妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
この年の瀬に面倒くさいなあ、という気持ちは半分ポーズで半分本気だった。
きっとヤジマーはコケモモについて話し、きっと俺は興味がない振りをしながらその内容をしっかり受け止め、きっと家に帰るまで、そして帰ってからも、きっとスマホ片手に思い悩むはず。本当に面倒くさいし、本当に待ち遠しい……というこのアンバランスが今感じている「面倒くさい」の正体だ。少なくとも十二月三十日の忘年会がインパクトの強いイベントであることは間違いなく、その前日の年内最終日恒例・午後の大掃除は、何だかぼんやりしたまま過ごしてしまった。
俺たちが引っ越してくる前は、兄貴や姉貴も手伝いに来ていたが今はそれもない。去年は永子の世話をする手間もあるので、ベテランの両親に頑張ってもらっても結構時間がかかった。
その点今年はリッちゃんがいるし、永子は一人でおとなしくしていられる。両親には力仕事以外の部分を頼み、俺とマキ、そしてリッちゃんで重いモノや高いトコロを交代しながら攻めた。結果、予想よりも早く片付き、期せずしてピザを頼んで親族団欒の時間を過ごすことに。こういう時はぼんやりしている方が、時間が早く過ぎるのかもしれない。
「そういえば仕事始めなんだけどね……」
母親がさっき拭いたばかりのテーブルをまた拭きながら言う。
「今年はいつもよりゆっくりでもいいかしらね?」
例年四日、遅くても五日には開けるので、母親としてはそれよりも長く休みたいのだろう。なるほどマキはカウンターの向こうでピザを皿に移している。ちょうどいいタイミングだったようだ。
「了解。でも四日からって表に貼っちゃったから、一応店は開けるよ」
「貼っちゃったって、貼ったのいつよ。昨日や一昨日でしょ? 誰も見ちゃいないんだから、もう少し休んだらどう?」
その言いっぷりに思わず笑ってしまったが、何がこの人にそこまで言わせるのかは気になるところだ。「何でよ?」と訊いてみる。
「何でって、あんた気付かない?」
「?」
「エイちゃん、リッちゃんが来てから遊ぶ時間が増えたでしょ?」
「ん? ああ、言われればそうかなあ」
「言われれば、じゃなくてちゃんと増えてるわよ」
カウンターの向こうのマキに気を遣ってか、声を張らずにまくし立てようとするので大変そうだ。でも遊ぶ時間が増えるのは育ち盛りの永子にとって、良いことのように思えるのですが、御母様。
「いいことよ。だから言ってるの」
「?」
「本当はエイちゃん、今までだってもっとたくさん遊びたかったのよ。でも……」
グッと言葉を呑み込み、母親はピタリと黙った。きっとマキがこちらに来るのだろう。話途中だったが、正月にもっと休んだ方がいいと主張する根拠は理解できた。もちろんピタリと黙った理由もだ。「考えとくよ」と小声で告げると、母親は何度か小さく頷いた。
「Mサイズ二枚って結構あるかと思ったけど、そうでもないかも」
テーブルの上に置きながらマキが笑う。確かに大人四人プラス中学生と未就学児童の計六名なら難なく食べられそうな量だ。
「俺はビール飲もうかな。ちょっとハイネケン、買ってくるわ」
「だろうと思ってリッちゃんに頼んだ。永子が行きたいって言ったら、お義父さんもじゃあ一緒にって」
「で、三人がかりか」
まあ「仲良きことは」ってヤツだ。ではお先にと熱々のピザに手を伸ばした瞬間、母と妻から「まだダメよ」と止められた。
中途半端な時間にピザを食べ、俺もマキもアルコールが入った以上、これから夕食の支度をするという感じでもなくなり、大掃除後の綺麗な店内で何となくダラダラと過ごしている。このダラダラには年の瀬ムードの影響も大きい。何となくソワソワしたりワクワクしたり、そこはかとない非日常感が漂っている。大人でさえこんな感じだから、当然永子も落ち着かない。しかも普段は味わえない店内貸し切り状態だ。完璧な飲酒モードの両親に頼ることなく、リッちゃんを相手に大はしゃぎしている。ふとさっきの母親の言葉を思い出し、マキに尋ねてみた。
「リッちゃんが来てからさ、永子のヤツ、遊ぶ時間増えたかな?」
「いや、増えたでしょ、絶対」
「やっぱりそうか」
「仕事出ちゃうと分かんないけど、最近永子の寝付きがいいもん」
「日中思いっきり遊んでるからってことか?」
「と私は思ってるけど。で、リッちゃんにも訊いた」
「何を?」
「どのくらい相手してくれてるか。そしたらお店手伝ってない時は永子、みたいな感じだったよ。本気でバイト代出そうかなあ」
確かに言われてみると、リッちゃんは店の手伝いをしているか、永子の相手をしているかのどちらかだ。ぼんやりしているのは今日だけじゃないぞ、と密かに反省する。
「そうだ、あれも訊いたよ、イマジナリーフレンド」
「お、リッちゃんにも何か言ってたか?」
「いや、特に何も言われてないって」
すぐ寝られるほど存分に遊べれば、見えない何かを作り出す必要はなくなるのだろうか。そんな単純ではないような気もするが、マキは「そんな気がするんだよね」と同意してくれた。
「あとお姉ちゃんから二、三度連絡あった」
「へえ」
「迷惑かけてごめんね、が基本ベースだったけど、多分実家に行くタイミングとかを気にしてるのかなあ」
