私は「ニラスミレ」のハンドルネームで、文学愛好者が集うXのスペース「文学の叢」で小説を公開している。小説家になるのが夢で小説新人賞にも応募しているが、「文学の叢」の仲間だけがわたしの小説を話題にして批評してくれる。金魚屋新人賞受賞作家によるサイバー空間で紡がれてゆく小説内小説の意欲作!
by 金魚屋編集部
「いやー、とうとう来ましたねぇ、首無し稲荷って!」
F・牛森さんが浜ちゃん並みにけたたましく笑い声を上げた。
「僕もこれには驚きましたよ。まさか、遺言書の縛りがお稲荷さんって……」
「でも、ニラスミレさんらしくていいです!」
今夜は開始早々、私の小説の感想になった。いつもの季節の挨拶はすっ飛ばされ、三人が私の小説の続きを読んでくれたことは明らかだった。
「首無し地蔵を祀る風習が日本のどこかにあると聞いたことがあったから、首無し稲荷もあるんじゃないかって思ったんですよ」
「実に、いい」
「そんなに?」
「待ってました! って感じ」
「本当に? まさかー、いひひひ」
「当たり前じゃないですか。新聞や雑誌の連載小説読んでるみたいな気分ですよ。もう、次が待ちきれなくて」
「女官たちもこんな気分だったんでしょうねぇ?」
「女官?」
「ほら、源氏物語って、紫式部が一枚書き終わるとそれを女官たちがこぞってどこかに持って行って、読んで、写して、ってしてたんじゃなかったでしたっけ?」
「あーあー」
物語の評判を聞きつけた藤原道長が、紫式部を自分の娘の家庭教師に抜擢したんだった。あの当時は紙が貴重だったから、紙を提供してくれたら物語を書く、というのを繰り返していたらしい。この小説も誰かが評判を聞きつけて、出版してくれないだろうか。でも、紙はもうそれほど貴重ではないからなぁ。
「えーと、ちょっと質問があるんですが」
ふぇるまーさんさんだった。
「〈ひっこし〉の表記」
「ひっこし?」
「そうです。〈ひっこし〉って色々な表記法があると思うんですが、漢字二文字の〈引越〉、〈し〉だけがひらがなの〈引越し〉、小さい〈つ〉が入る〈引っ越し〉、全部ひらがなの〈ひっこし〉と数ある中から、どうしてニラスミレさんはあえて〈し〉だけがひらがなの〈引越し〉を選んだんかなーって」
「えーと、それは……」
理系のくせになんでそんなに文章に細かいんや!
「個人的には〈引っ越し〉かな、って思ったんですが、小さい〈つ〉が入るのが、ちょっと幼稚かなって思ったりして……」
「Googleの検索だと、どれが一番多いんですかねー」
ふぇるまーさんさんは自分で話題を作っておいて、新たな質問を投げかける。
「そんな時はコーパスですよ」
現代国語教諭のF・牛森先生だった。
「コンパス?」
「いえいえ、コーパスです。書き言葉コーパスを調べて、どの表記が一番よく使われているか、調べればいいんです」
そう言い放った後、F・牛森さんが黙った。そのコーパスやらを調べているのだろうか? かすかにタイピングの音が聞こえる。
「今調べてみたんですが、あ、これ、国立国語研究所が出してる小納言っていうコーパス検索アプリなんですが、これだと、漢字二文字の〈引越〉が936件、〈し〉だけがひらがなの〈引越し〉が806件、小さい「つ」が入る〈引っ越し〉が1,146件、全部ひらがなの〈ひっこし〉が25件です。これ、全部書き言葉です。僕個人的には、漢字二文字の〈引越〉って、例えば引越業者の名前に使われる印象だなぁ。今は簡単に小納言の方使いましたが、登録制の中納言っていうのもあって、そちらだともっと細かく検索できますよ」
国語研究所まで出てきて、なんだか事が大袈裟になりつつあった。しかも藤原道長や中納言やら、私はなんだか本当に紫式部になったような気になった。しかし、そんなのどれだっていいじゃん、というのがその時の私の素直な意見だったけれど、プロの作家を目指すのであれば、国語研究所様のお力を借りて、正しい日本語表記を目指さなければいけない、というのも同時に考えた。
「小さい〈つ〉が入るのが正式かなって思いますねぇ。元々〈引く〉と〈越す〉が合わさった複合語だから、〈く〉が〈つ〉に変化したと考えられるからです。でも読み間違える恐れがなければ送り仮名の小さい〈つ〉は省略してもいいらしいです。でも一番多いのが小さい〈つ〉が入るやつ」
国語の専門家にここまで解説していただいたら反論のしようがないし長いものには巻かれておいた方が楽なので、「じゃ、書き直します。ありがとうございます」と、アラフィフおばさんは素直になった。
