母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
三十三.
眠っているときでも、父親はさまざまな表情をみせる。
たいていは心ここにあらずというか、魂が抜けてしまったような呆けた表情で、口をあんぐりと開け「ンガー……ンガー……」と鼾をかいて眠っている。ふッ、と呼吸が止まるときがある。二拍以上も間が空くとびくっとさせられる。するとふたたび「……ングガーッ」と復活する。「お父さん、無呼吸症候群ですわね」さすがは担当医、気づいていたか。オシッコがしたいときは両足をバタバタさせて「ウーン」とうなる。終わるとまた呆けた表情に戻る。ぼくはその姿を食い入るように見つめていた。日中と夜間とを問わずしょっちゅう眉間に縦ジワを作っているが、ときにヒンドゥーの修行僧が難行でもしているような表情になる。声を発することなく鼾もかかず寂かに眠っているそんなときには、部屋中がしんと張りつめ、お香が焚かれているような何とも言いがたい空気に包まれる。
心がどこか遠くを旅していると感じるときもある。お、いま帰って来たな。どんな旅だったのだろう。一日の大半を眠りに費やしているが、見かけによらず存外、残された生を豊かに過ごしているのかもしれない。あなたはいつもどこへ行っているのですか。誰かと会っているのですか。楽しかった? それとも、どこまで行っても冥き泥濘の中なのでしょうか。
ヘルパーをはじめ、毎日さまざまな人たちがこの家を出入りする。だが、必ず案内されるこの部屋の意味に気づく者は誰もいない。なぜ父親をこの和室へ寝かせているのか。なぜぼくもその足元へ布団を敷いて、狭くてもどんなにストレスが溜まってもいつも死ね死ねと思っていても一緒に寝起きしているのか。「お二階で休まれてはどうですか。もうお父さんに付きっきりでいる必要もないでしょう」そう言ってくれるひともいるが、ぼくはそうしない。なぜ母の遺骨と白木の内位牌をそのままにしてあるのか。なぜいつも樒の枝と季節の花を活けているのか。この家を訪うひとたちは気にも留めない。中には「今日はお母様が心配そうに見ておられますよ」とするどく反応するヘルパーの長谷さんのようなひともいるにはいる。これだけが――どんなヤツであろうと亡母とともにただ傍らにいるということだけが、あとは世話など何ひとつせずチャリンコ遊びばかりしているドラ息子に課せられた唯一の務めなのだ。
ある朝いつものようにベッドの中を覗き込んだら、待っていたかのようにぼくを見つめる視線にぶつかった。どぎまぎした。いつも見ている側が見られていると知った瞬間というのは、何とも決まりが悪いものだ。その眼はしっかりと見開かれていた。無色だった。どう反応したものか思いめぐらす余裕もなくおはようと声をかけると、父親は黙ってまだぼくを見ている。
「……いつも何もしなくてごめんな」
口をついて出たのは、じぶんでも思いもよらないことばだった。すると表情はピクリともせず、しわがれた低い声で、
「じぶんで分かっているならいい」
たったひと言であっても、こんなやりとりなんていつ以来だろう。ふだんは何も口をきかない。ぼくからかけることばも「おはよう」「おやすみ」「おつかれさま」「ごはんができたよ」「さあ水だよ、口開けて」「薬だよ。今日はあまーいプリンと一緒だから」「今晩はいちだんと寒いねえ」などと一日にそのていど、それでも返って来ることばは何もない。こちらもそれ以上何をする気にもならない。厄介なことはヘルパー任せ、何もせずただ横で眺めているか、せいぜいヘルパーのアシスタントをつとめるだけだ。傍らにはべっているだけ、ヒマさえあればチャリンコ遊びばかりしているぼくのことを、息子のくせに日ごろ何もしてくれないヤツくらいには認識していたわけだ。
*
デイサービスから戻って来た父親に「おかえり。疲れたでしょ、横になろうか」と声をかけ玄関から車イスに乗ったままベッドへ連れて行こうとすると、廊下の手すりを両手ではっしと掴んで止める。腕を前後に曲げ車イスから立ち上がろうとする。〝懸垂〟がはじまったのだ。けれど自力で立つ力はない。それでも万が一車イスから転げたらと思い、手すりを握ったまま硬直している父親の後ろでこちらは車イスのハンドルを握りながら立ち続けること三〇分、一時間、とうとう二時間が過ぎた。ヘルパーが来て声をかけてくれるまで固まったままの二人を徐々に包んでいく闇より暗鬱な時をやり過ごし、ようやっと寝かしつけたと思ったら、今度はウ〇コを漏らしてしまった。それがもう水みたいなヤツで、つなぎ服はもちろんベッドのシーツも敷パッドも派手に汚してくれる。浴室でオエオエやりながら手もみ洗いをしていると、声を張り上げて悪態をつかずにいられない。「いつまで生きてるつもりなんだコイツは」
