特集に「歌舞伎」。市川團十郎と京極夏彦との対談で、團十郎の元気いっぱいの写真に、一瞬「?」。なにしろ雑誌が「怪」だから、なんでもありか、と錯覚してしまった。2001年の対談の採録だそうである。
とても面白い対談で、これが作家同士だったりすると、こうはいかないと思う。対談というのはどうあるべきか、のお手本に近い。
そもそも対談というのは、なんのためにやるかと言えば、丁々発止であったり、その場の勢いやら盛り上がりやらをそのまま空気として伝えたりするためのものだろう。それがどうも、普段から原稿を仕上げるのが仕事の物書きが集まったのでは、やたらとゲラに赤が入るわ、それ以前に話が単なる話に過ぎないわで、まとめることだけを念頭に置かれた手抜き原稿と変わらなくなることが多い。
一昔前は、物書きというのは無頼で、酒でも入ればその場の流れでとんでもない、しかし記憶に残るような名文句を吐いたものなのだ。物書きが小粒になっていったのか、なにやら互いにもごもご言ってはうなづき合い、認め合っているだけのものが多い最近では、それはわざわざコストをかけてテープ起こしされた「おしゃべり」でしかない。
12年も前の対談が面白いのは、しかしここでは人間の大きさといったことではなくて、團十郎の示す肉体性にある。物書きの、言葉の上の理解というものを矮小化してみせるほどの、それは肉体性である。
舞台に上がる役者というものの、人を逸らさぬサービス精神というものもある。対談やインタビューなどは取材する側にしてみれば素材次第、これほどありがたくて楽な人選はない。もっとも俳優や女優ならいいというものではなく、むしろ決められたセリフをしゃべるだけが仕事だと思っている手合いでは、言えてもせいぜい型通りのことだ。
演じるに際して、必死で考えなくてはならない、それも肉体を通して考えなくてはならない者であれば、その言葉も肉体性を帯び、すなわち説得力を持つようになる。対談といったものは、それが伝わりやすい形式のはずなのである。
犬と猫と、それに狐の所作の違いを、その場で演ってのける姿は読者は見ることはできない。が、おお、と感心する相手の反応が伝われば、それを通して読者も見ることになる。そこで話された言葉がすべて生き生きとして届くことになるから、カメラが廻っている必要はないのである。
「怪」という雑誌にとってきわめて貴重な、それがゆえに12年前の対談を誰かが記憶し、引っ張り出してきたのだとわかるくだりは、お化けと幽霊の違いについて、團十郎がその所作からみごとに説明してみせたところだ。机上、紙上のあらゆる論議も定義も、これには吹っ飛んでしまうだろう。読者を代表して、京極夏彦が膝を叩く。その瞬間は記憶に残り、ごくジャーナリスティックな代物である対談が、何年か先にもまた引っ張り出されるものになり得る。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■