みんなで、日本語って難しいなぁ、なんて話をしていると、リスナーに見知らぬ方が入って来た。白地に骸骨の頭が笑っている。あ、そうか。骸骨っていつも歯が剥き出しだから、笑って見えるのか。お名前はTimバーさん。私はTimバーさんが入って来たことにすぐ気がついた。こうして四人で喋っている時に、たまに訪問者がある。しばらく聴いて退出する人もいれば、何かの間違いだったように一秒で消える人もいる。他の三人がどのように文学の叢に参加しているのか分からないのだけれど、私が訪問者に気づいた時に他の誰も何も言わないということは、多分画面を見ていないのだろう。スマホの画面がスリープ状態になったって聞こえるのは知っている。でも私はなんだか怖いのだ。いつも自分達のアイコンが見える状態にするために、画面が暗くなるとタップして、明るい状態に戻す。スマホの扱いに慣れていないおばさんというのもあるけれど、もしかすると藤原道長が訪問してくるかもしれないじゃないか。私はその瞬間を見逃したくないのだ。
「あ、Timバーさん? こんばんはー」
私が発した声に他のメンバーも反応した。次にあ、と言ったのは拓郎さんだった。
「オレの知り合いです」
「バーの経営者?」
「違う違う。ほら、この骸骨、なんか見覚えないですか? ティム・バートンのTimとバー」
「あ、なるほど」
他三人で声を揃えた。
「Timバーさんとは、知り合いって言っても他のスペースで知り合ったんですけど……えーっと、なんのスペースだったかなぁ」
画面下のベルのマークに青いドットが付いた。Timバーさんからの投稿だ
〈映画を語るスペースです〉
「そうでした! 最近見た映画とか昔の映画とかを語るスペースで、そこに来られてたんです。お久しぶりでーす!」
〈ご無沙汰してました(スマイルマーク)〉
私はふぇるまーさんにTimバーさんにスピーカー招待を送ってはどうかと伝えた。するとその直後に書き込みがあり〈筆談でお願いします〉と。スペースに参加して来る人が百人いたら百人全員がお喋りしたい訳ではない。中には一切声を出さない人もいる。単にお喋りが下手、嫌い、今時間的に喋れない、話はするより聞くのが好き、理由はいろいろあるだろうけれど、こういう音声アプリの利用者の中には一定数この種類の人たちがいる。
「うちのスペースはみんなで文学や本について語り合ったり、課題図書決めてみんなで読んで感想を言い合ったり、今はここにいるニラスミレさんが小説書かれる人なんですが、それをみんなで読んで、感想を言い合ってます」
F・牛森さんがそう説明すると素早く、
〈いいですねぇ。私も読んでみたいなー〉
と、返ってきた。
「あ、ぜひぜひ、感想聞かせて欲しいです」
と、私。それからしばらくTimバーさんから返事はなかった。
「……それにしても、首無し稲荷とはねー、はははぁー、笑っちゃうけど、いいなー」
話題はTimバーさんが入って来る前の、首無し稲荷の話に戻った。
「これで進めます。で、最後は……最後どうしよう?」
「ははは、それはニラスミレさん、考えてください」
F・牛森さんは幾分声のトーンを落として、そう言った。
「はい、頑張ります。でも、今週は終わらないですよ。来年にかかっちゃいます。三月末までに書き上げればいいやつだし」
「でも、ええ感じで進んでますやん?」
「はい」
「あ、オレ、もう一つ気になったことがあるんだけど」
拓郎さんが忘れないうちに感を出して、私とふぇるまーさんに割って入ってきた。
「花咲って誰?」
「あ、僕も気になった。このキャラクター、前からいましたっけ?」
「えーと、書いていたと思うんですけど……」
私は急いでファイルを開いた。主人公が密かに心を寄せている同じ会社の人で、しかし父親が決めた相手と結婚しなければいけないので、彼のことは諦めた、という内容で書いていたはずだった。
「あれー、変だなー。コピペ繰り返しているうちに消しちゃったのかなー」
「よくありますよ」
「あるある」
「内容からすると好きだった人っぽいですよね?」
三人は花咲さんをキープの方向で勧める。確か前半に出していたはずなのに、検索すると、今回皆に送った部分にのみ「花咲」と現れ、他のどこにも出てこない。やってしまった。
「あー、でもなんか時間もないし、この部分削除します」
「えー、そうなんですか? 残念」
「はい、残念ですけど。純文学にそんなドラマ、要らないと思うんで」
「そうかなー、ストーリーあっても全然いいと思いますけど」
「オレも思いますよ」
沈黙が流れた。音声アプリの沈黙って、リアル生活での会話の途切れと同じぐらい気まずい、と思うのは私だけだろうか? 他が何をしているのか見えないのだから、私と同じように気まずい空気を味わっているとは限らない。家族と温かい空気の中にいるかもしれない。単に壁の時計を眺めているだけかもしれない。スマホで何か検索しているのかもしれない。LINEのメッセージが届いたから読んでいるのかもしれない。
「じゃ、今日はこの辺にしますか。今日で今年最後ですねぇ。皆さんよいお年を」
ホストのふぇるまーさんだった。その声に続いてそれぞれが、よいお年をーと繰り返した。私は、来年こそは新人賞をと思ったが、今年と同じ生活のサイクルがまたやって来る予感があった。嫌な予感。そして私の予感は結構よく当たる。
