Interview:谷川俊太郎&賢作(2/2)
谷川俊太郎: 昭和6年(1931年)、哲学者で文芸評論家の徹三と母多喜子の間に生まれる。昭和27年(1952年)に処女詩集『二十億光年の孤独』で詩壇デビューする。抒情詩人として知られるが、現代詩や童謡、ノンセンス詩など幅広い詩風の作品をてがける。翻訳家、作詞家、童話作家としても知られ、その執筆範囲は小説以外のほぼ全文学ジャンルに及ぶ。
谷川賢作:昭和35年(1960年)、俊太郎と大久保知子の間に生まれる。玉川学園高等部卒業後、音楽家として活動し始める。映画『鹿鳴館』(昭和61年[1986年])で作曲家デビュー。平成8年(1996年)には詩を歌うグループDiVaを結成し、童謡やポップスとも異なる日本語と音が融合した独自の楽曲を発表し始める。『詩は歌に恋をする~DiVa BEST』(平成21年[2009年])などのCDがあり、今年7月にDiVaの新譜が発売される。
谷川俊太郎氏は処女詩集『二十億光年の孤独』(昭和二十七年[一九五二年])でデビューして以来、一貫して自由詩の最前線を走り続けている詩人である。戦後最も人々に読まれ、愛され続けている詩人でもある。谷川賢作氏は俊太郎氏のご長男で、作曲家、ピアニストとして旺盛に活動されている。平成八年(一九九六年)に大坪寛彦(ベース、リコーダー)、高瀬麻里子(ボーカル)氏と現代詩を歌うバンドDiVa(ディーバ)を結成されてから、父の俊太郎氏と共演することも多い。親子であり作品制作のパートナーでもあるお二人に、創作に対するお考えや姿勢をじっくりお聞きした。
文学金魚編集部
■『ピーナッツ』の翻訳について■
――――俊太郎さんのお話では、画家たちとのコラボレーションは、偶然が積み重なって生まれたように聞こえてしまうのですが、それにしても仕上がった作品の出来がいい。画家ではないですが、俊太郎さんはアメリカの漫画家、チャールズ・M・シュルツの『ピーナッツ』を翻訳されています。あれは依頼で始められた仕事でしょうけど、よく俊太郎さんを翻訳者に選んだなぁと思うわけです。主人公のチャーリー・ブラウンを始めとする登場人物たちは、一種独特な生活感のない町に住んでいます。それぞれ孤独な雰囲気を漂わせながら交流している。俊太郎さんの詩の読者であれば、シュルツの世界はどこかなじみがある。『ピーナッツ』の翻訳者として俊太郎さんはうってつけだと思いますが、仕事を依頼された経緯はどういうものだったのでしょう。
俊太郎 シュルツの描く世界に、僕はすごく親しみを感じていました。翻訳の仕事を始める前のことですが、アメリカにいた時に新聞を買うとまずマンガ欄を読んでいましたからよく知っていたわけです。スヌーピーっていうおもしろい犬がいるとかね。だから僕は英語があんまりできないのに、翻訳を引き受けちゃったわけです。
『A peanuts book featuring Snoopy (1)』
チャールズ・シュルツ著 谷川俊太郎訳
角川書店刊
――――仕事を依頼する人も、よく考えていますね。
俊太郎 依頼してきた人は、当時はぜんぜん有名ではなかった鶴書房の社長さんで、仕事にアメリカに行ったついでに『ピーナッツ』の翻訳権を取ってきたんです。今じゃ考えられない話ですよね(笑)。彼は勘で、なんとなくシュルツの『ピーナッツ』と僕の詩の世界が似てると思ってくれたんでしょうね。僕は英語に自信がないから、日系二世の徳重あけみさんという方に下訳と監修をお願いして仕事を始めたんです。
――――僕が一番親しんできた俊太郎さんの作品は、実は『ピーナッツ』なんです。翻訳で面白いなぁと思うのは、アクビをするときに、『アクビ』って書いてある。英語では当然アクビに該当する言葉が書いてあるんだけど、日本語にするときに『あ~あ』とかにしないで『アクビ』にしてある。そういうところが面白いですね。
俊太郎 溜め息もそうなんです。
――――日本語の音声的な特徴を大切にしながら、あえてオノマトペを無化した訳語を当てておられるところがすごく斬新です。あれは意識的な訳し方なんですか。
俊太郎 方法があるわけじゃないけど、その場面その場面に合うものを日本語として使ってきたという感じです。『ピーナッツ』の中によく出てくる、〝GOOD GRIFE〟という有名な台詞があるんですが、あれなんかは場面によって訳し方を変えたりしています。
――――翻訳から逆の方向の話になってしまいますが、俊太郎さんは日本の古典文学にご興味はおありですか。
