三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
渋谷で降りた。とりあえず呑もう。京都の代わりにはならないが、酔っ払えばすぐに眠れる。何も考えずに足が向いたのは、朝十時から開けている居酒屋「しんきち」。もちろん回転寿司屋でも牛丼屋でも酒は出すだろうが、今の俺にはそれなりの雰囲気が必要だ。
「しんきち」の重い木製のドアを開けると店内は八分の入り。想定外の盛況だった。学生みたいな集団もいれば、ひとり腰を丸めて飲んでいる初老の男性もいる。カウンターは満席なので入ってすぐのテーブル席に座った。いつもはうるさい有線が今はちょうどいい。
上京して初めて働いたのは原宿の居酒屋だった。高校の頃にバイトをしていた地元の店から紹介され、結局六年間お世話になった。当時からこの店には来ている。明け方まで働いた後、よく明治通り沿いを歩いてここまで通った。
「あら、今日は遅いじゃないの、レモン?」
ユキジおばちゃんのダミ声に頷く。俺の親より年上であろうおばちゃんはいつでも元気だ。ドンと置かれるジョッキ。ここのレモンサワーはいつでも濃い。
「今日はだし巻きないのよ、お腹空いてるの?」
「いや、軽くで」
「じゃ、適当にね」
リュックの中からバイブ音がしている。また琴絵だったらどうしよう、と迷いながらスマホを取り出す。運良く予想は外れた。かけてきたのは稲垣さん。ただ迷っている時間が長すぎて、手に取った瞬間切れてしまった。あの人とはその原宿の店からの付き合いだ。

年齢は四歳上だが、俺の方が半年先輩。年上にもかかわらず、飲食店勤務の経験がない稲垣さんは俺を頼ってくれた。最初は戸惑ったが、すぐに親しくなれたのはあの人の性格のおかげだ。大学を中退して旅行代理店で働いていた稲垣さんはいわゆる「さばけた」人で、いつの間にか俺の方が慕うようになっていた。店を辞める時もほとんど同じタイミングだった。正確には独立した稲垣さんを俺が追いかけていった形になる。そして自分の店を出すまでの約七年間、また一緒に働いた。
板前だった祖父の影響で、料理は子どもの頃から好きだ。お袋や伯母さんからは「男の子が台所に入るなんて」とからかわれたが、そんな俺を祖父はとても可愛がってくれた。食材の名前や食器の洗い方、調味料の収納法や食べる時のマナーも教えてくれた。料理に関してだけではない。大人たちの中で生きていく処世術も、無意識のうちに学んでいたと思う。そのおかげで学生時代も社会に出てからも目上の人たちに可愛がられた。稲垣さんもそんなひとりだ。今でも実家の引き出しには、祖父の形見の砥石が大事にしまってある。
上京して最初の一年は、調理師学校に通った。実習はもちろんのこと、栄養学や食品衛生学といった「お勉強」も楽しかった。自分で言うのも何だが出来はよかったと思う。あれほど人生の中で褒められた時期は他にない。調理師免許だけでなく、食品技術管理専門士の資格も取るよう勧められたが、更に一年通う費用がもったいなかったのでそれは諦めた。もっとも居酒屋の厨房で働く方が面白く、俺自身すっかりその件は忘れてしまっていたのだが。
稲垣さんはそんな俺の技術を評価してくれて、追いかけるようにして辞めた時も「お前が厨房にいれば心強いよ」と快く迎えてくれた。
「はい、お待たせね」
煮込みとトマトスライスをユキジおばちゃんが運んでくる。一口ずつつまんだ後、稲垣さんへ電話をかけ直すために外へ出た。
「もしもし」
「おお、心配したよ、大丈夫かお前?」
「ええ、まあ」
「さっき琴ちゃんから連絡取れないって電話があってさ、心配だったからかけてみたんだ」
すいません、と謝りながらも内心苛立った。あいつ、余計なことしやがって。
「店、昨日、最後だろ?」
「はい」
「まあ、何とか借り手は見つかりそうだからさ、その件は任せとけ」
稲垣さんは、店を畳んだ後に居抜きで使いたい人を探してくれていた。もしうまく見つかれば、大家との面倒な話が片付くし、調理器具や皿、コップなども処分せずに済むかもしれない。先日、書類とスペアキーは渡しておいた。結局最後まで世話になりっぱなしだ。店を始める時も御祝儀で二十万円を貰っている。
「色々とすいません」
「馬鹿、お互い様だよ。それよりも琴ちゃんに心配かけんなよ」
「はい、すいません」
さっきまで品川駅にいたことを隠して俺は謝った。近いうち飯に付き合ってもらうからな、と笑って稲垣さんは電話を切った。店に戻り、少し氷で薄まったレモンサワーを飲む。また心配をかけてしまった。この後悔めいた気持ちに偽りはないが、本当はそれだけではない。確かに稲垣さんの気持ちや忠告には感謝をしている。でも、どこかでそれが鬱陶しかった。
もちろんあの人は悪くない。元凶は余計な電話をした琴絵だ。あいつが絡むと途端に全てが湿っぽくなる。悪気がないのが分かるだけに、心の底から恨めしい。まさかこんな風に思うなんて、一年前、出会った時には予想もしていなかった。
店の近所に住んでいる五歳年下の明るい女性客。それが琴絵だった。よく食べて、よく飲んで、よく喋る。来る時はいつもひとり。しかも近所だから遅い時間まで残っている。ほぼ毎日のように来るあいつとそういう関係になるまで、三ヶ月もかからなかった。