「Timバーさんもどうもありがとうございました。またどうぞ」
「また来てください」
Timバーさんのアイコンはまだあったが、返事はなかった。
「来月から休みに入るそうですよ」
岡林さんの報告はそれほど切羽詰まった感じもなく、そもそも自分の仕事にはあまり影響がないと思ったので、私自身も深刻には取らなかった。
「笹原さんの仕事は若手で引き継ぐそうです」
笹原さんというのは来月から産休に入るデザイナーだ。会社も笹原さん本人も産休で休むことになるとは全く予想していなかったらしい。彼女は私より五歳ぐらい若い女性で、結婚して十年以上経つらしいが、もう子供には恵まれないだろうと仕事をバリバリやっていた人だ。出張も積極的に行っていたし、ご主人とも家事の分担をしていて、夫婦二人だけの人生設計をしっかり固めていたと聞く。ところが何がどうなったのか四十を過ぎて妊娠した、と数ヶ月前に報告を受けたところだった。
「もう四十を過ぎてますし、子供なんてできないって思い込んでたんですが、こういうのを間違ってできたって言うんでしょうかね―、うふふ、でも、せっかく授かったものなので、大事にしたいなぁと」
若い頃に流産したことがあるらしく、しっかり安定期を過ぎてからの報告だった。私と社長を含む管理職の人間への報告だったのだけれど、私はその時の笹原さんが、とても弱っちく見えたのを覚えている。それまでは夫婦共稼ぎで強くたくましく生きる女のイメージだったのに、数ヶ月後の産休を申請している彼女の顔はなんだか丸くて優しかったのだ。社会に反発しながら生きていたような笹原さんが、社会にもう一つの命を産み落とす人材になった途端、彼女の眉毛の流れ方、頬の皮膚の艶、唇の動かし方まで母親が持つものに変化してしまっていた。
「仕事が辛い時なんかは、他の若い人とか男性にやらせたらいいんだからね」
「はい、ありがとうございます。韮山さんにそう言っていただけるとありがたいです」
どういう意味なのかな? と思いながら笑顔を作った。大体私は子供もいないし離婚もしていて、笹原さんの人生とは大きく外れた軌道にいる人間だと思うけど。
「でもあのお歳で子供できちゃうと、これからが大変じゃないですかねー? 子供が成人式の時、六十過ぎてるんですよ」
岡林さんがAppleペンシルをくるくる回しながら言う。
「今は成人って十八でなるから、ぎり六十前よ」
「でも成人式って今でも二十歳でやるところ多いみたいだし、どっちみち六十前後ですよ。大学生だったら、卒業する頃に還暦?」
「まぁ、そうねぇ」
「うちの親、まだ四十代だから、びっくりです」
「へぇ、若い時の子供なのね?」
「二人とも学生結婚なんです。それはそれで大変だったみたいだけど。ま、先に苦労するか後になって苦労するか、その違いだけか」
岡林さんは疑問を自分で解決できたのか、急に無言になってiPadに向かっていた。
私は手指が冷たく感じていた時のことを思い出していた。夏の始まりだというのに指がとても冷たく、身体が冷えているのが分かった頃のこと。悪寒とは違う、体温が低いと分かる、そんな冷え方だ。ちょうどその頃ちょっとしたことで知り合った、栃川さんという人がいて、休日のお昼のお茶に誘われていた。リビングで紅茶をご馳走になっている時だった。なんでこんなに身体が冷たいんだろうと思った。あれから二週間経っているんだから、逆に熱っぽく感じるはずなのに、やけに身体が冷える。私が欲しかった感覚は、火照るようなだるさだったのに。私の身体は霜柱のように硬く冷たかった。
「……でね、私の知り合いにデザインをやってみたいって人がいて、韮山さんの会社に紹介してもらえないかなーって、うふふ、そういうこと」
私はその頃東京の大手デザイン会社に勤めていて、夫もそこの社員だった。デザイン会社と聞くと華やかな印象があるのだろう。しかも何か絵が描けたら即デザインができると思っている人が多いのも確か。それでも今回のように直接「紹介してもらえないだろうか」というお願いは初めてだった。
「その方は、今何を?」
「学生」
「あー、なるほど」
「美術の専門学校行ってて」
「うちは大卒しか取らないと思いますよ」
「え、そうなの? でもね、絵はすごく上手よ!」
「どういったお知り合いで?」
「実はー、私の姪なんですよ、うふふふ」
どうせそんなことだろうなぁ、と思っていたので驚きもせず、でも多少相手に共感するふうな空気を出しておいて紅茶を一口飲んだ。壁紙がとても変わっていて見とれた。暗い緑の地に古代ギリシャ風のピラーが印刷された大胆なもので、温かい紅茶をいくら飲んでも冷たいままの指先を摩りながら見ていたのを思い出す。