谷川俊太郎氏と文学金魚で『『無名草子』の内と外―読み、呼び、詠み、喚ぶ―』を連載中の大野ロベルト(露井)氏
俊太郎 それが不勉強でね。最近、青空文庫などで著作権が切れた本なんかが読めるようになったでしょう。今、その中から少しだけ昔の古典を読んでいる感じです。だからホントに教養がないですよ(笑)。
――――でも俊太郎さんの詩の世界は、どこかで日本の古典文学の世界に通じていると思います。僕は大学院で紀貫之を研究しているんですが、国文学は外の世界から見ると四角張った研究世界です。でも古典の根源には言葉遊びがあります。駄洒落の世界という面が確実にある。俊太郎さんの詩を読んでいると朗読しても意味がわかりますし、『ことばあそびうた』など楽譜はないですが、限りなく音楽に近付いています。そのあたりが賢作さんとのコラボレーションがうまくいっている理由じゃないですかね。
■詩と音楽について■
賢作 ちょっと音楽の話をする前にお聞きしたいんですが、皆さんのお話もそうですが、他の方のお話を聞いていても、詩の世界では谷川俊太郎が一人勝ちしているんじゃないかという気すらしてくることがあります(笑)。詩をたくさん読んでいない僕が言うのもなんですが、詩の世界で俊太郎以外にバリバリ魅力的な詩を書いている詩人はいないんでしょうか。
俊太郎 吉増剛造がいるよ。
――――でも吉増さんたちの世代と比較しても俊太郎さんの評価は微妙だったと思います。僕は一時期詩の雑誌の編集にたずさわったことがあるんですが、俊太郎さんを詩のメディアの中心に据えるという発想も風潮もまったくなかった。詩のメディアは鮎川信夫を頂点として、その下に田村隆一、吉本隆明といった『荒地』派の詩人・批評家たちがいて、そのさらに下に、現実問題として原稿を量産してくれる実働部隊の〝戦後詩人〟たちがいるという構造だった。戦後詩人たちが詩のメディアの中核だったわけです。そこにときおり入沢康夫、岩成達也、飯島耕一、渋沢孝輔、天沢退二郎、吉岡実らの〝現代詩人〟たちが加わって、戦後詩とは違う詩や原稿を書いてアクセントを加えてくれるという構図がありました。俊太郎さんは、怒らないでくださいね、稼いでいるんだから評価しなくていいじゃないかという風潮だったです。あからさまに無視していたわけではないですが、俊太郎さんの仕事はなんら気にすることはない、多くの読者に詩が読まれているだけで十分だ、といった妙な隔絶感が、少なくとも一九八〇年代頃の詩壇にはありました。
賢作 現代詩は、そんな残念な世界なんですかね(笑)。
――――今では『残念な世界だった』と言わざるを得ないでしょうね。メディアは否応なくある規範・指標を若い作家に与えてしまうものです。戦後詩、現代詩風の作品しかメディアに掲載されないとなれば、若い詩人はどうしてもそういった詩を書くようになります。一九五〇年代から八〇年代初頭くらいまではそれでも良かった。でも九〇年代に入ると戦後詩、現代詩の力が衰えてしまった。可能性が尽きてしまったわけです。しかしそれに代わる新しい詩の形態を見つけ出すこと、あるいはきちんとした戦後詩、現代詩の総括を怠って来た。それが今の詩の世界の衰退に結びついていると思います。またそういう状態になって、ようやく俊太郎さんの詩の真価が見えてきたわけです。詩の原点であり、極めて多様な試みが為された作品世界ですね。それに気付くのが遅れた僕らも反省しなければならない。
賢作 そうかぁ。
――――音楽の世界の方が、ミュージシャン(創作者)の交流は盛んなんじゃないでしょうか。詩の世界は基本的に一人一派だから、詩人たちは個々に孤立している感じです。俊太郎さんはエッセイで、同人詩誌『櫂』で連詩をやったときに、部屋にこもって書く詩人が多かったと書いておられる。それは詩というものをよく象徴していると思います。座の文学である俳句や短歌ではあり得ないことです。
俊太郎 そうですね。慣れてきたらその場で書く詩人もいましたけどね。でも初めは慣れないから、どうしてもこもって書きがちだったです。
