『台北の朝、僕は恋をする』Au Revoir Taipei 2009年(台湾)
監督・脚本:アーヴィン・チェン
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース、メイリーン・チュウ
キャスト:
ジャック・ヤオ
アンバー・クォ
ジョセフ・チャン
クー・ユールン
カオ・リンフェン
上映時間:85分
パリに留学したガール・フレンドを想う青年カイ(ジャック・ヤオ)。彼は彼女の元に向かう準備として、いつも本屋でフランス語の学習書を読みあさっていた。本屋の店員であるスージー(アンバー・クォ)はカイに一目惚れするが、声をかけるのが精一杯。スージーの恋心も知らず、恋人から別れを告げられたカイは単身パリに向かうために資金集めとして謎の小包を運ぶ仕事をすることになった。だがひょんなことからヤクザと刑事の両方から追われるはめになってしまう。そんな時、夜市で偶然にもスージーと出会うが、運悪くヤクザたちにも出会ってしまい、カイとスージーは二人っきりで台北の街を逃げ惑うことになる。それは危険な初デートの始まりだった。
単純明快で通俗的なドタバタのロマンス・コメディ(いわゆるラブコメ)は、これまでハリウッドや日本のテレビドラマで散々描かれてきた。もしかしたら、ある一部のシネフィルから言わせれば、ロマンス映画は扇情的でメロディばかりを多用したスター中心の大衆映画であって、映画ならではとも言える視覚的な心理表現が希薄であると信じられているかもしれない。たしかにロマンス映画でしばしば重要視されるのはスターやプロット、洒落た会話劇といった要素であることは間違いないだろう。現に本作もまたアンバー・クォという台湾の国民的アイドルを起用しており、ロマンス映画の定説に乗っ取った大衆映画の一つである。だが本作は他のロマンス映画よりも視覚的な表現性に富み、「言葉」ではなく、映像で恋心という難解で矛盾だらけの現実的心理を表現していたように思える。
そこには肉体的性的な愛情表現も「好きだ、バカ!」といった台詞もなく、静かなる沈黙とカメラのフレームによって恋心を表現してしまう巧み技がある。それは台湾ニューシネマの代表的な映画作家エドワード・ヤンに師事し、自ら脚本・監督を務めたアーヴィン・チェンの力量だろうか。その点を探っていき、本作『台北の朝、僕は恋をする』の巧妙な表現性とロマンス映画の可能性に迫っていきたい。まずは台湾ニューシネマとは何か、という問題から考えていくとしよう。
■ポスト台湾ニューシネマ■
そもそも台湾ニューシネマとは、80年代から90年代にかけて台湾政府が自国の映画の芸術性およびトランスナショナル・シネマとしての可能性を広げるために起こした国家的映画改革によって登場した台湾映画のことを指している。だが事実的に台湾ニューシネマは、ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンらが中心となって従来の商業主義映画に反発することによって隆盛した国家的映画運動であり、映画改革に共鳴した映画作家たちの功績が大きいように思われる。
また、ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンといった台湾ニューシネマを代表する映画作家は、台詞を意図的に排除し、長回しやロング・ショットを多用、庶民や都市生活者の日常生活を舞台とし、劇的な変化やクライマックスを意図的に抑えるといった演出を特徴としていた。ホウ・シャオシェンの『冬冬の夏休み』(84)『悲情城市』(89)やエドワード・ヤンの『恐怖分子』(86)が代表的な作品として挙げられるだろう。
そして00年代に入るとニューシネマの先駆的作家たちに影響を受けた若手の映画作家たちが登場し始めた。ポスト台湾ニューシネマの代表作である『藍色夏恋』(02)や『海角七号/君想う、国境の南』(08)など世界的に評価の高いロマンス映画を次々と生みだしている台湾は、アジアで最も質の高いロマンス映画を創る国であると言っても過言ではない。本作のアーヴィン・チェン監督もエドワード・ヤンに師事していたポスト台湾ニューシネマ監督の一人として位置付けられるだろう。事実、00年代の若手作家たちの作品には、明らかな台湾ニューシネマの影響を見て取ることができる。恋愛特有の感情が演劇やテレビのように「言葉」で表現されるのではなく、映像によって、繊細に、静的に、それでいて暗喩的に表現されることが多く、その手のロマンス映画は、日本のロマンス映画の質を遥かに凌駕していると言ってよい。