話題もそろそろなくなった頃だったか。なんとなく下腹部に違和感を覚えて、初めて来たお宅のトイレをお借りするのも憚れたため、うまく理由をつけて栃川さんのお宅を辞した。よろしくお願いしますね、と背中に念を押されたようだったけど、どんなふうに反応したんだっけ。玄関を出ると急いで近所のコンビニのトイレへ向かった。下着を下ろすと見たくないものがパンティライナーを汚していた。身体が冷たかった理由、温かくならなかった理由が赤い染みとなって証明されていた。どうして自分の身体からこんなものが出てくるのか説明して欲しくて、身体中の全ての体液が漏れ出したような恐ろしさで、逆に涙は出なかった。
毎月訪れるその赤い染みは健康な女性の証なのに、私にとっては不完全な女であることを毎月宣告されているようだった。晩婚だったし、子供ができないまま毎月赤い染みを見ることに焦りを覚え、夫婦で専門医を訪れた。検査の結果、問題は夫の方にあり、私の年齢のことも考えてすぐに人工授精を勧められた。数回のトライをするも結果が見られなかったので、結局体外受精をすることになった。保険が効かない生殖補助医療にはかなりの費用がかかったけれど、若くはない分二人とも貯蓄だけはあり、治療費を捻出するのに無理はなかった。それに、二人の子供の顔が見られるのであれば、そんなの後で帳消しになると思っていた。
費用だけでなく手間と時間がかかる治療だったけれど、私はどこかその治療を楽しんでいるところがあった。予期せぬ排卵を抑えるための点鼻薬、月経が始まったら開始する、なるべくたくさんの卵を採取できるようにするための排卵誘発剤の注射、採卵の日が決まった時の注射。薬剤が変わっていく度に、私は希望で身体が震え、自己注射の時間が楽しみで仕方がなかった。だけど、期待が大きければ大きい程、失敗した時の落胆はこの上なく深かった。他の誰にも共感されることはない辛さだった。男性側に原因があったとしても、体外受精で妊娠できないのは結局は女性の年齢に起因すると言われている。体外受精の時は生殖能力のありそうな元気な精子を選んでもらえるけれど、卵子の質は女性の年齢とともに劣化する。結局女の私が責められている不条理さに不甲斐なさを感じたものだ。
栃川さんの家の近くのコンビニで妊娠していないことが判ったのは、二度目の体外受精の後だった。私たち夫婦の間では、この二度目で最後にしようかという空気が流れていた。最後にしよう、ではなくて最後になるだろう、という方が近かった。それは諦めではなくて今度こそ妊娠するだろうという自信からだった。
夫が仕事から戻って来ると、今度も妊娠していなかったことを報告した。夫は、テーブルに着きながら、そうか、と言っただけだった。その静かな態度に私は変に腹が立った。元々はこの男のせいなのに、なんで私がこんな苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 治療が楽しかったのは、妊娠できることを確信していたからだ。それがなくなった今は、夫への恨みつらみしか感情の中に残っていなかった。やけになっていた。
「ねえ、もう一度挑戦したいんだけど、今度こそ、本当に最後」
出かける前に作っておいたビーフシチューを温めながら、私は夫を振り返った。
「もういいじゃないか。二人だけの人生だって、楽しいはずだよ」
夫はテーブルにあったリモコンを操作してテレビを点けた。人気お笑い芸人が司会をするバラエティ番組が映った。
「いやっ、そんなの! 私が、この私が、自分の子孫を残せないなんて、考えられない!」
「そういう人たちだって、世の中にはたくさんいるじゃないか」
「それがなんで私なのよ!」
「だから俺だって協力してるじゃないか」
「協力じゃなくて責任よ! あなたのせいなんだから!」
「そんな言い方、よせよ。俺が毎回どんな嫌な思いしてるのか、分かってるのか?」
「分かってるわよ」
「いいや、分かってない。人工授精の時も体外受精の時も、君の排卵に合わせて採精室に入れられて、雑誌やビデオを観ながらシコシコやって射精するんだぞ。俺は種馬かよ!」
「だってそれは……」
「分かってるよ、分かってるけどなんか虚しくなってきたんだ。もしも子供ができたとしても、セックスしてできたんじゃなくて、雑誌のおねーちゃんの裸でできたみたいじゃん」
「あなた、そんなふうに考えてたの?」
「ちょっと大袈裟に言った。ごめん。だからさー、もう止めよう。十分だよ。こんなの自然じゃない」
「自然にできないから医療に頼るんじゃない」
あなたが正常な男だったら、こんなことしなくて済んだのに、という言葉だけはグッと飲み込んだ。
「二人だけだって幸せな人生が送れるって」
「じゃ、別れましょう」
私はビーフシチューが煮立っているのを見つめていた。そして、別れましょう、ともう一度言った。
「あなたはもっと若い女性と結婚すればいい。体外受精したら、すぐに妊娠できるわよ。私は健康な男性を見つけて妊娠するまでヤリまくるわよ! それでお互い幸せになるじゃない!」