――――詩は本来的には〝自由詩〟で、何を書いても、どういう書き方をしてもいいジャンルですが、実際には〝不自由詩〟だと思います。多くの詩人は自分独自の書き方を見つけるだけで力尽きてしまっている。処女詩集で見出した書き方以外はできなくなってしまう詩人がほとんどです。僕らは谷川俊太郎だから当たり前と思っていますが、実に様々な書き方をしておられる。実際やってみればわかることですが、『二十億光年の孤独』的なピュアな抒情をベースにしながら、実生活を織り交ぜた『旅』や『夜中に台所で』を書き、その一方で平仮名表記で音韻を活かした『ことばあそびうた』などを書くのは、方法的に大変なばかりでなく、精神的にも大きな勇気がいると思います。最近の詩の世界では批判は〝悪口〟として受け取られてしまう傾向があって、ストレートな批評すらできない雰囲気なのであえて言いますが、平出隆さんがお父様がお亡くなりになったときに『弔父百首』という歌集をお出しになったでしょう。なぜ詩で書かなかったのか、長年詩を書いてきた意味はあるのかと考えてしまったのですが、俊太郎さんはどうお考えですか。
俊太郎 僕はもうそういう考え方はしなくなってるな。ある時期までは、現代詩人なのに俳句を書くとは何事だといった風潮がありましたよね。僕もせっかく詩は七五調から抜け出したのに、また七五調に戻るのはなんなんだよっていう気持ちを持っていた。でも今はなんでもありです。辻征夫さんが俳句と自分の詩を混ぜるような試みを行って、それがすごく面白かった。あのあたりから、僕は俳句も短歌も詩もいっしょくたでかまわないという気持ちになっています。自分では俳句や短歌は書けないですが。
――――俳句・短歌を日本語のリズムの一種として捉えればいいということですか。
俊太郎 でも俳句・短歌と詩は世界が違うからね。俳句・短歌は結社の世界でしょう。そこに取り込まれてしまうと抜け出せなくなる。まあほとんどの詩人はそこまで深入りしませんけれどもね。でも自由詩の詩人としては、定型というか、器があるのはうらやましいですね。
■DiVaについて■
――――俊太郎さんと賢作さんのコラボレーションはもう長いですから、僕らはそれを当たり前のように感じ始めています。ただそもそも俊太郎さんの詩がリズムを内在しているから、音楽にしやすいという面があるんじゃないでしょうか。
賢作 事実を言うと、僕らはなんの文学的議論もなく、ただ単にコラボレーションを始めたんです(笑)。後のDiVaの活動のベースになる、俊太郎の詩に曲を付けるという試みは、当時池袋西武にあったスタジオ二〇〇の企画が最初でした。一九八三年か八四年頃で、詩人の八木忠栄さんなどの企画です。それはそれでいったん終わって、十年くらいしてから、あんなことやってたねって感じで思い出して、仲間のベーシストの大坪寛彦君にまず声をかけて、誰か歌える人を知らないかって感じでボーカルの高瀬麻里子さんを紹介してもらったんです。そんな感じでDiVaの三人が集まったんです。で、なぜ俊太郎とのコラボを本格的に始めることになったかっていうと、地方の要所要所に友達がいるわけです。コンサート・イベンター、いわゆる企画屋さんですね。彼らが『お前のグループが来ると、二十人くらいのライブハウスはいっぱいになるけど、お父さんを連れてくれば、三百、四百人のキャパの小屋に行けるし、俺もお前も儲かる。だからちょっと客寄せパンダとして、お父さんを連れてきてくれないか』って言うわけです(笑)。それもそうだなって感じでやることにして、俊太郎との曲作りだけでなく、コンサートでのコラボも本格化したんです。
DiVaの演奏風景。右・高瀬麻里子氏、左・谷川賢作氏
DVD『詩人谷川俊太郎』(紀伊国屋書店刊)より
――――賢作さんは元々はジャズプレイヤーですよね。
賢作 小学校時代にクラッシックピアノを習って、自ら勉強しようという時にジャズを選択したわけです。でもそんなにカッコイイものでもないし、スッキリとした道筋でもないですよ(笑)。今なら系統立って勉強する方法はいくらでもあるんですが、当時はジャズの基本はバークリーで、僕の師匠の佐藤允彦が持って帰ったバークリー・メソッドっていうやつでジャズを勉強しました。
――――DiVaの結成はいつ頃ですか。
賢作 一九九六年ということにしています。メディアのみなさんはすごく年代・年齢を気にされて、生年月日から始まって、いつ何をしたのかにすごくうるさいですよね(笑)。だからDiVaは九六年結成、僕自身は八六年に映画『鹿鳴館』で作曲家デビューしたということにしています。でも実際はグチャグチャですよ。依頼された仕事をしているうちにデビューしていたという感じです。ある曲をジャズ風に弾いてくれとかね。作曲か演奏かの仕事を問わず、いつのまにか仕事を始めていたんです。
俊太郎 われわれ二人が一緒に仕事したのは、もしかすると校歌が最初かもしれないね。
賢作 そうですね。
俊太郎 校歌の歌詞を作る時に、クライアントに作曲家は決まっていますかと聞くと、まだ決まってないことがあるんです。それじゃあうちの息子が作曲をやるんでってことで、一緒に仕事をしたんです(笑)。
