俳優、声優・ナレーター、エッセイイスト、東海大学特任教授。1942年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。
洋画家・寺田政明の長男として東京の旧池袋モンパルナス芸術家村に生まれ、早稲田大学中退後、文学座附属演劇研究所に第一期生として入所して俳優の道を歩み始める。岡本喜八監督の『肉弾』に主演し毎日映画コンクール主演男優賞受賞。実相寺昭雄、相米慎二、石井隆監督作品の常連俳優でもある。エッセイイストでもあり、著書に『寺田農のみのりのナイ話』(淡交社)、『寺田農のノウ・ガキ』(風塵社)がある。美術にも造詣が深いことで知られる。
大正時代末期から昭和二十年代にかけて、現在の豊島区要町から長崎町のあたりに「池袋モンパルナス」と呼ばれる画家たちのアトリエ村があった。命名者は詩人の小熊秀雄で、靉光(あいみつ)、松本竣介(しゅんすけ)、麻生三郎、吉井忠、柿手春三、寺田政明、古沢岩美、難波田龍起、小川原脩(おがわらしゅう)、北川民次、野田英夫、丸木位里・俊夫妻など、そうそうたる顔ぶれの画家たちが創作に励んだ。福沢一郎、熊谷守一、長谷川利行らの先輩画家たちも彼らの仲間だった。詩人では小熊のほかに、瀧口修造、高橋新吉、山之口獏らが画家たちと親しく交わった。
しかし池袋モンパルナスの画家たちの業績は、高橋由一や青木繁、岸田劉生ら明治から大正初年代にかけての初期洋画家たちと、戦後に解き放たれたように欧米美術を受け入れたアバンギャルド系の画家たちの間に挟まれて、いまひとつ明確な像を結んでいない。
そこで金魚屋では、池袋モンパルナスを代表する画家の一人である寺田政明画伯のご子息で、俳優の農(みのり)氏に、池袋モンパルナスについて語っていただいた。寺田氏が肉体感覚で捉えた池袋モンパルナスには、美術史の表面には現れてこない貴重な示唆が含まれている。
(金魚屋編集部)
───平成二十三年(二〇一一年)十一月から二十四年(一二年)一月にかけて、板橋区立美術館で『ようこそ、アトリエ村へ! 池袋モンパルナス展』が開催されました。池袋モンパルナスは戦前に池袋駅西口周辺にあった芸術家村で、小さいものも含めると過去十回以上の展覧会が開かれています。寺田さんのお父様の政明画伯は、池袋モンパルナスを代表する画家の一人で、池袋モンパルナスの名物男と呼ばれたコミュニティの中心人物でもあります。そこで今日は『池袋モンパルナスへの旅』というテーマで、寺田さんに池袋モンパルナスについてお話していただこうと思います。寺田さんはお生まれは池袋で、今も池袋にお住まいですよね。
寺田 そうです。生まれは池袋モンパルナスがあった椎名町のアトリエ村なんですが、五歳の時にときわ台ってところに転居して、そこに二十歳くらいまでいましたかね。それから一人暮らしを始めてずっと離れてたんですが、平成元年(一九八九年)に父親が亡くなって、翌年くらいからときわ台に戻るようになって、一昨年ですか、六十何年ぶりにまた池袋に住むようになりました。
───インタビューを行わせていただくにあたって、金魚屋のスタッフの一人に池袋モンパルナスを見に行ってもらったんですが、どうもみつからなかったようです。
寺田 変わっちゃってるからね。建物なんかはもうないんです。どうしても昔の雰囲気はわかりにくい。
───『怪獣のあけぼの』(発売元=株式会社USEN・株式会社TRIP、販売元=株式会社TRIP)という、寺田さんが出演され、ナレーションもされているDVDでは、池袋モンパルナスのアトリエが紹介されていますが。
寺田 あの頃はあったんです。あれは平成十八年(二〇〇六年)発売だから、六年前ですか。六年前まではあった。当時のお風呂屋さんもあったし、煙突も残ってた。DVDの中で僕が歩いてた小道もあったんです。この間、ちょっと行ってみたんですが、全くわからない。六年前に歩いた道すらはっきりしない。マンションができたりすると、地形そのものが変わっちゃうから。
───板橋区立美術館の『池袋モンパルナス展』では、池袋モンパルナスを歩くという企画も開催されていたようですが。
寺田 あれはね、池袋モンパルナスの専門家で、アトリエ村資料室代表の本田晴彦さんと一緒に町を歩くという企画だったんです。本田さんはずっと地元にお住まいの方だから、隅々まで町をご存じですよ。戦前の面影は、少しだけですが残ってるんです。でもそうとうに詳しい方でなければなかなか見つけられないでしょうね。