「子供がいなくったって幸せだよ! 君は俺だけの家族じゃ不完全だと思ってるのか?」
ビーフシチューはさらに煮立ち、今ではキッチンで聞こえる音は、ぐつぐつという不気味な警告音のようなものだけになった。出て来る、と言う夫の声が背後に聞こえ、しばらくしてドアが閉まる音がした。
私はその日の晩、焦げ臭くなったビーフシチューを一人で食べ、それまでしばらく我慢していたワインをグラスに何杯も飲んだ。何杯飲んでも夫は戻って来ず、私はどうやらそのままテーブルに伏して眠ってしまった。尿意で目が覚めた時は十二時近くになっていたが、夫の気配はなかった。トイレに行き、止まりそうもない出血に新しいナプキンをあてがった。その時初めて涙が溢れ、心の血液を流すかのように涙は止まらなかった。
それから一年未満で私たちは本当に離婚し、会社に居づらくなった私は生まれ故郷の北海道に移り住んだ。結局今まで子供ができるほどヤリまくる健康な男性とも出会っていない。
ある日の午後、わたしがソファでくつろいでいると航太が帰宅した。年に何度かの不快な遭遇に慣れて来ていたので、わたしは気にせず見ていた雑誌のページをめくった。めくった時のページが航太の臭いを連れて来た。嫌な臭いだったけど、今までと違うような気がした。不覚にも顔を上げてあいつを見た。夜勤が多くて陽に当たらないから肌の色は以前から白かったけれど、これは青白いと表現する肌の色ではないかと思った。肌には艶がなく、髪は以前に増してパサついている。何よりも目を引いたのは、別人のように痩せていたことだ。多少のダイエットをした方がいいほど太っていたが、今では、まだ痩せていた小学生の頃と同じぐらい痩せている。顔が小学生とは程遠いので、体だけがここまで痩せてしまうと貧弱そのものだった。
嫌っている相手とはいえしばらく見ない間のこの変貌ぶりに、わたしは少々驚いた。相手が航太であることを忘れて言葉をかけてしまった。
「ちゃんと食べてるの?」
返事はなかった。その代わりに肩で息をするような呼吸音が聞こえた。さっき感じた違った臭いは、この苦しそうな呼吸から発せられたものだったのだ。
「あまり食べたくないんだ……そんなこと気にするのかよ。朝起きたら、俺に死んでいてもらいたいんじゃねーの? ひぃ」
航太は息の漏れる引きつった笑い声を出した。それはわたしに嫌悪感というよりも得体の知れない恐怖感のようなものを呼び起こした。だからもうこれ以上話しかけるのを止めようとしたが、なぜか口が勝手に動いた。
「病院に行った方がいいんじゃないの?」
死んで欲しい奴になんてことを言うんだろうかと、自分を詰った。ところが返事は意外にも「次の休みに行く」だった。航太は自分のベッドルームへ入って行った。あいつと会話らしい会話をしたのはいつ以来だろうかと、しばらくソファで動けなかった。でもすぐにどうでもいいことだと自責し、雑誌に視線を落とした。そう、あんな奴、死ねばいいんだ。航太への嫌悪感から自分を救うために、わたしは常に「死ねばいいのに」という言葉を繰り返していた。そうすることで父の不条理な遺言書だろうと首無し稲荷の祟りだろうと、どうにか自分の生活に紛れさせることができて、暗い淵から救い出される思いがするからだ。ところが今日はその言葉が別の響きを持っている気がした。あいつの臭いが変わったことと関係あるんだろうか? 喉の奥がちくちくするだけで何も頭に浮かばなかった。
季節が少し動いても、七階の窓から見える四角い海は相変わらず宝石のようだった。結婚してから課の人たちと一緒にバーベキューやキャンプに行ったことはあったけど、海辺に行くことは一度もなかった。その日もリビングでテレビを見ていた。仕事も以前より忙しくなり、最近の楽しみと言えば、週末ワインを飲みながら、サブスク配信の今流行りの海外ドラマを夜遅くまで観ることだった。主人公の刑事が犯人を取り押さえた時、玄関が開く音がした。航太だ。わたしはワイングラスの中に鼻を突っ込み、航太の存在を忘れようとした。鼻腔はすぐにシャルドネの香りで満たされたが、航太の存在を主張する嫌な臭いを消すのにまだ余力があるように思えた。航太の臭いがあまりしないのだ。
あいつが背後を歩く気配は確かにあるのに、何も主張してこなかった。無意識の何かがわたしを振り返らせた。黄色い素足を引きずるように歩いている後ろ姿は、背が曲がり、背骨が浮き上がるほどに痩せている。まるで別人と同居しているように錯覚した。ワイングラスを鼻から遠ざけたが、何も臭いがしない。どこから湧いて来たのか分からないが、何かを突き動かすものがうごめき、わたしはソファからもう一度振り返った。
「ねぇ、あんた。病院行ったの?」