――――今、『日本の現代詩の六人 Masters of Modern Japanese Poetry』というCDブックを拝見しているんですが、DiVaのクレジットはないですが、賢作さんと大坪さん、高瀬さんのDiVaのメンバーがレコーディングに参加されていますね。
CDブック『日本現代詩の六人 Masters of Modern Japanee Poetry』 1999年 The Morris-Lee Publishing Group刊
辻征夫、永瀬清子、谷川俊太郎、石垣りん、まどみちお、伊藤比呂美の日本を代表する6人の現代詩人の朗読(日本語と英語)を収録している。演奏はDiVa(谷川賢作、大坪寛彦、高瀬麻里子)
賢作 それは一九九九年の発売です。アメリカでもレコーディングしました。
――――DiVaはかなりテクニックがあるバンドだと思いますが、賢作さん以外の方たちはどういったミュージシャンなんでしょう。
賢作 ベースの大坪君は、ジャズバーのラウンジで演奏していた仲間の一人です。日本はジャズミュージシャンのユニオンがないんで、フリーランスのミュージシャンがいろんなところに散らばって演奏しているんです。ただ僕はそういう現場を離れちゃったんで、今の現状はわかりません。ボーカルの高瀬さんは、いわゆるジャズの〝夜店〟出身じゃないんです。劇団四季出身です。
――――ああなるほど。それであんなに表現力があるんだ。
賢作 彼女のボーカルは、すごくよくなってきていると思います。
――――全部聞かせていただいているわけではないんですが、俊太郎さんの詩を曲にしたもので、アップテンポはあるんですか。
賢作 アップテンポはあまりないです。バラードが多い。
――――紀伊国屋書店から刊行された『詩人谷川俊太郎』というDVDに、俊太郎さんとDiVaの皆さんが出演されています。あれを拝見すると、俊太郎さんはうれしそうですね。ご自分の詩が音楽化されるのが心地よさそうです(笑)。
DVD『詩人谷川俊太郎』
紀伊國屋書店 2012年7月刊
俊太郎 僕は元々、詩より音楽の方が大事な人間ですから。自分が書いた詩が歌になるのは基本的に嬉しいです。
賢作 でも作曲する方としては、途方に暮れちゃうこともあります。曲を付けるのが難しいという意味ではなく、僕以外の作曲家の方も、おおぜい俊太郎の詩に曲を付けておられる。俊太郎詩に曲を付けたジャスラックのプリントアウトをまとめると、膨大な量になりますもの。同じ詩に、五人も六人も作曲家が曲を書いておられることもある。
俊太郎 合唱曲が多いよね。合唱曲は譜面が売れるんです。だから作曲家は金がないと合唱曲を盛んに書いたりする(笑)。それで増えちゃうんです。
賢作 今は譜面が売れない時代だから、一概にそうとも言えないけどね。これは最近音楽の友社から出版された、僕の譜面集なんです。『歌に恋して』という、俊太郎の詩に曲を付けたものです。合唱曲ではないですよ(笑)。
――――賢作さんも玉川学園高校をお出になられて、そのまま音楽家になられたんですよね。谷川家には学校は高校で十分という家風があるんでしょうか(笑)。
俊太郎 賢作の娘もそうなんです。
賢作 うちの娘は高校三年の二学期に学校をやめましたね(笑)。私淑したい師匠がいるので、今からすぐそこに弟子入りするって言ってね。
――――それはもう遺伝だなぁ。おじい様が高校卒だから、もうそれでいいんだと。じゃあ学歴が一番高いのは、夜間ではなく昼間の高校を卒業された賢作さんですか(笑)。
俊太郎 いや、賢作の妹が一番高いです。大学を出ていますから。でも彼女の娘が今、おじいちゃんは学校嫌いだったから、自分も行かないってごねてるらしいです(笑)。
――――曲が先にあって後から詩を付けるって方法を取られたことはないんでしょうか。
賢作 二回ほどやってみましたが、うまくいきませんでしたね。
――――先に詩があった方が楽ですか。
賢作 はい。ちょっと冒頭の話に戻りますが、俊太郎は八十歳を超えてまだ詩を量産していて、それはすごいというお話でしたが、やっぱり注文がないと作品って書かないものでしょう。僕の仕事もそうですが、仕事には需給のバランスってものがあるんじゃないかな。
俊太郎 ところが最近、僕は詩がおもしろくてね。注文がないのに二十篇くらい書いています。詩を書くのが一番おもしろい。年を取ってくると、ほかにおもしろいことがなくなっちゃったんですね。
