妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
駅からぼんやりと帰ってきてしまった、ということを覚えのない缶ビールで知る。真っ暗な店内でひとり、俺はポケットに入っていたコンビニのレシートを見て安心した。どうやら金はちゃんと払っていたようだ。さっき駅のホームで酔いは醒めたから、本当にぼんやりしていただけ。それでも買い物くらいはできるさとまだ冷たいビールを飲む。残りは半分ほど、ということは、家に帰る道すがら半分飲んだはずだがこれも記憶にない。すっからかん。いや、空っぽではない。今も頭の中にはコケモモ、そして強のことが詰まっている。正確にいえば、あのサングラスをかけた男の子は強なのだろうか。それだけだ。大きなクエスチョンマークがひとつ、頭の中を占拠している。
もう一度スマホを手にしたが、少し迷ってからテーブルの上に置いた。二階からテレビの気配がする。音は聞こえないが、点けていることは分かる。時間はまだ十二時前。マキも、何ならリッちゃんだってまだ起きているかも。そしてここまで反応がないなら、俺の帰宅は上に伝わっていない。これは狙いどおり。コツはドアの開け閉め。静かに大きく開け、閉める時は何度かに分ける。決して他人に誇ることのない匠の技だ。
明日は大晦日で予定はナシ。完オフ。本音を言えば、もう少しこの薄闇の中にいたい。余分な言葉を発することなく、ただだらしなくこの冷たいテーブルに頬をつけて頭を休めたい。でも、多分ダメだ。それくらい分かる。そんなことをしたら俺は必ずまたコケモモのインスタを覗く。強かもしれない男の子の顔を何度も見返し、他に写真が載せられていないかチェックし、最後はコケモモに連絡を取ろうとする。いつやらかしても最悪だが、特に今日は避けるべきだ。行き着くところまで行ったら、全てぶちまけることになる。年末年始には最もふさわしくない。とにかく危険な可能性を潰すため、今すぐ場所を移動しなくては。
二階へ上がると案の定テレビは点いていた。普段よりも豪華そうな年末仕様のバラエティー番組。マキはウトウトしていたらしく、「ただいま」と声をかけても反応が鈍かった。
「……ああ、おかえり」
「おお。あ、寝てたんだろ?」
「うん? え、今日もうあれ?」
今は夜で朝になると大晦日。そう伝えると、ようやく「あれ、結構早かったね」と調子を戻した。
「寒かったでしょ。お風呂どうする?」
「いや、明日の朝にするわ。で、ちょっと横になる」
寝るってこと? というマキに曖昧な返事を返して永子が眠る寝室へ。常夜灯のオレンジ色の中、音を立てないように身体を横たえ、ほっと一安心。もうこれでスマホを弄る誘惑ともオサラバだ。そんなことをして永子を起こしてはつまらない。
可愛らしい寝息を聞きながら考えていたことは、このコケモモの一件、俺はうまく収められるのかどうか。ドラマや映画のように、こうして悩んだ年の瀬を将来穏やかに、何なら笑い話として思い出せるのだろうか。でも、いつしかそれはうまくいかなかった時の想像に差し替わり、俺は慌てて眠ることに集中した。
翌朝、風呂から上がるとマキに早起きを褒められた。
「ゆっくり寝てても良かったのに。どうせ今日やることないでしょ?」
確かに例年年末年始だからといって、特別なことはほとんどしない。普段よりも少々贅沢な刺身や惣菜を買っておくくらいだ。今年はそれも数日前から進めていて、現在家庭用の冷凍庫と冷蔵庫はほぼスペースなし。実は店用の方にも微かに侵食している。
「あのさ、今日の昼間、タコパしない?」
それでもこんな提案をしたのは半分思いつき、もう半分はコケモモ効果だ。気を紛らすにはイベントごとに限る。
「タコパって、タコ焼きパーティー?」
「うん、それ」
タコ焼き機は、去年マキが職場で貰ってきたものがある。まだ一度も動かしていないがどうにかなるだろう。せっかくリッちゃんもいるから、という一言で急遽大晦日にタコパ開催決定。早速伝えるとリッちゃんも喜んでくれた。
近所のスーパーで冷凍のタコを買って、店のキッチンでパーティーをスタート。意外とリッちゃんが手際よく進めてくれる。「あれ、料理得意なの?」と尋ねたマキに、「得意っていうか好きで……」と照れ臭そうだ。
「あれ、調理部って中学にはないんだっけ?」
「どうだろ。リッちゃんのところは……」
「ないから、高校はあるところがいいかなって」
俺たちと話しながら生地を作っては流し込み、器用に焼いては皿に盛る。そんな姿をじっと見ている永子。リッちゃん来てくれてよかったな、と声にするタイミングでマキが囁く。
「あの子、手がかからないと思わない?」
「リッちゃん?」
「ううん、永子」
そっちか、と意外だったが理由は尋ねない。きっとマキの方から話すだろう。
「今もああしてリッちゃんの邪魔をするでもなくさ」
「まあ、たしかにな」
「なんか、ちょっと怖くなるのよね」
「?」
「反抗期とか、とんでもないのが来そうじゃない?」
「え?」
「で、最後に大ゲンカしてさ、お互い言いたいこと言い合ってようやく仲良くなる、とかね」