ドアノブに手をかけた航太が、振り向かずに、ああ、とだけ言うとそのまま立ち尽くした。黄色い足の裏から悍ましいものが滲み出てきて、床を脂っこく伝い、わたしに迫って来そうだった。その悍ましいものは音でもなく臭いでもなく、もちろん目にも見えなかったけれど、確実に航太の存在を包み込んでいるものだった。こいつにも黒い淵があるんだ、とわたしはソファに深く座り直した。
結婚して二年半、一度も航太の生活に干渉する気はなかった。嫌いな奴だから当たり前だし、同じマンションに住んでいるだけでも、航太の目に見えない人生の一部に無理やり触れているような気がして気分が悪くなる。航太が何を食べようが、何を目にしようが、わたしには関係ない。病気になって死んでくれたら、これほど嬉しいことはないはずだ。ただし、首無し稲荷の祟りはどうなるのか? 早いうちに母に確認しておかなければと思った時だった。航太がベッドルームに入らずにリビングに近づいて来た。わたしが身構えると向こうも歩を止め、身動き一つしなくなった。恐々見ると、何か言いたそうに口元がわずかに動いたが、更に何か言う努力はしなかった。しなかったと言うよりも、できなかったのかもしれない。わたしはこれ以上航太と空気を共有することが嫌で、「で、どうだったのよ?」と強い口調になった。「どこか悪かったの?」あいつの右頬が少し上がり、口の端から汚い八重歯が見えた。曲がった背中をさらに曲げ、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。少し笑ったような気がしたがその直後「癌なんだ」と、例のいやらしい引きつり笑いが聞こえてきた。「進行性の胃癌らしい」こいつは自分の病気の話をする時にも、人を嘲るように引きつり笑をする。気持ち悪い奴。喉の奥の方が酸っぱくなって、シャルドネが戻って来そうだった。わたしは自分の顔も航太と負けないくらい青白くなっている気がした。
「お望み通り、もうすぐ死にますよ、ひぃ」
航太は黄色い足の裏でゆっくり回転し、ベッドルームに入って行った。リビングからのライトが当たらない陰で唸るように、閉められたドアが鈍く音を立てた。わたしはそこでやっと正面を向いた。こんなに長くあいつの姿を見ていたことがあっただろうか。ソファで身体を元の位置に戻し、残っていたシャルドネを一気に飲み干した。酔いのせいなのか、眠気のせいなのか、それとも何か理解の届かない物のせいなのか、わたしは頭が揺れ視点が定まらなくなってきた。自分の周りの空気が冷たく感じ、明るいリビングにいるはずなのに暗い淵が現れた。音がない。でもわたしはその暗い淵から逃れる努力をなぜかしなかった。このまま淵の底に沈んでしまったら、どんな気分なんだろうと、身を任せるようにじっとしていた。いつものあの言葉は心のどこからも出てこなかった。
「あ、あけましておめでとうございます!」
「あけおめですぅー」
「おめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「文学の叢、本日は新春叢ですが、皆さん、お正月いかがでしたか?」
「僕は年末から風邪ひいちゃって、今ようやくよくなりましたけど、えらい目に遭いましたよ」
「まだ声が変ですもんね」
「変ですか?」
「いや、そういう意味じゃなくって、ひひひ、風邪ひいてる声だなーって意味ですよ」
声が変だと言ったのは、むしろ私の褒め言葉だった。多少掠れた感じの方がバンドマンとしては魅力的な気がして、それにこの掠れ声によって私は拓郎さんの声が覚えやすい。ずっと風邪をこじらせてくれないかだろうかと願った。
年末までになんとか朝比奈興業の仕事が一段落し、私は穏やかな年末年始を過ごした。一人になってからでも数年は小さなお重におせち料理を作って、雑煮も作って、日本酒で一人乾杯していたものだけれど、今年はなんだか手抜きモードになり、おせち料理は一つも作らず、コンビニへの予約さえせず、元日の雑煮も具は餅だけというのを作り、朝から晩までパジャマのまま飲んでいた。離婚してからの私の人生なんて、コロナ以前も以後も何も変化はない。下手をすると、数ヶ月人と会わない、外食しない、飲みに行かない生活だってある。「コロナ篭り期間」のリモート飲み会は世の中で賛否あった。私はどちらかというと誘われる方だったのだけれど、主催してくれる人が言うには、何人かの人には断られたらしい。私もたまに人を誘う側になるのだけれど、特にコロナが始まって不要不急の外出が禁止された直後だった頃の断る人の一番の理由は「晴れて皆さんと対面で会える時まで、お預け」というものだった。どんな状況条件であってもお酒が飲めればいい私は、何格好つけたこと言ってるんだと思った。今となっては誰もがそれがどれだけ甘い考えだったか知っているけれど、私は未曾有の非常事態を前にして、これはちょっとやそっとじゃリアル居酒屋で再会する日は来ないと予想がついた。