――――それはすごいなぁ。創作者にとっての理想です。若い頃、作品を量産できるのもいいですが、作家にとって一番幸せなのは、年を取って体力も気力も衰えがちになってきた時に、作品がどんどん書けることです。
賢作 書いた詩はやっぱり、誰かに読んでほしいものなのかな。
俊太郎 それもあるけど、ナナロク社をもりたてたいわけ。村井光男さんがやっておられる小さい出版社だけどね。詩はナナロクのために書いているところがあります。山田馨さんがインタビュアーになって、『ぼくはこうやって詩を書いてきた─谷川俊太郎、詩と人生を語る─』という部厚い本を出してくれた出版社です。
――――賢作さんの譜面集『歌に恋して』ですが、これはピアノ伴奏がきちんと音符になっていますよね。
『谷川俊太郎&谷川賢作ソングブック』(谷川俊太郎詩・谷川賢作作曲)
A4版・83ページ
音楽の友社 2013年2月刊
賢作 ええそうです。手書きの楽譜を出版用にキレイにして印刷したものです。ただ僕の場合、ピアノ譜にする必要は本当はないんです。でもコードネームだけでは弾けない人が大半なんで、音楽之友社の要望でピアノ伴奏をしっかり書きました。もし僕の音楽を正確に表現したい方がいらしたら、僕の弾いたものを耳でコピーしていただいた方がいいかもしれません。『歌に恋して』は、こういう形もありだという形のピアノ譜ですね。
――――賢作さんのバンドはDiVaだけですか。
賢作 DiVaとパリャーソですね。その二つが大きな柱としてあります。
――――賢作さんの演奏を聞いていると、ピアノがしゃべっているように感じることがあります。ピアノは複雑な楽器ですが、その音は非常にプリミティブです。言葉とピアノは非常に相性がいいと思うんですが。
賢作 僕は俊太郎との朗読と音楽のコラボライブの時、七対三、八対二くらいの割合で、言葉と音楽のバランスを取っているつもりなんです。音楽は決して出しゃばらない。気がついたらうすく鳴っていたというような。そうやると、無音の状態よりも、言葉がスッと入ってくるように感じることがありますね。
俊太郎 小澤征爾さんがオーケストラを指揮しておられる現場にいたことがあるんだけど、ある場面にくると、『ここ、言葉がほしいんだ、言葉がほしいんだよ』っておっしゃっていました。音楽の中には、確かに言葉をほしがるような要素があるんです。完全に文章になっていなくても、なにか意味があるような言葉がほしくなるんですね。
――――言葉と音の関係は微妙ですよね。単純な話ですが、同じ歌を歌っても、この人は説得力がある、なにか他の人とは違うということがよく起きるわけですから。
賢作 僕にとって歌とインストルメンタルは、まったく別のものです。英語でもフランス語の歌でも、いいなって思うことはありますけど、意味がリアルタイムで届かない時は、歌詞カードを読まなきゃならない。でも日本語の歌は、やはり音と言葉が同時に聴衆に届くことを考えます。
――――そのあたりは、親子だからやりやすい面はあるでしょう。
俊太郎 賢作との仕事は気楽ではありますね。
賢作 そうですね。感覚が合うとは思います。
■死について■
――――金魚屋では少し前に俳優の寺田農さんにインタビューさせていただきました。彼は洋画家の政明画伯の息子で、『画家の息子ってどうですか』という質問をさせていただいたら、『いつも家にオヤジがいるのでイヤだった』という意味のことをおっしゃっていました。賢作さんは、俊太郎さんの息子であることをどうお感じですか(笑)。
賢作 それはイヤになっちゃうことだってありますよ(笑)。世間は当然、俊太郎の息子という目で見るわけですから。でも年を取るとともに、だんだんどうでもよくなっている感じです(笑)。得をすることだってあるわけですから。
――――子供の頃とは変わってきますものね。では今の俊太郎さんをどうごらんになっていますか。
賢作 そうですねぇ。死に方を心配してます(笑)。やっぱり病院でっていうのは、さみしいじゃないですか。この間、大岡信さんの通信で画家の宇佐美圭司さんがお亡くなりになる様子を読んだんですが、能登半島の素晴らしい施設で、死ぬ姿勢を取って、奥様に見守られながら逝かれたそうです。(俊太郎さんに向かって)誰にどう看取られたいですか。
俊太郎 誰も看取る暇がなく死ねるのが一番いいよ。
賢作 (祖父の)徹三さんがそういう感じでしたね。気がついたら亡くなっていた。