旧池袋モンパルナス、ひかりケ丘の彫刻家・白井謙二郎氏アトリエにて。左からアトリエ村資料室代表・本田晴彦氏、白井夫人智子氏、寺田農氏。『怪獣のあけぼの』(発売元=株式会社USEN・株式会社TRIP、販売元=株式会社TRIP)より
───寺田さんは、池袋モンパルナスについて、どのくらいご記憶がおありですか?。
寺田 僕はね、まったくないです。ただ椎名町の駅ってのは、今でもそうなんですけど、駅のそばにお寺と神社がくっついてるんです。その横に今の山手通りってのがあって、坂になってるんですが、当時はまだ剥き出しの土のままでね。その坂を駆け下りたり、滑ったりして遊んだ記憶があります。その坂の前が、帝銀事件の銀行です。
───寺田さんは終戦の時に三歳ですね。五歳で転居されるわけですが、それはお父様のご意向ですか。
寺田 戦後すぐに、いろんな形でモンパルナスが崩壊していったんです。うちの親父はときわ台ってところに土地を買って転居して、ほかの人たちもどんどんモンパルナスから離れていった。
───小熊秀雄が亡くなった昭和十五年(一九四〇年)くらいがモンパルナスのピークというか、モンパルナスの終わりでしょうか。
寺田 そうですね。・・・でもやっぱり終戦がモンパルナスの終わりでしょうね。
池袋モンパルナス、長崎のアトリエ村にて。左から寺田政明、小熊秀雄 昭和十年(一九三五年)頃
───モンパルナスのあたりは東京大空襲で焼けていませんよね。
寺田 そうそう。椎名町のあたりは残った。池袋駅周辺とか、豊島はけっこう被災してるんですけどね。面白いのはね、僕には二歳年上の姉がいるんですけど、姉は椎名町で小学校に上がってるんです。それで小学校一、二年まで通ってたから、彼女の記憶はすごいですね。僕と二歳の違いっていうのは。姉は当時の家の間取りなんかも覚えてる。隣がなに屋さんだったとか、なにをしてた人がいたとか、近くにレンズ工場があったとかね。
───あのあたりはレンズ製造で有名だったみたいですね。
寺田 うん、板橋がレンズ工場で有名なんです。でも池袋って、元々はなんにもない所だったんだから。昔の地図を見ると、川越はもちろんのこと、志村、巣鴨、赤塚なんかはちゃんと地名が記載されてるんです。あのあたりは城があったから。だけど池袋は池しかない湿地だから、昔の地図には名前が残ってないんです。
───寺田さんは疎開はされなかったんですか?
寺田 してないです。
───寺田さんのお父様は九州出身ですよね。
寺田 福岡の八幡です。母親も八幡出身。
───知り合いが子供の頃にときわ台に住んでいて、寺田さんのご実家の近くだったそうです。よく編集者が出入りしていたのを見かけたと言っていましたが、そういう時期があったんですか?。
寺田 ときわ台に移ってから、親父が新聞連載小説の挿絵を描いていた時期が十年くらいあったんです。一九五〇年代から六〇年代にかけて。尾崎士郎、檀一雄、司馬遼太郎、子母澤寛、山手樹一郎さんとかの作品の挿絵です。僕が小さい頃は、親父の絵が仕上がらないもんだから、家の回りに新聞社の車やハイヤーが停まっててね。いつも三社くらい待ってた時代がありました。
───寺田さんは御自身のエッセイで、新聞記者になろうと思っておられた時期があると書いていらっしゃいますが、その影響ですか。
寺田 そう(笑)。
───当時はどんな方が出入りされていましたか?。
寺田 親父は昔の人だから、なんでもかんでも捨てないでとっておくというか、そのへんに置きっぱなしにしていた。膨大な資料でね。親父が亡くなった後に、重要そうなものは美術館に寄贈したりしたんだけど、その中に手紙類なんかがたくさんあったんです。それを整理してたら、面白い葉書が出てきてね。丸谷才一先生の葉書なんです。親父から聞いてたんですが、丸谷先生は若い頃、うちによく出入りされていた。その葉書には、「装幀を依頼したいけど、お金がない、はなはだ些少ではありますが、お引き受け下さいませんでしょうか」という意味のことが書いてあった。親父の七回忌に大判の画集を作って、それを丸谷先生にもお贈りしようと思ったんですが、住所がわかんなくってそのままにしていたら、偶然、銀座でばったりお会いしたんです。その時に「先生が昔お書きになった貴重な葉書を持ってるんですが、買いませんか」って言って葉書の話をしたら、「買いたいなぁ」っておっしゃってね(笑)。丸谷先生のお話では、親父への装幀の依頼は、出版社がつぶれたか、企画が流れたかして実現しなかったそうですが。
