妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
ちょうど母親もいる。本人、つまり元・塾経営者の父親は不在だけれどその方が好都合かもしれない。この閃きは決して悪くないと思う。唯一気をつけなければいけないのは、やはり話す順番だ。一番目はトダではない。母親だ。
「あのさ」
「?」
「数学、教えられるよね?」
「ああ、お父さんね。そりゃ大丈夫なんじゃない? だって勉強の内容は今も変わらないんでしょ?」
大量のワカメとマイタケのことがあるので不安はゼロではないが、リッちゃんに勉強を教えることで父親は今の状態を脱することができるだろう。少々都合が良すぎるかと尋ねると、トダは「とにかく一度トライしてみればいいさ」と背中を押してくれた。そうと決まれば前進あるのみ。まずリッちゃんが降りてきたら、話をしてみよう。
「お嬢ちゃんも、お勉強教えてもらおうか?」
マイタケを指で突いている永子は、左右に首を傾げるだけだ。まあ、そもそも未就学児童は対象外だろうけど。
慌てて店に降りてきたリッちゃんの反応は「遠慮しつつOK」だった。もちろんその間、店の手伝いは後回し。我が家の方針は学業優先だ。
「そういえば入院のスケジュールは決まったの?」
「あ、いやだ、それを伝えに来たのに」
そんなの電話で、と言いかけたがワカメとマイタケの件もあるし、何より手術を控えた身体でわざわざ来てくれたんだからと呑み込んだ。
「本当はもう少し先の予定だったんだけど、明後日になっちゃったのよ」
「明後日?」
「そうなのよ。お父さんがキャンセル出てないかって病院に何度も連絡してたら、昨日の夜、明後日なら大丈夫って連絡があったのよ」
素人考えだと一日でも早い方が良さそうだが、母親の言いっぷりだとそうでもないらしい。お盆を下げてきたリッちゃんに「もしかしたら明後日から始まるかも」と告げ、兄貴に電話をかけるため外へ出る。当店は通話禁止だ。
「兄貴、明後日から入院って知ってた?」
「うん。教えようかと思ったけど、今日店に行くって言ってたからさ。来てるんだろ?」
聞けばワカメとマイタケの件を知ったのは昨日の夜だという。何となく後ろめたいから相談しなかったんだろ、という兄貴に「だろうね」と同調する。
「あのさ、親父にまた塾の先生やってほしいんだけど、どう思う?」
母親の入院中、リッちゃんに数学を教える、というプランに兄貴は「助かるよ」と言った。
「きっと毎日見舞いに行きたがるだろ? 行きは車で駅までとか送れるけど、帰りはどうしようかと思ってたんだ。俺の仕事との兼ね合いもあるしな。いや、病院を出たあと店に寄ってくれるなら安心だよ」
「で、その後なんだけどさ」
「うん、ちょっと遅くなる日もあるだろうけど、俺が車で迎えに行くよ」
「いや、うちに泊まってもらおうと思ってさ」
「え? でもお前のところ……」
兄貴が心配するように、リッちゃんもいる今、更に親父を加えると少々手狭だ。特に夜は部屋の割り振りを考えないと誰かがはみ出る。でも、それだってたかだか一週間、何なら店で寝たっていい。そう言うと兄貴は「初めてお前を頼もしいと思ったよ」と笑った。一瞬話がまとまったような達成感があったがそうではない。まだ肝心の父親に何も話していないじゃないか。
「今、親父は家にいるんだよね?」
「ああ、さっき電話したらいたよ」
「この話さ、するなら電話じゃない方がいいよね?」
うーん、と長く唸ってから「そうだなあ」と小さな声で兄貴は言った。
「きっと最初は断ると思うんだ。だから説得するのは必要不可欠だろ?」
「だよね」
「説得するなら電話より対面の方が有利だよ。何かあったら俺も駆けつけるし」
店には母親がいる。あの人が帰る時に一緒に出るのが効率的だ。でもなあ、と迷う。この話をするなら、きっと一対一がいい。父親に会いに行くなら今だ。ただ日が暮れ始めている。そろそろトダが帰る頃だ。ここからまた店も忙しくなるだろう。さすがにリッちゃん一人では無理だ。
「おお、大丈夫か」
店からトダが出てきた。まあな、と答えた俺の様子で察するものがあったのだろう。「今日、クローズまでいけるよ」と言ってくれた。