俊太郎 そうそう。死ぬ前日にパーティに出てたんだよね。それで帰ってきてお風呂に入って、ちょっとお腹こわしたって言って下痢して、それで『寝るよ』って言って寝て、朝になったら死んでた。自分で身体もキレイにして亡くなったわけです。
賢作 苦しそうじゃなかったよね。
俊太郎 うん、ぜんぜんそんな感じはなかった。一瞬で逝っちゃったんじゃないかな。すごい子供孝行ですよね。だから父親のような死に方が理想です。誰にも迷惑をかけず、誰も気がつかないうちに死んでいるっていうのが。
■マルチメディア化について■
――――DiVaの最新アルバムは『詩は歌に恋する─DiVa Best』ですか。
『詩は歌に恋をする-DiVa BEST』
2009 COLUMBIA MUSIC ENTERTAINMENT,INC
全14曲(朗読を含む)を収録
歌に恋して/スーラの点描画のなかでのように/ひとり/かわらからきた おさかな/セミ/ほほえみ/夢の中にだけ/夜はやさしい/ラブレター/土曜日の朝/どうしていつも/さようなら/歌われて
賢作 そうです。ベスト盤で、二〇〇九年に出たものです。今年の七月には新しいアルバムが出るので、今その準備をしています。
――――DiVaの音作りは非常にクオリティが高いと思います。それはアルバムを聞けば誰にでもわかると思います。俊太郎さんはかなり早い時期からマルチメディアへの関心がおありだったから、DiVaとの共演はなかば必然的だったのではないですか。
俊太郎 マルチメディア化っていうより、とにかく現代詩の読者が少ないから、あの手この手で読んでもらおうと考えていました。
賢作 現代詩って言葉を使うのはちょっとずるいんじゃないかな。谷川俊太郎の詩を読んで欲しかったとか(笑)。
俊太郎 いや、僕はそんな意識はなかったんだよ(笑)。昔、左翼系の雑誌で『列島』ってのがあったでしょう。あそこにいた関根弘さんとかがけっこうなアイデアマンで、あの頃からコップに詩を書いたりしていたんです。自分をどう売り出したいかではなくて、もうちょっと読者を広げたいって気持ちが詩を書き始めた頃からありました。でも、一般読者に理解できる詩が少ないんで、どうしても僕の詩が少し目立っちゃったってことだと思いますよ。
――――詩画集『旅』の前にも、詩集に写真を入れたりしておられますよね。
俊太郎 昭和三十一年(一九五六年)に出版した『絵本』という私家版の詩集ね。僕は現代詩が孤立するのがイヤで、いろんなジャンルの作家とコラボレーションしたいという気持ちが最初からあった。それは実験工房なんかの影響ですね。実験工房は同時代ですから。
――――ああ、実験工房ですか。武満徹さんなんかと。
俊太郎 ええ。家族ぐるみの付き合いは少ないんですが、武満はそういった数少ない友達の一人でした。これは去年、二〇一二年に出た『Sprechendes Wasser 話す水』という詩集です。スイスのユルク・ハルターという詩人と、メールの往復で対詩をやったものをまとめた本です。凝った造本でしょう。二つ折りにしたページの表と裏に詩が印刷してあって、中に写真が印刷してある。ページを切っちゃいけないらしいので、中を覗き込むようにしないと写真は見えないんですけどね(笑)。こんな本を作ってくれるとは思ってなかったから、本当にびっくりしました。
連詩『Sprechendes Wasser 話す水』
ユルク・ハルター×谷川俊太郎
2012年刊
連詩『Sprechendes Wasser 話す水』の造本
――――おもしろいですね。俊太郎さんは活字に対しては冷たいんですが、美術とか音楽に対しては非常に暖かい(笑)。
俊太郎 それじゃあなんか裏切り者みたいじゃないか(笑)。
■ポピュラリティについて■
賢作 ちょっと話を戻しますが、現代でなくてもいいんですが、わかりやすくポップで一般受けする詩を書きたいと思っている詩人は、すぐに十人くらいリストアップできないものなんでしょうか(笑)。
――――できないですね(笑)。銀色夏生さんなんかはよく読まれていますが、いわゆる現代詩人で彼女の作品を評価する方は少ないでしょうね。じゃあ現代詩人に認知されていて、かつある程度一般読者を獲得できる詩人がいるかというと、少ないなぁ。辻征夫さん、天野忠さんなどは一定の読者を抱えておられると思います。他にも黒田三郎や中桐雅夫、吉野弘さんなどの抒情詩人の名前をあげることもできるんですが、いかんせん作品数が少ない。