どこから歯車が狂ってきたのだろう。細かくは覚えていないが、売り上げが落ちてきた時期と、あいつに手を上げ始めた時期は一致している。それまで女に暴力を振るったことなどなかったし、自分にそういう部分があるなんて思いもしなかった。でも、それは言い訳にすぎない。よく分かっている。
開店した当初は週に二回、豊洲まで買い出しに行っていた。店を閉めてから一睡もせずに行くので、たしかに身体は疲れたが全然辛くはなかった。むしろ、その疲れがよかったのかもしれない。けれど一年経った頃から少しずつ、本当に少しずつおかしくなってきた。そして気付けば駅前のスーパーで買ったパック入りの刺身を、そのまま客に出していた。どこかで立て直さないと、と思えば思うほど身体が動かない。そのうち「ただでさえ立ち仕事は腰にくるから」とか、「無理して休んじまったら元も子もないしな」とか、とにかく理由をつけて立て直しを諦めるようになった。

狂っている。今ならば分かる。でもあの時は駄目だった。狂っている人は、自分が狂っているなんて思わない。
アレの原因は些細なことだった。あまりにも些細で思い出せない。ただ、琴絵が何か言った。台所で歯を磨いていた俺の背中に、隣の部屋からあいつが何か言った。明け方、店から帰ってきたばかりの静かな時間帯。俺は振り返りざま、歯ブラシをあいつに投げつけ、引きずり倒し、馬乗りになって頬を何度か張った。無意識に、という訳ではない。力なく俺に叩かれ続けているあいつの顔を見ながら「まずいな」と思った。でも、やめないとと思えば思うほど身体は動き続けた。そのうち、これは勝手に身体が動いているのだから、とやめることを諦めた。俺は狂っていたかったのかもしれない。
数分後、歯磨き粉の味を口に感じながら、俺は壁にもたれかかり放心していた。謝らなくちゃ、と焦りながらもなかなか行動に移せない。テレビの横まで飛んでいった歯ブラシを、ただ黙って見つめていた。ふと、琴絵が上体を起こす。視界の端でそれは確認できたが、どうしていいか分からない。ティッシュを何枚か取り、鼻や口を拭う気配がする。血が出たのかもしれない。肌の裏側に鳥肌が立つ。重苦しい時間の中、ティッシュをくずかごに捨てたあいつがぽつんと呟いた。
「ごめんね」
間違いなくそう聞こえた。軽く混乱している俺の傍らで、あいつは「ほんと、ごめんね」と言葉を重ねた。再び変な感触が肌の裏側を走る。なかなかあいつの方を見られない。少しの沈黙があり、抑揚のない声であいつは喋り始めた。それで初めて分かった。あの「ごめんね」という言葉は固く締まった栓で、俺はそれを抜いてしまったんだ。
「ごめんね、ごめんね、私っていつも人が嫌がることばかりしちゃうんだよね、自分で分かってるの、だって小さい頃からずっと繰り返してんだもん、だからいじめられてたのにね、全然治せなくてイヤになっちゃうの、今もそうよ、職場でね、みんなに嫌がられて、みんなはハッキリ言わないけど、私は分かってるから、本当は治さなきゃいけないのに、ごめんね、私、ダメだね、やっぱり死んだ方がいいよね、最低だもんね、私ね」
かろうじて聞こえるくらいの小さな声を垂れ流し続ける琴絵。
殺される。
そう直感した。恐怖は身体を動かす。まず、台所と部屋を分けている引き戸を閉めた。貧しい俺の想像力は、ぼんやりした表情のまま包丁を突きつける琴絵の姿を脳裏に描いていた。でも何の反応もない。あいつは上体を起こしたままの姿勢で喋り続けている。
恐怖は一向に収まらなかった。読経めいた琴絵の呟きの中、自分に向かってくる包丁を想像しようとしたがうまくいかない。当然だ。使い慣れた道具だが、今まで突きつけられたことなどない。俺は「大丈夫だよ、コト、大丈夫、悪いのは俺だからさ、大丈夫」と、猫なで声を出しながら少しずつ距離を縮めた。
「悪かったな、痛かっただろ、ごめんな、ごめんな」
そう言いながら後ろから抱きかかえる。琴絵はうなじにびっしょりと汗をかいていた。
「本当にごめんな、ごめんな」
まるで呪文のように繰り返しながら後ろから抱きしめている間も、抑揚なく喋り続けている琴絵。互いに呻きながら、どれくらい時間が経っただろうか。言葉と言葉の間の沈黙が長くなり、とうとうあいつは俺の腕の中で眠った。
完全に全体重を預けているからといって安心はできない。「ごめんな、ごめんな」という呪文が途切れた瞬間、襲われる。そんな妄想に全身が緊張していた。でも体力には限界がある。ふと気が付くと俺は布団の中にいた。薄目を開ける。窓から入ってくる光の色で夕方前だと分かった。水の音。琴絵が背中を向けて台所に立っていた。あ、包丁――。一瞬にして恐怖が蘇る。試しに咳払いをしてみると、あいつが振り向いた。
「あ、起きた?」
いつもの声だ。俺もいつもの声で「ああ」と返事をする。
「何か食べてから出るでしょ?」
「うん、そうだな」
「じゃ、おそばでも茹でようか?」
「あ、悪い、頼むよ」
どうやら嵐は過ぎ去ったらしい。口の中には、まだ歯磨き粉の味が残っている。もしかしたら変な夢を見ていたのかと思ったが、やはりそうではなかった。テレビの方に視線をやると、あいつに投げつけた歯ブラシが転がっていた。
(第03回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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