だから当時はいろんな方がうちに出入りしてたんです。いろんな方がうちのことを文章に残しておられますよ。種村季弘さんが、寺田さんに家(ち)は藪蚊がものすごくたくさんいて、でもうちの親父だけは食われなくて、客ばっかり刺されてたとか書いておられる(笑)。親父は庭に大きな甕を置いて、そこに睡蓮を浮かべたりしてたんですが、そこにボウフラが湧いて、そこからまた蚊が発生する。でも親父は「いいんだ、あそこにはカラスが水飲みに来るんだから。みんな生きてる証拠だ」とか言ってたらしいですね(笑)。
寺田政明作『深淵に佇む鴉』。昭和二十八年(一九五三年) 第1回現代日本美術展出品作品
───寺田さんのお祖父さんは八幡製鉄所にお勤めでしたね。
寺田 そうです。
───お母様のご実家がお米屋さん。
寺田 そう。
───お父様の政明さんは、十六歳で上京されていますね。それはご実家の方で、画家になるってことに、ご理解があったんですか?
寺田 いやいや。当時は鉄の時代だから、八幡製鉄とか三菱、住友だとか。八幡は鉄鋼業の町です。祖父は製鉄所の機関士でしたから、父親の家系としては、芸術的な環境なんていうものはゼロです。親父は八歳の時に、蛍とりに行って崖から落ちて大けがして、一年入院したんです。でも足に障害が残っちゃってね。その頃は、男の子はみんな、大きくなったら兵隊さんの時代ですけど、親父は無理な身体になっちゃった。その時に病院で絵を描いてる先生がいて、絵描きならなれるかもしれないと思ったようです。でも親に理解があったかというとそうではなく、ものすごく反対した。親父はそれでも小倉市金田の九州画学院に入学するんだけど、それはまあいいだろうと親は許してくれた。でも親はどうしても画家になりたければ、学校の先生になれと。父方の出は広島なんですが、広島の離島の学校の先生でもやりながら絵を描けと言ったそうです。でも親父はどうしても学校の先生だけはなりたくない。それでどうにか説得して東京に飛び出してきたのが十六歳の時です。
───十六歳で九州から上京されるってのは早いですね。
寺田 でも当時はみんなそんなもんなんです。たとえば親父の友達の古沢岩美さんなんかも十六歳で上京してます。だいたいその年代で上京してる画家が多いです。それで二十代前半でみんな花開く。開かない連中はまたそこで方向が変わっちゃう。このあいだ、平塚市美術館で、高野悦子さんの著書『二十歳の原点』からタイトルをもらって、『画家たちの二十歳の原点』という展覧会が開かれました。二十代の画家はどんな自画像を描いてるかっていう展覧会でね。これは面白かった。やっぱり二十歳くらいでなんか出てこないとダメなんだな。僕は予定していた日に行けなくなって、その翌日に展覧会に行ったんだけど、昨日、野見山暁治先生が、寺田さんに会えるって楽しみにしてお待ちになってたって言われて恐縮してしまった。でも野見山さんも僕と同じことを言っておられる。二十歳でなんか出てこないとダメだってね。
古沢岩美作『誘惑』 昭和十二年(一九三七年)
───画家というのは、お坊ちゃん系とそうではない方に二極分解する傾向がありますよね。池袋モンパルナスでも東京美術学校出のインテリ画家と、ほとんどアカデミックな勉強はしていない画家たちがいると思いますが。
寺田 池袋モンパルナスでは、東京美術学校出の画家はほんの数人しかいないです。
───福沢一郎さんとか。
寺田 福沢さんはモンパルナスではないです。あの方は群馬県富岡出の、大変なお坊ちゃんだから。
───福沢さんは、大家中の大家で、ちょっと権威的だなぁと感じるところもあったんですが。
寺田 いや、それは後に文化勲章なんかもらっちゃったから、そんな感じで受け取られてしまうんでね。初期の福沢さんはすごいですよ。特に『よき料理人』とか『牛』とかの、中国旅行に行ってから描いた絵なんかはね。あの人はパリに留学して、画家としては日本に始めてシュルレアリスム絵画を紹介した人で、それで僕の親父なんかも本郷の福沢一郎絵画研究所に出入りしていたのです。
