母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
六.
母が用を足す時いつも二階のトイレを使うのを不審に思っていた。
母は一階で寝起きしている。トイレもすぐ近くにある。なぜそれを使わないで、大変なのにわざわざ階段を上がってまで二階のを使うのだろう。
この家はある目的から二世帯住宅になっていて、トイレの他、小さな洗面台とキッチンが二階にもある。ぼくが寝起きする六畳の洋間は、廊下を挟んだトイレの隣だ。夜の零時を回っていた。そろそろ寝るかと枕元に本を置いたら、「トン トン トン トン」二分の一拍子よりやや遅いテンポで階段を上がる足音が聴こえてくる。母の息づかいが追いかける。オレに? こんな時間に何の用だ。ぞうっとする。ところが足音はぼくの部屋の前を通り抜け、トイレの扉を開ける音がそれに続く。
「何でわざわざ二階のトイレまで上がって来るの。大変でしょ。 転んだら危ないよ」
「一階のはこわれて使えないのよ」
壊れてる? そんなはずはない。一階のトイレはぼくもこの日使ったばかりだ。階下へ見に行くと、便器が詰まって汚水が溢れそうになっている。ああそういうことか。誤って尿もれパッドをトイレットペーパーと一緒に流してしまったのだ。これまでもたびたびそんなことがあったらしい。ある時は便器の外まで汚水があふれてトンでもないことになった。「何でこんなことするんだお前」ブチ切れた父に「あたし知らない」知らぬ存ぜぬの一点張り。それでも内心まずいと思ったのだろう、しばらくはわざわざ二階のトイレを使っていた。どちらのトイレを使うかが問題ではないのだけど、一階のとはどうも相性が悪いわね、とでも思ったか。そうはいっても毎回二階まで上がるのは脚がつらいし面倒に決まっている。それでついつい一階のトイレに入ったら、今宵またもや同じ轍を踏んでしまった。やむなく二階へ上がって用を足した。そんなところだろう。
トイレの奥には、そのために父が買って来たらしい、排水の詰まり取り用のラバーカップが備えてあった。ゴムの吸盤を便器の流し口へ蓋をする要領で突っ込みペコン、ペコンと勢いよくやるのがコツだ。「やめて。いいのよそんなこと。やめて」慌てて止めようと手で遮る母をよそに、たちまち貫通して汚水は流れていく。便器の中と外周りをキレイに拭って、これでもう大丈夫でしょ。「いいのよ、そんなこと」さっきからずっと嫌がっている母。いいのよじゃねえだろ。いま何時だと思ってんだよ。そっちこそいい加減にしろよ。とは口に出さなかったが、困ったひとだ。しかし母からすれば、じぶんの腹を痛めた子に粗相の現場やじぶんの汚物など見られたくはないだろう。下の面倒をかけては親の沽券にかかわる。まあ気持ちはわからなくもないが、事あるごとにこれではやっていられない。
久々に社宅のある浦和へ戻り、一泊して用を終えると、続いて千葉の習志野へ寄った。
かれこれ二十数年このかた、所帯を構えていた分譲マンションである。手放すことも空き家のままにしておくこともできない。育てていた観葉植物やノートPCもある。休む間もなく雨が激しく降りしきる中を自転車で病院へ。面会を終え、ずぶ濡れになって帰宅すると今度はデイサービスから送られてきた母を迎える。
「お帰り。楽しかった?」
「……」
「夕ご飯どうする。出前でも頼もうか」
「あるからいいのよ」
「冷蔵庫、空っぽだよ」
「……」
返事くらいしてくれよ。どっと疲れをおぼえる。まるで話が通じない。めきめきめきめきめきめき。ぼくの中で何かが目覚める大きな音がした。何者なんだコイツは。オレはいまからコンビニで何か買ってくる。あるってぇなら、テメエは勝手に何か食ってろ。
*
「八日から相撲が始まるから、その時には家でテレビを観たいなァ」と父。
「だといいね」
「看護婦さん、あんたから見てオレは退院できそうに見えるかね」
「先生でないと、退院は決められないので……」
「だから、あなたから見て、って言ってるんだよ。あなたの考えでいいから教えて。オレはどう見える?」
元の父の口調そのものである。身体も上向きに見える。なのに、まるで覇気がない。
いきなり何を思ったか、こちらを向いて、
「お前、シズ子がいくら財産を持っているか訊いたか」