賢作 なんでこんな話をしたかというと、ポピュラリティってヤツはけっこう手強いと思うからなんです。演奏旅行の中には、いわゆる慰問もあって、オリジナル曲なんかもやるんです。お年寄りの皆さんは基本的に喜んでくださる。あまり好きな言葉ではないですが、『すごく癒されました』とか言ってくださってね。でも本当に聞きたいのは演歌だったりするわけです(笑)。だから演歌の伴奏をしてあげると、無用な気づかいをかなぐり捨てて、心から喜んでくださる。で、何が言いたいのかというと(笑)、自分の無力さということも言いたいんだけど、みな誰でもが歌える有名曲、いわゆるスタンダードナンバーというものは、もう出尽くしている気がする。これ以上の新曲がいらないってことはないだろうけど、そういったスタンダードナンバーの牙城は切り崩せないような気がします。
俊太郎 住み分けでいいんじゃないの。俺はこっちがいいけど、あれもいいねっていう形で、いろんな好みの住み分けをすればいいんじゃないかな。
DiVaの演奏で『百三歳になったアトム』を朗読する谷川俊太郎氏
DVD『詩人谷川俊太郎』(紀伊国屋書店刊)より
――――でも音楽にはものすごい力があると思いますよ。紀伊国屋のDVD『詩人谷川俊太郎』のエンディングは『鉄腕アトム』です。まず賢作さんが、ピアノでアニメ主題歌の『鉄腕アトム』のイントロをお弾きになる。それだけで会場の空気がガラリと変わる。で、俊太郎さんが作品『百三歳になったアトム』を朗読されてから、賢作さんの伴奏で照れながらアニメ主題歌『鉄腕アトム』をお歌いになる。あれは音楽がなければ、ピアノの音がなければできないんじゃないかと思いました。それに『百三歳になったアトム』は詩集『夜のミッキー・マウス』(平成十五年[二〇〇三年])所収ですが、俊太郎さんの新しい書き方、詩の世界が感じられる素晴らしい本です。自己言及的な詩法もお使いになるようになった。
賢作 これだけ俊太郎と一緒に仕事をしてると、メディアによるブランド化のようなものが起こっちゃうんですね。現代詩を音楽に乗せて歌う、朗読とインストルメンタルを織り交ぜてコンサートをするというのは、なにかありがたいものだ、オシャレなものだといった感じでレッテルを貼られてしまう(笑)。でももう少し素直というか、ありのままに受け止めてほしいですよね。インタビューを受けていても、俊太郎の詩は『生きる』以外は読んでいなかったり、僕の音楽もちゃんと聴いてもらっていないこともありますから(笑)。
俊太郎 僕も音楽をやっている女の子に、『へー、俊太郎さんって、詩も書いてるんだ』と言われたことがあるよ(笑)。
――――俊太郎さんは、CD-ROMで全詩集を出されていますね。あれは紙では出版しないということですか。
俊太郎 そうです。僕は嵩高い本がイヤなんです。造本としても、詩は軽い本がいいんです。
――――じゃあもし俊太郎さんがお亡くなりになった後に、全集を出すっていう話になったらどうなさるんですか(笑)。
俊太郎 それは賢作にまかせます。出したきゃ出せばいい(笑)。でもできればクラウドに上げておいてほしいですね。
――――著作権が守れませんよ(笑)。
俊太郎 そこが問題なんだな。お金が欲しいわけじゃないけど、そういうことをすると必ず悪用する人が出るからね。どうやって課金するか、あるいは権利を全面的に放棄するか、そこのところは難しい問題だね(笑)。
谷川俊太郎氏と文学金魚で『文学とセクシュアリティ』を連載中の小原眞紀子氏
■解釈について■
――――でも確かに紙にすると、ものすごい量になってしまうくらい、俊太郎さんは詩を書いておられる。賢作さんも働き者という点では俊太郎さんと同じですよね。今、どのくらいコンサートを開いておられますか。
賢作 二〇〇八、九年あたりは、年間二百本近いところまで行っていました。震災後は少し抑え気味になっていますので、今は百五十本くらいじゃないかな。でも月平均で、十本はコンサートとライブをやっています。
――――すごいですね。やはり量はすごく大事だと思います。極端な言い方ですが、俊太郎さんは、あれだけの質の詩を、あれだけの量書いておられるわけだから、それは有名にもなります(笑)。一冊いい詩集があるだけではダメですね。ダーッと詩集があって、その中でたまたま一篇好きな詩があって、読者は初めてその詩人の名前を覚えるわけですから。
俊太郎 ホント、そうですね。
――――ただ詩に限らず、文学界全体の知的レベルは下がりましたね。昔はよかったと言うつもりはないですし、昔も今も詩では食えないことに変わりはないんですが、現在は芥川賞作家でも原稿で食っていけないような時代です。優秀な人材が、もっとお金が儲かる文学以外のジャンルに流出している気配はあります。