上 福沢一郎『よき料理人』(昭和五年[一九三〇年])、下 『牛』(昭和十一年[一九三六年])
───福沢さんは昭和十六年(一九四一年)に、反体制的共産主義思想の嫌疑で特高に検挙されますね。
寺田 そうそう。戦前に検挙されて、戦後に文化勲章をもらった時に、「お上のやることはわからん」っていう有名な台詞を吐くわけだけど(笑)。だけどモンパルナスには基本的に金持ちはいないわね。上野の東京美術学校のあたりには金持ちがいっぱいいたけど。
───寺田さんは俳優の他に、絵の関係のお仕事もたくさんされているんですか?。
寺田 やってないやってない(笑)。でも父親が二〇一二年に生誕百年なんで、それとリンクするからいろいろなところに呼ばれるんです。僕は息子だから一番ゲストとして呼びやすいし、テレビとかにも出て人に顔を覚えられてるから。でも格段美術に造詣が深いってことはないですよ。ただ絵が好きなだけです。
───『怪獣のあけぼの』というDVDを見ていて思ったんですが、芸術と娯楽というものが、少しずつ曖昧になってきているという時代状況があると思います。
寺田 芸術と娯楽を分けること自体がおかしいんでね。その境目はなんなのか。芸術でもつまんないものはつまんないし、娯楽でも面白いものは面白い。今はクロスボーダーなんてことを言うけどれも、逆に芸術と娯楽を分けたがる傾向もある。アートなんていう、曖昧な言葉が定着し始めてるでしょう。
───今芸術として高く評価されてる映画とかでも、撮っていた人は芸術作品といった意識はなかったでしょうね。厳しい時間と予算の制約が課せられていたわけですから。
寺田 でもね、昔の映画はね、いや、絵や文学もそうなんだけど、やむにやまれない情熱があるわけです。今作っておかなきゃっていう。現代ではそういう切迫感がないでしょう。サラリーマンやるよりは芸術家になりたいっていうような、選択肢の一つとして芸術がある。作ってる人に迸るものがないから、創作にも迸るものが感じられないんじゃないかな。でもコミックの世界は別かな。コミックがあれだけ面白いのは、素晴らしい才能が集まって、コミックの世界が活性化してるからでしょうね。
───お父様の政明さんは、シュルレアリスムの前に、まずダダイズムに関わられていますね。日本で始めてダダイズムを紹介した、詩人の高橋新吉さんなんかともご交流があったようですが。
寺田 高橋新吉さんなんかとは仲良かったんじゃないですかね。『ダダイスト新吉』の詩人ね。僕も高橋さんのことは覚えてる。よく着物着てうちに来てた。偉そうな感じの方で、なんだか怖いおじさんだったな(笑)。
───なぜ政明さんはシュルレアリスムに魅了されたんでしょう。
寺田 当時はまだ日本の洋画の歴史が浅い時期ですよね。初期の青木繁や岸田劉生、鉄五郎なんかの時代を経て親父たちの時代になった時に、日本全体が戦争に向かって突き進んでゆく、ある種の閉塞感があった。それと、あの時代、みんな何をどう描いていいのかを模索していた時期だったということがあると思います。そういう時期に、パリ帰りの福沢先生が日本でシュルレアリスム絵画を始められて、みんな、その「技法」だよね、こんな技法があるのかって驚いた。
───福沢さんの絵は、解釈のしようによっては体制批判的だとも思えます。でも政明さんの絵には体制批判的な要素は少ないように思いますが。
寺田 誰も体制批判はしてなんじゃないかな。
───してない?。
寺田 うん。池袋モンパルナスのシュルレアリスム系の画家の作品には、体制批判はないと思いますよ。体制を批判するよりも、こういうやり方もあるんだという方に重点が置かれていた。それで当時の感受性の強い若い画家たちが飛びついて、みんなシュル、シュルとなったんだと思います。でも官憲側からしてみれば、シュルレアリスム運動は「個の解放」で、それは軍隊が目指す方向とはまったく違うから、それが思想的な取り締まりにひっかかっちゃったわけですね。でも体制にまっこうから反対だっていう人は、モンパルナスの画家にはいないよね。
───靉光の『眼のある風景』や『自画像』などは、美術批評の世界では、体制批判的な意図があるという「読み」がなされていますが。