本作『台北の朝、僕は恋をする』は、若い男女の恋心を一夜限りの冒険の中で、決定的な愛の告白や下心を表す台詞なしに、ただ互いの距離感や映画のフレームによって表現した作品である。例えば屋台が並ぶ夜市で、偶然にも主人公カイがスージーと出会い、二人っきりで屋台に並ぶシーン。当たり障りのない会話をしている二人の後ろ姿をバスト・ショットで映し出すと、次は正面から映し、再び背後からカメラは映し出す。彼らの心理を大げさに見せるのではなく、余計なクロース・アップや心理描写を排除し、省略することによって、スージーが平静を装って話している曖昧な心理関係を見事に切り取っていた。そこにはハリウッド映画に見られるユーモアに溢れる会話劇もなければ、恋心をほのめかしたりする台詞もない。ただジャズの即興的なリズム音が奏でられながら彼女達の心理がその空気と共に表現されていく。とりわけ台湾の夜の風景の特徴でもある「暗黒」と「ネオン・サイン」を背景にした世界観が魅惑的だ。
夜の暗黒とネオン・サインが、まるで彼女達だけの世界であるように、その場を包み込んでいく。幻想的で哀愁的な台北の雰囲気は、台湾映画のロマンス映画における一つの強みであり、ハリウッドや日本では到底演出することはできない世界観と言えるだろう。しかしながら静的で、美的、時折見せる楽しげな雰囲気、それでいて曖昧な心理表現は、ロマンス映画にとっては少々異質かもしれない。実際に本作では、従来のハリウッド映画がキスをする場面、あるいは日本映画で片想いの相手を走って追いかけて告白するようなロマンス・シーンを、全く別のやり方で見せていた。それが一夜限りの冒険を終えた台北の夜明け前のシークエンスである。
■恋心の表現■
2人っきりで過ごした一夜限りの冒険が終わる。男性主人公のカイがパリにいる元恋人に会いに行くために空港行きのタクシーに乗り込む。見送るスージー。何も言えないスージー。黙って見送って、立ちつくしているだけのスージー。ひと時の冒険。車内で微かに微笑む男の子。スージーは微笑んで、少し俯くとタクシーの反対方向へと情けなく、すんなりと歩きだす。哀愁的なバイオリオンのメロディが恋愛を簡易的な空気で包み込み、決して大げさで劇的なものとして捉えようとはしない。
通俗的な日本のロマンス映画やテレビドラマであれば、このシーンで女の子が告白するか、男の子が途中でタクシーを降り、女の子の元へと全力疾走するだろう。ハリウッド映画では全力疾走の行く末に熱烈な抱擁とキスを長々と見せるかもしれない。なぜなら、それがロマンス映画の慣例であるからだ。
好きだったら告白する。好きだったら走って追いかける。ロマンス映画では主人公が頻繁に走り、恋に燃えている姿をファンタジックに見せつけていたが、本作は恋を劇的化せず、あくまで現実主義的な言動によってスージーの片想いの心理を表現していたように思える。好きでも告白せず、情けなく帰宅するスージーの姿は、矛盾した恋心を何よりも的確に表現していたと思うのは私だけだろうか。またスージーの情けなく帰宅した後に飲み干す一杯の水には、彼女のちょっとばかし頑張った恋の功労が表現されていたように思えてならない。
ロマンスを劇的化し理想実現のファンタジーとして描くのではなく、ロマンス映画というジャンルの約束事に従いながらも、あくまで恋を繊細で矛盾だらけの心理として活写していく本作は、その現実的で静的な表現性において、ロマンス映画というジャンルの約束事に従った人間ドラマと言うべきかもしれない。又、本作の心理表現は常に画面を注視しながら鑑賞するという映画の前提を利用した表現性であり、脚本上では彼女たちの心理がほとんど掴むことができない心理表現、すなわち映画館で上映されて初めて認識することができる心理表現と言えるだろう。とりわけ本作のラストシーンは、まさに台湾ニューシネマ的な恋の表現の集大成ともいうべきシークエンスであった。
タクシーで離ればなれになったカイとスージー。いつものようにスージーは本屋の店員としてアルバイトをしている。そこに現れるカイ。彼が離れた距離でスージーに声をかける。そのことにスージーは気付くが、目を合わせようとしない。むしろ無表情でその場から去っていこうとする。本棚を挟んで平行して歩いていくと彼女は微笑だし、ちらっと横目で確認するが目を合わせようとしない。はにかみながら微笑み、やがて見つめ合う。台詞で気持ちを言うのではなく、強烈なハグとキスで肉体的に表現するのでもなく、一切の台詞なしに、人物の距離感と表情と目線だけで表現してしまうところに恋心表現の巧さがある。
ラストの滑稽な非物語的ダンス・シーンも恋愛賛美と歓びの気持ちをいっぱいに表現した傑作ラストシーンであり、どんな言葉よりも胸を喜ばせてくれるだろう。ポスト台湾ニューシネマが恋を表現したら。その答えは本作を観ればわかること。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■