俊太郎 詩の世界ではそういうことが起こっている感じがありますね。小説はちゃんと読んでいるわけではないですが、新聞広告を見ているだけでも、これはどうなっちゃってるんだろうと思うことはあります(笑)。
――――音楽のレベルは文学界よりも上がっているんじゃないですか。
賢作 演奏はスポーツですからねぇ。昔に比べれば、演奏技術は驚くほど上がっています。若い世代はものすごく上手く弾けるんですけど、音楽の深さでは、やっぱりある程度年を取っていかないといい音が出ないって面があると思います。
――――ただ悪いことばかりじゃなくて、今は現代詩を含めて、既存の縛りと言いますか、枠組みが崩れてしまった時代です。それによって、各ジャンルでベースになるものが見えやすくなっているという面があると思います。俊太郎さんの詩が魅力的なのは、いわば〝最初の一音〟があるからじゃないでしょうか。普通の散文を行切りすると、なんとなく詩的なものが芽生える。それを詩人たちは詩学とか詩法に論理化しようとするわけですが、厳密には不可能です。でも俊太郎さんの詩には、最初期から現在まで一貫して、〝最初の一音〟を鳴らそうという姿勢がある。それが俊太郎さんの詩の初々しさかもしれない。
俊太郎 それは定時制の高校を出た者の強みですよ。学歴がないからできるんだ(笑)。
――――でも一方で、世間には詩を特定の意味で捉えようという姿勢が根強いですね。俊太郎さんの詩に『かっぱ』(『ことばあそびうた』昭和四十八年[一九七三年]所収)があります。短いので全部引用すると『かっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた/かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった』という、意味より音感を楽しむ詩です。インターネットを見ていたら、ある幼稚園でこれを園児たちに歌わせていました。一種の教育カリキュラムも書いてありました。まず楽しんで読んでみよう、次にどこで切れるのか考えてみようという順番ですね。それで最後に『正解はこれです』と書いてあった(笑)。正解はない、あるいはあってもなくてもいい詩のはずなんですが。
俊太郎 おもしろいね(笑)。
――――詩の解釈の多様性の問題でもあり、一概にそれが悪いという意味ではないんですけどね。『ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない/どこへいくのかわからないけど(中略)/ひとりでいかなきゃなんない』で始まる『さようなら』(『はだか』昭和六十三年[一九八八年]所収)という詩があります。確か紀伊国屋のDVDだったと思いますが、あれを演奏した後に、ある女性が最近子供を亡くしたので、この曲が心に沁みましたとおっしゃったというエピソードが紹介されていました。そういう辛い出来事があれば、確かに悲しみをこの詩に重ねることができると思います。でも創作者なら、実際に子供を亡くしたらはっきりそう書くでしょうから、この詩は男の子の通過儀礼的な心情を表現したものだと解釈するのが妥当だと思います。男の子はある時点で『ぼくもういかなきゃなんない』と思うわけですが、じゃあどこかに行ってしまうのかと言うと、やっぱりご飯を食べに家に帰ってくる(笑)。ただ様々に解釈可能だからこの詩には魅力があるわけで、そういった多様な解釈を禁じたら、詩の魅力は半減してしまうでしょうね。
賢作 詩を読む人の中に、解釈癖があるのは確かだと思いますね。でもあれはさみしい曲というより、素朴な歌に仕上がっていると思います。高瀬さんが歌うとすごく力づけられる感じがする。それは声の力ですね。声自体が編曲になっています。それも詩の自由な解釈の一つかな。
――――ええ、名曲だと思います。耳に残りますもの。なにかのきっかけで大ヒットしそうな曲ですよ。七月に発売されるDiVaの新譜が楽しみです。今日は長時間ありがとうございました。
(2013/03/26 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■DiVa 『土曜日の朝』 詩・谷川俊太郎 曲・谷川賢作■
http://youtu.be/GNvrJ4vJkmM
■DiVa『うたがうまれる』■
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■