朝を迎える。おはようと言って起こそうとすると掛け布団の隙間から何ともかぐわしい臭いがただよってくる。ああーっ。寝間着から防水シーツ、さらにはその下のマットまでことごとく汚れてしまっている。総とり替えである。一人ではとても処理できない。ヘルパーが来るのを待ち、二人がかりでやっと始末する。こうも盛大に、たて続けにやられて替えもこれっきり。ぼくの着ていたスウェットまで知らないうちにウ〇コが付着していたらしく、気づかずに袖で汗を拭った額にペタリ。んぴっ。今度やられたらビニールシートと新聞紙を敷くしかないな。汚れた衣類は漂白剤に浸け置く余裕もなく、バケツに入れひたすら手もみ洗いした。洗っても洗っても臭いは取れない。漂白剤と洗剤のせいで両手は荒れ放題、十本の指はすべてささくれだらけになり、右の人差指の先が裂けて痛んだ。そんなことより何より臭いである。臭いというやつは、ひとの精神を狂わせるのだと知った。毎日続いたらとても持たない。いつまでオレはこんなところで暮らさなくちゃならないんだ。いつまでこの男は生きるつもりなんだ。いつまでじぶんの息子に面倒をかけ続ければ気が済むんだこの男は。八十七年も生きておきながら、こんなになってまでなお生き続けたいってか。さっきだってやっとの思いで便の始末を終え、ヘルパーに車イスで食堂まで乗せて行ってもらおうとしたら、「起きたくないッ」だあ。ガキがだだをこねてんじゃあるまいし「いい加減にしやがれクソ野郎っ」浴室で洗いながらひとり罵声を上げ続けた。するといつも怒鳴り散らしているせいで痛めた喉元まで、さっきムリやり胃袋へ流し込んだ朝食のカレーパンが逆流してきた。「クソやろ……オエッくそ……オエエッ」くそっ。
三十四.
鎌倉の由比ヶ浜通りにもクリスマス・イルミネーションが点された。
先週からはじまったステイもあっという間に終わり、明日は出迎えなくてはならない。日曜夕方のサザエさん症候群のサラリーマンみたいにユーウツでならない。息子に蛇蝎のごとく嫌われている父親も哀れと言うべきだろうが、自ら原因を作っているのだから致し方ない。ヘルパーには「ありがとう」「またひとつよろしく」なんてお愛想を言って喜ばせたりするくせに、ぼくにはニコリともしない。五か月前、退院したばかりのときはまだ多少は口をきけた。だがその時点ですらお前にも苦労かけるなァなどと労いのひと言さえなかった。もちろんそんなセリフを聞きたいとはこれっぽちも思わないし外づらだけのこの父親には似つかわしくないが、父子関係は悪化する一方、改善される兆しは塵ほどもない。それよりいつまでこの家の台所が保てるやら。短くてあと一年、もって二年で金策は尽きる。この家と土地を処分し、売った金で父親を施設へ入れるかたわら、自活できるよう職を探さなくては。いつまでも生きられたって困る。かくして認知症患者の介護は家族を分断し離反させる。在宅介護のために失職した、離縁した、あげくの果ては首を絞めた、そんな末路を招くくらいならば端から施設へ入れてしまったほうが、肉親を慮る気持ちがよほど残ったろうと思っても遅い。
父親は日を追うごとに、確実に衰えているようにみえる。すこし前だったら眠りこけているとき、起こそうと身体に触れようものなら、
「チメたぁーい。何をするんだッ」
「コイツ、オレの身体を勝手に嬲るんじゃないよ」
と怒ったものだ。いまは黙ってされるがままである。
先日のステイから戻った後、それまでになく衰弱が激しかった。翌日も日がな一日眠りっぱなしである。着替えの最中、いつもなら目を閉じていてもヘルパーの動作に合わせて身体を左右に向けたりお尻を浮かせたりと協力してくれるのだが、力なくだらりとしている。やっと半身を起こしてもベッドの外には出られず、食事は流動食を一口ずつスプーンで口の奧へ流し込んでやらなくてはならない。主食はスープだが、トロミをつけて加減しないと嚥下できずすぐ咽せてしまう。OS—1ゼリーという経口補水液がお気に入りらしく、じぶんでチューチュー吸うと咽ることなくゴクリと喉を鳴らして嚥下した。しかし本体を持ってやって、中身をすこしずつ押し出してやらないと吸う力が続かない。それでも一日に二本から三本、四百から六百ミリリットルを呑み干すからまだマシというべきかもしれない。だがベッドを九〇度近く起こして三〇分もすると上体が前と左右に傾き出し、支えてやらなくては真っ直ぐ維持することもできない。これまでは動作とすら思わなかった動作ひとつにも、人間にとって筋肉というものがどれだけ大きく与っているか思い知らされる。
