができなければすなわち無教養に過ぎるということになっていた。少なくとも江戸期では。
書物でなく短歌であれば、本歌の知識がなければ、それを踏まえて教養あふれる歌を詠むことはできない。そして前提として、その歌を受け取る側もまた、本歌の知識を共有していることになっている。つまりは人の口の端にのぼる言葉のひとひらには、共有されている文化のバックグラウンドが分厚くあり、その厚みに堪えられる者を教養人と呼んだ。
英語検定、漢字検定といったものから派生し、細分化された◯◯検定、といったものは、すなわち、その◯◯がごくごくトリビアルなものであれば通用するジョークに過ぎなかったのだ。
それが「南陀楼綾茂 = なんだろう あやしげ 出題」というジョークの路線のまま、「小説検定」というところに辿りつく。ジョークがぐるりと一巡して、教養の本幹たる書物に戻ってきたと見るべきなのか、あるいはすでによく言われるように、小説がトリビアルなオタク趣味の対象となったのか。
yom yom という、読ませることにおいて何とか希望を繋ごうとしているがごとき雑誌の「小説検定」は、たぶん前者のつもりではあるのだろう。そこでの「山と川」は、テクストによって現出する「山」と「川」だから、現実の山川よりもずっと極端に、最高峰や大河が突出するはずなのである。
人口に膾炙しているとまでは望めなくとも、山川を描いた小説として大傑作であるものの描いた山、あるいは川は、ただそこを舞台としているに過ぎない人間ドラマといったものとは違うはずた。「山とは何か」、「川とは何か」を日本語において定義してしまうようなものなのだ。それは源氏物語が女性の魅力というものを日本語において定義し、紫の上と言っただけである了解が成立してしまうことと重なるような力を持っていなくてはならない。そういうテキストしか知る必要はないし、検定にかける意味はない。たとえジョークだとしても。
私見では、「山とは何か」を定義し、「人はなぜ山に登るのか」を完全に説得し得た小説は、この検定に出題されていない『神々の山嶺』(夢枕獏)だと思うが。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■