寺田 すべての芸術はそうだけど、時代とともに生きるわけです。その時代がどういう時だったのか、そこで自分がどういう表現をするのかは、どうしてもリンクしていきます。そこに時代を批判する「眼」というものも当然でてきます。でもそれは、面と向かって体制批判のためにこの絵を描くんだ、こういう意味をもたせるんだってことではないと思います。でも後の美術評論家は、そういう絵を必ず体制批判的な意図で読み解こうとします。例えば靉光が出征前に描いた三枚の自画像で、背景に大きな木がなびいている描写なんかを、これは体制側の大きな力が描かれているんだなんて言うけど、ほんとにそうかねぇと思っちゃう(笑)。そんな意図、靉光さんにあったのかねぇ。
上 靉光『眼のある風景』(昭和十三年[一九三八年])、下 『自画像』(昭和十九年[一九四四年])
───政明さんはそうとうに絵を描くのがお好きだったようですが。
寺田 好きだったね。膨大なデッサンや油絵が残ってる。その情熱はすごいですよ。
───政明さんの文章を読ませていただいていると、あまり言葉で表現されるのは得意ではなかったような印象を受けますが。
寺田 でもねぇ、絵描きって、なんだか知らないけど、描くのも書くのも好きなの。文章書くのも大好きなんですよ。絵で描いてるから文章はもういいじゃないかって思うんですけどね(笑)。だから平塚市美術館の『画家たちの二十歳の原点』でも、絵のキャプションは全部画家たち本人の言葉を再録しているんです。画家でエッセイイストの方って多いでしょ。野見山先生もそうだし、中川一政さんなんかもそうですね。時代状況もあるのかな。当時は絵と文学、それに演劇が強くリンクしてたから。みんな交流があったんです。だから小熊秀雄は絵を描いたってことがあったと思う。
───小熊さんは政明さんと仲が良かったですが、彼はシュルレアリスムの絵は描いていませんね。
寺田 小熊さんはデッサンというか、スケッチだから。
───小熊さんの絵は、新聞記者時代に鍛えた風刺画っていうか、当時の言葉で言えばポンチ画の技法ですか。
寺田 うん、それとうちの親父が後に書いているけど、小熊さんはデッサンというか、具象として対象を捉えないで、鳥がついばむように全体を掴んでいく。だから詩精神というか、詩から入ってる絵だと書いてますね。
小熊秀雄『寺田政明像』 一九三〇年代。
───小熊さんの詩は読みようによってはどうにでも読める。なかなかしたたかな詩人ですね。
寺田 そう。小熊さんは樺太で徹底的にいじめられて、大変な思いをして東京に出てきて、挫折して何回も起き上がってくるわけでしょう。その間にあれだけの作品を残したわけですから。わずか三十九歳で亡くなっているのにね。
───小熊さんには樺太の詩もありますし、アイヌも詩の題材にしておられる。日本文学では、最初期の植民地文学の一つとも言えます。
寺田 詩集『飛ぶ橇』(昭和十年[一九三五年])の表題作が、アイヌを題材にした長篇叙事詩ね。でも長い詩だからなかかな読みにくい。特に朗読なんかしようとすると、困っちゃうね。小熊さんの作品は、追い詰められてたから、明日の米がないから、なんか書かなきゃっていう切迫感があるよね。
小熊秀雄詩集『飛ぶ橇』 装幀・寺田政明 昭和十年(一九三五年)
───寺田さんは物心ついた時には、お父様の政明さんは、かなり売れっ子になっていたわけですか。
寺田 そうですね。物心つくのは、さっき言った、新聞の挿絵の仕事を始めた時期だから。でも親父は十年くらい挿絵の仕事して、またきっぱりやめちゃうんですよ。もちろん挿絵の時期にも油絵は描いてたんだけど、自分で気がついたんじゃないかな。こんなことやってたら、ほんとの絵が描けなくなるってことにね。それから挿絵の仕事は一切やめちゃって。でもその頃にはもう画家としての名前が通っていた。だから僕は、貧乏絵描きの息子って経験はないな。御曹司でもないけど(笑)。ごく普通の生活レベルだった。親父はとっても近代的な人でね。子供にはものすごく優しかった。女房との間にはいろいろあったんだろうけど、当時の奥さんはみんな我慢して、自分のお父さんが一番だと思って尊敬してたからね(笑)。
(2011/12/16 後半に続く)
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