実際のリモート飲み会は気恥ずかしいような、それでいて気楽なような不思議な世界での交流だった。自分で好きな飲み物やおつまみを持ち寄り、しゃべる相手はパソコンのカメラ。同時に自分の顔が相手にどう映っているのか確認しながら話すので、視線がいつも右か左に向く。カメラ近くに自分の顔がくるようにウィンドウを移動させたり、でもそんなことをしているとスピーカーの顔を見ずにしゃべっている自分がいて、やはり実際の居酒屋で話すのとは違っていて、リモート飲み会を断った輩たちの正しさを肯定しかける。でもそうすることは心から悔しいから、お酒の味が少々苦く感じようが、酔ってしまってへべれけな私を演じることで、非日常的な飲み会の異質さを封じ込めようとした。
昼間の仕事のミーティングも同じようなものだった。お酒が入っていない分、手が届きそうで届かない距離にいる人との会話はどうもくすぐったく、声が少しずれて届くことの対処法を真剣に考えたりもした。そのくせカメラに映る上半身だけ見繕い、下半身はパジャマやスウェットなのだから(私だけではなかろう)。これは電話で見えない相手に頭を下げるのと逆の行動で、会議中にスウェットの太ももを掻きながら、新しい世界の幕開けを称賛したものだ。パラレルワールドを実装しているみたいで、リモート会議や飲み会の方がずっと社会に溶け込めた気分になれる私だった。
だから毎週行われる文学の叢は私にとってはイベントと呼べるほどの楽しみだった。どんなに忙しくても時間通りにスマホを開き、画面上に流れてくるスペースのお知らせをタップする。会ったこともない年下男性三人と、私は自分の年齢を偽りながら毎週けらけら笑う。賞を獲るわけがない駄作をみんなが読んでくれて、意見を言い合って、若いふりして課題図書漁って、今風の喋り方真似してって、そんなスペースにいられる私は、アホな幸せ者だった。
その日は新年の挨拶をしているうちに雑談となった。ふぇるまーさんが実家に帰っているので始終関西弁で喋っていて、「違う人がいるみたい」と揶揄ってみたり、みんなの初夢を披露し合ったり、どうやら飲みながら参加していたらしいF・牛森さんが途中呂律が回らなくなってきて大笑いしたり、そんな感じで一時間が経とうとしていた。私は揶揄ったり笑ったりボケたりしながら、小説についての話題が出ないことを密かに願った。その日の集まりまでに書き終わらなかったからだ。
「F・牛森さんが大変なことになってますので、へへへ、今日もこの辺にしときますか」
ふぇるまーさんの一言に皆同意し、ふぇるまーさんがでは閉めまーすと言った瞬間、言語を初めて覚えた生物のような話し方で、F・牛森さんが「ニラスミレさんの小説」と呟いた。呟きにしか聞こえなかったのに他二人は素早く反応して、そうだ、そうやと騒ぎ出した。
「すみません、年末が案外忙しくって、書けてないんです」
私は半分嘘をついた。仕事は順調に終わった分、Netflixを観ながら飲んでいて、執筆に時間をかけられなかった、いや、かけなかっただけだ。
ホストが誰であれ締めはいつもF・牛森さんなのだけれど、今の状態では締めの言葉は無理そうだと誰もが判断したようで、掠れた声で拓郎さんが、三月の締め切りまでに間に合えばいいんだし、オレらのことは気にせずマイペースで、と締めてくれた。天邪鬼の私はそう言われると逆に燃えるタイプ。スペースから抜けたと同時にパソコンを立ち上げ、小説のフォルダを開いた。
一週間後の土曜の朝だった。AI掃除機がリビングを動き回っている間、溜まった洗濯をしようとランドリールームにいる時だった。来客の予定もないのに、チャイムが鳴った。宅配便が来る予定もないので、少し警戒しながらリビングにあるインターホンモニターを見た。そこには、見覚えはあるが誰なのか認識できない年配の女性の顔があった。名前を尋ねると、その返答にわたしは反射的に解錠ボタンを押した。
航太の母親がマンションを訪ねてくるのは、わたしが知る限り初めてだった。それぞれのベッドルームにもインターホンモニターが付いているので、航太も自分の母親が来ていることを知っているはずだ。わたしがドアを開けると、両眉を上げ、少し口を開いたような顔をした航太の母親が立っていた。わたしが出たので驚いているのか、元々こういう顔の人だったのか記憶がない。
「ずいぶんご無沙汰してます」
彼女は深々と頭を下げてから、これ、と言って、わたしに紙袋を渡した。
「お母様からお土産をいただくって言ってたんです。だからお返しと言っては何なんですけど」
お邪魔します、と言って上がると、母親は迷わず航太の部屋へ向かった。わたしがいない間に来たことがあるのは明らかだった。彼女はドアの前で、航太、入るわよ、とあいつの返事を待たずにベッドルームに入った。もしこれがあいつの友達の訪問であれば、わたしは何もせずに洗濯に戻ったのだろうけど、嫌いな奴の母親をどうもてなせばいいのか見当もつかなかった。第一、もてなすものなのだろうか?