そうかなあ、と濁してしまったが、そんなドラマや映画のようなことはなかなか起きないような気がする。言葉にしなかったのは、マキに気兼ねしたからではない。昨晩考えていた、コケモモと強の件がうまく収まる可能性を否定したくなかったからだ。
粉モノは腹が膨れる。食後、みんな仲良く歯に青のりを付けたまま、腹ごなしに散歩をすることにした。昨日はそうでもなかったが、今日は朝から寒い。パーカーぐらいしか持っていないリッちゃんに、マキがコートを貸したが、発生したのがコーディネート問題。「そのパンツとは丈の長さが……」的な、俺にはよく分からないヤツだ。
結局色々と取り替えることとなり、二人は二階へ。俺と永子は一階店舗スペースで仲良く着替え待ち、と思いきや「パパちゃん、うえにいくの!」とのこと。早急に望みを叶えてやり、俺はひとり一階で待ちぼうけ。こんな隙間でもスマホに手を伸ばしそうになるのが怖い。ならば気分転換に一足先に表へ出てみる。予想以上に寒かったが、空気が澄んでいて見慣れた眺めがいつもよりも少しだけ美しい。今この瞬間、京都の空の下でコケモモは、俺のことなど忘れて新年を迎えようとしている。それでいいじゃないか、と思うにはまだ色々と生々しい。俺は冷気で頭を冷やしながら、微妙に明るい空を眺め続けていた。
結婚して、永子が生まれて、この家に引っ越して、と経過する中で「年越し」はイベントとしてあまり重要ではなくなってきた。それより永子メインのクリスマスや誕生日の方を頑張りがちだ。今年はリッちゃんがいるが大差なく、紅白の途中で永子が眠り、そのリッちゃんも友達とオンラインであれやこれやがあるとのことで部屋に戻り、年越しを待たずにマキと二人になった。
「リッちゃん、紅白以外の番組の方が良かったかな?」
「今の子、そんなにテレビ見ないみたいだし大丈夫じゃないかな。それよりティックトックやインスタの方がいいんでしょ?」
インスタ、という単語に敏感になっているのが情けない。そんなもんかな、と受け止めつつ、いつもより豪華な肴で酔っ払いながら、気付けば新年になっていた。最近は年越しの瞬間を教えないチャンネルも多い。俺たちが気付いたのは、部屋から出てきたリッちゃんが「あけましておめでとうございます」と頭を下げたからだ。慌ててマキと立ち上がり「おめでとうございます」と頭を下げる。初めての経験だったが、あまり違和感はなかった。
昔から初詣は遅れがちだ。子どもの頃から父親に「元旦に行っても混んでるだけ。誰が投げた賽銭かも分からないぞ」と教育されてきた成果でもある。それでなくても永子を連れて人混みに行くのは避けたい。
本来なら正月三が日は昼過ぎに起きてダラダラしたいところだが、今年はリッちゃんの手前、いつもと同じ時間帯に朝飯を食べた。並べたのは簡単なおせちとお雑煮、そしてお屠蘇も用意した。形だけ、と永子とリッちゃんにも少量注ぎ、改めて新年の御挨拶。四人で食卓を囲みペコリと頭を下げる姿にもやはり違和感はなかった。この先こんな感じでもいいかな、という感じ。
「ねえねえ、おめでとうさま、フフフ」
さっきから笑顔で繰り返している永子も同じ気持ちかもしれない。
昼飯は少し遅めでいいよね、と確認して一旦お開き。永子はマキが連れて行き、俺とリッちゃんで洗い物と片付けに取り掛かる。とは言え「私やるんで大丈夫」という頼もしい御言葉に甘え、俺は冷蔵庫からハイネケン。リッちゃんがいるから大丈夫だろうとスマホに手を伸ばす。
実は昨晩、年越しの後、目の前でウトウトしているマキを見ながら調べていたことがある。検索履歴には「日本 離婚 割合」、「子持ち 離婚」など物騒なワードが残っている。調査の結果、日本の離婚率は三割強。無論アクションを起こす為ではなく、その敷居の高さが知りたかった。即ち、ヒトは意外と簡単に離婚するのだろうか? 当然そんな疑問の向こう側にはコケモモと強、二人の姿がある。
新年早々、離婚の火種を持っていると自覚することはハードだが、だからといって目を逸らしても仕方ない。結局、三割強という離婚率が高いか低いか、よく分からなかったが知っていることに意味がある。俺は洗い物をするリッちゃんの後ろ姿を見ながら、物騒な検索履歴を消去した。
永子はリッちゃんとお絵描き、俺は撮り溜めていたビデオ視聴。そんなのどかな元旦の空気が揺れたのは夕方前、昼飯を食べてから少し経った頃だった。
「ちょっと外出てくる」
ソファーの上でだらしなく寝そべる俺にそう言い残し、マキが階段を降りていく。久々に聞く声のトーン。俺には分かる。あれだけ声が小さいのは激しい怒りの合図だ。
こういう時、スネにキズ持つ身は弱い。ビデオを一時停止する数秒を惜しんで後を追いかける。視界の端には驚いた様子のリッちゃん。大丈夫だから、と目で合図する余裕もない。つんのめりながら階段を降りると、マキはドアを開け外に出ようとしていた。
「ちょっと、マキ」
素早く振り返った顔、その眼光の鋭さにスネのキズが鈍く疼く。
(第33回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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