京都国際マンガミュージアムで開催中の「寺田克也 ココ10年展」にあわせた特集が組まれている。加藤直之との対談のタイトルは「見たことのない風景のために」。
確かに SF はまだ見ぬ未来を描くのが本筋で、そこへ臨場感やリアリティを添えるのにイラストは欠かせない要素である。その辺りのことは、S-F マガジンの前出のレビューでも考察した。で、と言うか、しかしと言うか、そのルーツを辿ることで、SF カルチャーの系譜とか根源がちょっと覗けるような気がする。
つまりこの SF と組み合わされるイラストというのは、どうしてこんなにパターン化されているのか、ということだ。パターン化がよくない、退屈だ、という以前に、そうである理由に純粋に興味を惹かれる。
一口に言えば劇画調なのだが、ようするに SF というのは、マンガと近親性があるのだろうか。しかしいわゆる SF 的な近未来を舞台としたマンガというのは、古典的には「鉄腕アトム」など、幼児から少年に向けられたものがイメージされる。S 字型の肉体を持つ女性の姿が不可欠であるような劇画タッチに、あまり必然性は感じられない。
考えられる理由としては、やはりアメリカン・カルチャーとしての SF という出自を示し続けている、ということはあるかもしれない。特に日本では根無し草である SF には、そうすることで読者とのある確認が行われている可能性はある。
一方で、このルーツというのは存外に日本画にあるのでは、と言う人もいる。高畠華宵のモダン、あるいは高畠華宵に影響を与えたアールヌーボーという、ヨーロッパを経た日本画辺りと響き合う、とも。
それは単純に、アメコミを持ってきたといった話よりもずっと魅力的だ。マンガチックなものと見間違わせ、マンガの読者に接近することで売上げを伸ばす、といった実際上の計算なりメリットなりがある、という説明もできるとしても、はて、マンガ読者というのはそんなに間抜けなものなのか、と首を傾げる。
マンガの読者が SF に手を伸ばしてくれたからといって、マンガと見間違えたとはかぎるまい。別のものとしての面白味を感知した、と考える方が納得がいく。そもそも日本のマンガも繊細かつ精緻なもので、大味なアメコミとは比較にならない。
日本における SF とは、それ自体が微妙に位置付けされている。いつもネタを探しているマンガというジャンルも、また行き詰まり久しい純文学ジャンルも、ときおり SF に接近しては、その雰囲気や設定だけを持っていくばかりだ。微妙な立場で揺れ続ける SF が、マンガ化あるいは純文学化に本気で救いを見出したことがかつてあったとは思えない。
SF とは、もっとラディカルで、もっと絶望すべきジャンルだ。明治から大正期、日本画がモダンにさらされたときの息吹を、もしイラストが SF に添えようとしているのなら、それは日本における SF というものの定義にとっても本質的なことだと思う。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■