なんの用事で来たのかは大体見当がついたのだけれど、気づく自分が少し癪に触った。このままあいつの部屋で話すのか、ベッドルームから出てくるのかも分からなかったので、必要であればお茶だけでもすぐに出せるようにしておこうと、キッチンへ向かった。嫌な奴の妻としてではなく、社会人としての行動だった。お茶葉を用意しながらさっきもらったお土産の袋の中身を覗いた。しばらく食べていなかった大福餅が入っていた。わたしの好物を偶然にも買って来るなんて、息子とは大違いの何とできた母親なんだろう。
AI掃除機がリビングの掃除の終了を告げた時、航太のベッドルームのドアが開いた。出て来たのは母親だけだった。用件が済んだのであればすぐに帰るだろうと思っていたら、彼女はドアの前で立ったままこちらを見ていた。わたしはどう声を掛ければいいのか分からなかったので「あの、お茶、淹れますけど」と再びキッチンに戻った。それでも航太の母親はそこから動こうとせず、わたしから視線を外すと天井を眺めたり、隣のマンションしか見えない窓に目を遣ったりしていた。わたしが彼女を追い出す方向へ持って行った方が賢明なのかと思った時、「小村瀬さん、あ、遥香さん、ちょっといいですか?」と、航太がいつも使っている安っぽいソファに座った。結婚した当時はきれいなクリーム色をしていたはずのそのソファは、もう何年も掃除をしていないほど薄汚れていた。母親は何の躊躇もせず、そこに深々と座り込んだ。やっぱりそうだ。あいつの病気のことで来たんだ。
航太が使うソファには死んでも座りたくなかったので、母親の近くまで行くと、わたしは床に座った。AI掃除機が特殊除菌モップを使って掃除をしたところだったので、安心して座れた。
「何でしょうか……」
あいつの病気の話であることは薄々感じていたが、自分から言い出すのは不本意だったので、彼女の言葉を待った。
「ご存知じゃないかもね。航太、そのぉ、重い病気らしくって……癌らしいの。それも、もう……」
母親はそこで言葉を切った。口が動いているように見えたが、同時に溢れる涙がそれを遮ったようだった。嗚咽の中から聞き取った言葉は「もう、手遅れらしいの」だった。わたしは彼女の涙を見ないようにして「先週聞きました」と窓を見た。床に座るとあの四角い海は全く見えなかった。
癌は早期発見すれば予後がよかったりするらしいけど、航太は先日「進行性」と言っていたから、母親の言う手遅れというのは正しいのだろう。
「あの子、まだ三十三なんですよ。それなのに、どうして……」
母親は先週あいつと一緒に病院へ行って、胃癌、それも若年層でも罹る可能性のあるスキルス胃癌だと宣告されたらしい。すでに腹膜播種という、腹膜への転移と肝臓への転移が見られると医師から告げられたと、母親は俯きながらわたしに語り続けた。航太の母親とわたしの母とはそれほど歳が変わらないと記憶していたが、目の前に座る彼女は老婆だった。半分以上が白髪になった髪を一つに束ね、下向き加減になった頬は醜く垂れ、化粧気のない顔に刻まれたシワはどれも深く、影を抱きかかえていた。
中学の時だった。航太と大喧嘩した後に母と一緒に航太の家にいやいや謝りに行った時、航太の母親は笑顔が素敵な美しい人なのが印象的だった。うちの母親と交換したい、とまで思った。
「いただいたもので悪いんですけど、大福、食べますか」
わたしは立ち上がって、キッチンで用意してあった急須にお湯を入れた。大福餅を袋から出して皿に載せ、彼女の前に出した。
「お母様がいつも航太の分までお土産を持って来られるって聞いたので、じゃ、何を持って行ったらいいか、って訊いたんです」
母親はお茶と大福の前に一礼した。わたしの母はあれから二度ほど来た。そしてその度に、わたしとしてはやめて欲しいのに航太の分までフルーツタルトを買って来た。
「すると、あいつ大福が好きだったはず、って言うもんですから、それで、これを」
わたしは頭を殴られたような衝撃を受けた。同時に吐き気と喉の奥の方が詰まる感覚があり、視線をどこに遣ればいいのか分からず、気分が悪かった。どうしようもなく気分が悪かった。
母親はお茶を一口飲んでから、息を大きく吸った。
「治療はもう出来ないので最期は緩和ケアになるそうなんです。それでご相談なんですが、本人の希望もあって、ホームホスピスにしようと思うんです」
「入院すればいいじゃないですか!」
わたしは突き放すように言った。死んで欲しいとは思っていたが、わたしの住む場所で死んで欲しくはない。
「ここに居たいそうなんです。どうしてでしょうねぇ……。それで、いつになるか分からないですけど、そのー、あの子が亡くなるまで私に同居させてもらえないでしょうか」
母親はさっきお茶に一礼したよりももっと深く、わたしに頭を下げた。
「もちろん面倒は全部私が見ますし、看護師も付き添いますので、遥香さんには一切ご面倒おかけしませんから」
わたしは、それなら別に構わない、とお茶を飲んだ。あいつがもうすぐ死んでくれるなら、願ってもないことだ。あいつが死ねば結婚解消となる。父と首無し稲荷の陰謀はあえなく二年半で幕を閉じるのだ。遺言書には結婚が何年間継続しなければならない、ということは書かれていなかったはずだし、わたしは晴れて自由の身となる。このマンションを紹介してくれた不動産屋へ行って、小さいアパートを紹介してもらおう。こんな晴れ晴れとした気分になったのはいつ以来だろう。
航太の母親はわたしにもう一度頭を下げると立ち上がり、航太のベッドルームへ向かった。わたしはやりかけの洗濯を終わらせるためにランドリールームへ戻った。すでに乾燥まで全て終わっていて、洗濯乾燥機のドアを開けると中の洗濯物は冷たくなっていた。
(第04回 了)
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*『四角い海』は5日にアップされます。
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