「あ、オヤジさんたちには内緒なのか。リッちゃん、うちにいるの」
「うん、お姉ちゃんが言ってないならね。私からは言わないし」
あのオヤジさんならこの事態をどう受け止め、どう動くのか。少し興味はあるが、こうして永子の相手をしてくれているリッちゃんを見ていると、このまま平穏に時が過ぎるのが俺としてはベストだ。
「そろそろ眠そうなんで、二階に行きまーす」
小声で伝えてくれたその姿に「ありがとう」と声をかける。永子はトロンとした目であくび中だ。着替えの用意をしてくるからとマキも二階へ上がっていった。
また近いうちリッちゃんに、トダの店に付き合ってもらおう。いや、いつも同じ店というのもアレだよな、なんて思っていたタイミングでスマホが震える。京都のコケモモ、ではなく奈良のヤジマーから。見れば「ごめん、忘年会ドタキャンさせて。風邪ひいた。今八度越え」とご丁寧に体温計の写真付き。早速トダが「明日待ってるから早く治せよ」と無茶なメッセージを送っていた。そうか、と一拍遅れて内側に波紋が広がっていく。そうか、ヤジマー明日来ないのか。じゃあコケモモの話は聞けないんだな――。
「変なウイルスだろうから無理するな~」というイノウエのメッセージを見ながら「新幹線でお見舞いに行こうか?」と送信する。しばらく間があり、ヤジマーから返ってきたのは変なキャラクターのスタンプ。何だそれ、と温くなったハイネケンを口に含むとマキが二階から下りてきた。
「やっぱりすぐ寝ちゃったわよ」
「あれ、リッちゃんは?」
「これから自分の時間を満喫するのよ」
「なるほど」
「だってここに来ても楽しくないでしょ、絶対」
そりゃそうだ、と頷いて新しいハイネケンを取りに行く。もうこれで最後の一本だ。
「ところで自分の時間って何するんだ?」
「分かんないけど、とりあえずスマホで何かするんじゃない?」
「そうなると、やっぱり心配だろ。変なサイト、たくさんあるぞ」
心配しすぎ、とマキは言わなかった。まあそうよねえ、とチョコを口に放り込む。
「リッちゃんも色々無理してるんだろうし、現実逃避じゃないけど何か楽しそうな世界があったら興味持っちゃうかもねえ」
正にそういうことを俺は心配しているが、こうして全肯定されると可能性を否定したくなる。いやでもさ、と言いかけた俺を「あくまで可能性よ」とマキは制した。
「うちのお母さんね、若い頃、車で人を轢いたことあるんだって」
「え? マジ?」唐突な話に思わず声が大きくなる。
「うん。お父さんにも内緒。お姉ちゃんは知ってるか分かんないけど、とりあえずトップシークレットだね」
「いや、轢かれた人は?」
「それはたいしたことなかったらしいんだけどさ、いや、人って見かけによらないっていうか、裏の顔があるじゃない?」
「裏の顔っていうか意外な過去か」
「そうそう、その両方ひっくるめて色々抱えてるでしょ? で、年齢は関係ないっていうか……」
何となくマキの主張が見えてきた。子どもだから抱えているモノがないわけではなく、年相応の何かは抱えている、ということ。それをリッちゃんに当てはめてみたのだろう。確かに彼女は色々と経験してきている。数年前、人を殺したくなったことがある、と教えてくれた記憶がよぎった。
「まあ自分じゃあまりピンと来ないんだけどねえ。ねえ、裏の顔、ある?」
こういう不意打ちが一番怖い。ないよ、という方がボロが出そうで「多分な」と答えたが、マキは反応せず「明日、何時頃に出るんだっけ?」とスマホに手を伸ばした。
前日のやり取りの通り「余り者」たちとの忘年会は行われた。特に話し合ったわけではないが、ヤジマーもいないし新年会の可能性があるならと、三人とも本気を出さないままお開きにした感がある。良いお年を、とヤジマー、トダの順に別れてひとりの電車内。午後十時過ぎ、車内には年の瀬のざわつきが溢れていた。
実は店にいる時から、いや、何なら家を出る前、本当のことを言えば昨晩、ヤジマーが来ないと分かった時からヤバいなと思っている。俺は昔から楽しみにしていたことが先延ばしになると、おとなしく待つことができず、とりあえず何かで埋め合わそうとしてしまう。
たとえばお目当ての品がなかった場合、急場しのぎでたいして欲しくない物を買って、その後長らく悔やんだり、楽しみにしていたコンパが流れたからとキャバクラに行ったり、そういう状況において呆れるほど堪え性がない。
だから今もずっと埋め合わそうとしている。ヤジマーからコケモモの話が聞けなかった分、今まで放っておいた「苔桃」名義のインスタグラムを覗き見しようとスマホに手をかけた状態で迷っている。
きっと見ない方がいいと思う。どんな結果であっても心穏やかに年を越せなくなる。分かっている。だから脆い。両国駅で降りた俺はホームに立ち尽くし、冷たい夜風に顔をしかめながら薄目であいつの今を覗き見し、すぐに画面を消した。
ああ、やめときゃよかったと即後悔する。一瞬見えたのは多分あいつの顔。今まで似ている女優の顔しか思い出せなかったくせに確信できる。あれはコケモモだ。あいつは弾けんばかりの笑顔で、サングラスをかけた男の子と頬を寄せ合っていた。
(第32回 了)
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