続くデイサービスから帰ってくると、衰弱にさらに拍車がかかったようだった。送り届けてくれたスタッフも心配顔である。「ずっと傾眠に陥っておられまして。水分も摂らないし食事も全介助したんですけどほとんど口にしませんでした。脱水状態にならなければいいのですけど」案じるスタッフから車イスの持ち手を交代しベッドへ寝かせるさい、ああずいぶん軽くなったなあと思う。ヘルパーがやって来て水とクスリを呑ませようとしたが、口を開けてやっても嚥下できない。
夜半、そそくさとシャワーを浴び浴室から出るとすぐさま薄暗い寝室をうかがった。父親は口をあんぐり開けた状態でピクリとも動かず、両眼は大きく見開いた状態で瞬きひとつしていない。廊下側から発する暖色の灯光がガラス戸を通り抜け、眼球へ柔らかく注いでいる。その二つの瞳孔が開きっ放しで光に反応していないように見えた。「オヤジ、オヤジおい大丈夫か」あわてて肩を揺さぶるとわずかに動く気配があった。眼に灯光ではない内部からの光が点ったと思ったら、徐にぼくを見る眼差しになってくる。早く死ね早く死ねと念仏でも唱えるように日夜ブツブツ言っているヤツが焦ったりホッとしたりどうなってるんだ。
年の瀬も迫った。窓の外では、手入れもしてやっていないせいかひょろひょろと伸びた白い野菊の花が自重を支えられず地を這って点々と咲き乱れていた。
いつどうなるかしれない、何かあればすぐに連絡すると叔父の忠広さん、M道路のOB、Sさんの二人に電話で伝えた。このSさんというひとは、長らく父親の女房役として浅からぬつき合いだったのだが、三か月ばかり前、この人物から残暑見舞いが届いた。「Sさんっておぼえてるかな。こんな便りが来たよ」と言って渡すと、手に取った葉書をじいっと眺めている。いつもは何を話しかけても黙って無表情な父親の唇がわずかに緩んだ。それで連絡したのがSさんとの縁だった。
バイタルデータに著しい異常はみられない。しかし衰弱は覆うべくもない。朝夕の主食はお粥、副食はドラッグストアやスーパーでよく売っている介護食の肉じゃが、かぼちゃ煮などのほかスープ類で、合わせて五〇から一〇〇グラム、それに経口補水用のOS—1ゼリーを二百から四百ミリリットル、薬を混ぜ入れたプリンまたはプロテインゼリーを五〇グラム、締めて三百から五百グラム。全介助、一口ずつゆっくりだがほぼ完食する。スプーンで舌の奥へ流し込むようにするのがコツで、タイミングを間違えると咽てしまう。食事に起こす以外は終日寝たきりである。以前は夜通しギシギシと騒がしく懸垂のマネごとをしていたのが信じられない。電子レンジでアツアツにした蒸しタオルをハイと手渡したその両手を支えながら顔まで近づけてやると、何とも気持ち良さそうにじぶんで拭っている。
大晦日を迎えた。怒涛のごとくと形容したくなる一年が去ろうとしていた。もう何年ぶりだろう、ロードバイクを駆って習志野のもと自宅から手賀沼まで出かけた。おだやかな自転車日和だった。平成最後の年の最終日に、湖沼を周回するサイクリングロードをまったりと風にまかせて走っていたら、急にふしぎな気持ちにとらわれる。ここは鎌倉だっけ。いやステイだから浦和へ戻ったんだろ。そうじゃない習志野から来たんじゃないか。ぼくはいま何をしているんだ――すると、これまで自転車で走り抜けてきた何万キロもの数えきれない道の記憶が、こま切れのフィルムを貼り合わせて一度に放映したようにいっせいに押し寄せぼくを圧倒した。必死でブレーキを引き、もんどり打ちそうになりながら自転車を停めると次の瞬間、それらすべてが真っ白な砂へ水が吸い込まれるようにさーっと消え失せていった。あぶないところだった。かろうじて踏み止まったぼくの中を、光のような何かがつらぬいて足早に走り去ったようだった。
元日らしい冬晴れの、おだやかな朝だった。ステイ先を訪ったぼくを見ても無表情、無言で通していたが、それでも思いのほか元気そうだった。インフルエンザを予防する目的以前に、本人の負荷を思うとせいぜい一〇分から一五分の面会だが、十分だ。「M道路の人たちが見舞いに来たいって。Sさんおぼえてるかな」反応はない。「ご飯いっぱい食べるんだよ、食べて元気にならないとね」そう言うと首を微かに縦に動かした。「このまま死んだらイカンよ」父親はにわかに鋭い目付きになった。
「オレは会社でな、マムシって言われとるんだ。人相も性格も、眼つきもキツいからだそうだ」
もう半世紀以上昔のこと、まだ小さかったぼくにニコーッと笑いかけながら、自慢気に語っていた若き父の姿を想い出した。
心にもないことばをかけたのではなかった。このひとの姿を見ているうちにふとそう思ったのだ。あなたはしまいまで生き切ればいい。誰にどう思われようとただ生き切ればいいんだ。
(第14回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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