「いや、でも……」
「俺の店はどうにでもなるから気にするな。その代わり、明日の出勤、三十分遅れでいい?」
「一時間遅れで大丈夫」
トダは「サンキュー」と笑った。それはこっちの台詞だ。
両親の家に来るのは、引っ越し祝い以来二度目。駅からだと歩いて十分弱。今の父親なら間違いなく十五分はかかるだろう。そして街灯の間隔が広いせいか道中はかなり暗い。やはり入院期間中は家に泊まってもらおう。そう決意すると同時に、これから帰ってくる母親のことも気にかかる。かろうじてコンビニが一軒あるけれど、それ以外はアパートやマンションばかり。当たり前だけど、今回手術が終わった後も両親はこの道を歩き続ける。あのワカメとマイタケのこともあり、ぼんやりと「介護」の二文字が薄暗い道に浮かび上がる。
俺たち家族が来たから、両親はあの家を出た。年齢のことや店のことを考えるとそれは普通のことかもしれないが、気持ちのどこかに申し訳なさはあって、こういう時にじんわりと疼く。
「おお、何だ何だ、珍しいじゃないか」
突然の息子の来訪を父親はあまり驚かなかった。家用なのか見たことのない眼鏡をかけている。
「あれ、母さんは? 一緒じゃないのか?」
ちょっと相談事があってさ、と言うと初めて驚いたような表情を見せた。まあ上がれよ、と案内されたのは居間。テレビを見ながら爪を切っていたようだ。狭い床の間には、俺や兄貴や姉貴が昔もらったトロフィーやメダルが並べてあった。こういうモノが処分しづらいことは永子のおかげで理解できる。
ほらよ、と出された麦茶で喉を潤すと、「で、何だ? 相談事って」と父親は見慣れない眼鏡を外した。コタツ机に座って向かい合い、まずは明後日に早まった入院の話でテンポやペースを合わせた後、一気に本題へ入る。
「二次関数か……。あの子、数学得意そうだけどな。ま、やってみようか」
「え?」
「高校に入っちゃうと自信ないけどな」
てっきり拒まれると思っていたから拍子抜けだ。この感じだと交渉はトントン拍子、何なら母親の帰りを駅で待っていられるかも、と予想したがさすがにそこまで甘くない。上下スウェット姿の父親は意外なところでゴネだした。
「いや、勉強教えたら帰るよ。わざわざ泊まらなくてもいいだろう」
帰り道は暗くて危なそうだから、と正面切っては言いづらい。「でもほら」「けどさ」「そうかもしれないけど」と粘ってみたが難攻不落。
「駅からタクシー使うから大丈夫だ。そのくらいの授業料は出るんだろ?」
こう言われてしまっては俺の負けだ。思ったより元気そうだったし良しとしよう。
「じゃあ明後日からよろしくね」
そう言い立ち上がったタイミングで母親が帰ってきた。心なしか父親も安心したように見える。玄関先で「駅からタクシー使ったの?」と訊くと「あんたね、そんな贅沢しないわよ」と笑われてしまった。
帰りの電車内、一応話をまとめた俺は一番端の座席に腰掛けウトウトしていた。この時間の上り列車は空いている。目を覚ましたのは目的地のひとつ前。ポケットの中で震えるスマホのおかげだ。確認するとトダからの電話。どうした? とメッセージを送り、電車を降りると再び着信があった。
「お疲れ。どうした?」
「いや、さっきまたスマホで撮影しているヤツがいたから、とりあえず声かけて話を聞いてるところ」
「え? 大丈夫なのか?」
「うん、今のところはね」
「警察とか呼ぶ?」
「いや、この感じなら大丈夫そう。とりあえず説明なしだと驚くかと思ってさ」
電話では埒が明かないので小走りで店へと帰る。こういう時って色々重なるんだよな。
店のドアには「CLOSE」の札がかかっていたが、店内は営業中の明るさだ。入ってすぐのテーブルにトダとマキが並んで座っている。見えづらいが、その向かいに座っているのが撮影をしていた人物なのだろう。大丈夫とトダは言っていたが、それでもリラックスしては臨めない。俺は背筋を伸ばして息を短く吐いてから店のドアを開けた。
「ああ、お帰り」
「うん。その……色々大丈夫か?」
まあね、と答えたのはマキ。その声は少し硬かった。
(第44回 了)
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