「いや……」
「まあ言わないよな。あいつも結構ガメつい奴でなァ」
苦笑するしかない。
「強情でなァ。オレが豊橋へ転勤になった時、ついて来てくれと頼んだが、どうしてもウンと言いやせん。それで怒ってなァ」
「豊橋って……東名高速の時だね」
頷く父に、ぼくははるか昔の記憶を呼び覚まされた。
昭和三七年に着工された東名高速道路の建設工事に携わるため、豊橋へ単身赴任中だった父が、たまの休日を利用して鎌倉のわが家へ帰って来た時のことだ。当時ぼくは小学校に上がる前だったろうか。久々に親子三人水入らずの団欒の後、二人して二階へ上がって何やら話し込む様子だったが突然、
「何ィ」
という怒鳴り声へ重なるように「ピシャッ」という平手打ちの音が続いたと思ったら、ドンドンドンドンと階段を踏み破るように父が駆け下りて来るなり、
「もう帰るッ」
大声で吐き捨てながら出て行った。
廊下を肩で風を切るように去っていく父の後ろ姿と、二階の寝室で蹲って泣いていた若い母の姿が、幼いぼくの目に焼きついている。
女性に素直に愛情を示したり、甘えたりすることが出来ないひとだった。
満州事変の起きた昭和六年、現在の愛知県日進市藤枝町の農家に生まれた父は六人兄弟の長男、姉が一人、弟が二人、妹が二人いた。地元の農業高校を出、家督を継ぐはずだった片田舎のガキ大将の中に何が点ったのか。志を抱いた父は猛勉強の末、地元の大学の英文科に合格した。卒業式では総代に選ばれた。就職はT新聞が第一志望だったが、先に面接を受けていたT銀行へ内定、蹴ろうとして担当教員からこっぴどく叱られた。故郷を離れ東京へ赴いた父は、T銀行から当時再建の途にあったM道路へ送り込まれ、そこで辣腕を揮った。
「コワモテでねえ。社長にまで噛みつくようなひとは、あのひとくらいだったからね。そりゃ近寄りにくいよ、あんな面してるし、すぐカミナリが落ちるからな。だが上に媚びたりしないし、面倒見もいい。慕う者も少なくなかった」
かつての部下だったOBの一人はぼくにそう語った。
その父に嫁いだ母は名古屋市内の出身、その父つまりぼくの祖父はかつて大正天皇の近衛兵をつとめた地元の名士で弟は国会議員、駅前の小高い丘がまるごと敷地と屋敷という名家の三女だった。おっとりしたお嬢さん育ちだった母にとって、窮屈な四畳半のアパート暮らしは耐えがたかったはずだが、婿に口答えなどしようものなら、三軒両隣りに響きわたるような声で怒鳴られ叩かれ、黙り込むしかなかった。
鎌倉の二階堂と呼ばれる山あいに若くして戸建を構えるに至った経緯は詳らかでない。実家の援助があったとは、ある親族から訊いた。
文学に親しんだことがきっかけになって、かねてより鎌倉という地にはるかな憧れを抱いていたのだろうか。子どものころ、父と一緒に寝起きした二階の洋間には古い木製の本棚が置かれてあって、それを眺めるのがぼくは好きだった。茶褐色にヤケた蔵書からは咽るような淫靡なオーラが立ち昇っていた。英文科らしくサマセット・モームやオー・ヘンリー、バートランド・ラッセルらの原著が並ぶ中、川端康成の「眠れる美女」、大江健三郎の「死者の奢り」、安部公房「砂の女」、NHKの大河ドラマにもなった司馬遼太郎の「国盗り物語」などという本をぼくは思春期に入る前だったが、目ざとくこっそり抜き取っては、犯罪者になったような気持ちで耽読というより淫読した。
ぼくと九年の歳月を隔てて生まれてきた妹・祐子には、重い知的障害があった。
はた目には奇行としか映らなかった不可解な挙動の数々、わずかにおぼえた単語をたどたどしくつなげていく、一度聴いたら忘れられない独特の話法、世間からの好奇と忌避の冷たくぬめりつくような視線、自らの顔を、存在を消し去りたいと願っているかのように執拗にくり返された自傷行為、夜が更けるにつれヒューヒューゼーゼーと肩を上下させて一睡もできずに座り込んでいた気管支喘息の発作、不慮の交通事故と脳の損傷による二度の切開手術、その後遺症としてのてんかんの生涯にわたる重篤な発作、いつもうつむいて擦ってばかりいる虚ろな両眼をふとした拍子にこちらへ向けた時の、何かを激しく訴えるような眼差し。
「いっそ死んだ方が幸せだろうに」
見るに見かねて父はそう言った。それに応えるように二一歳の若さで世を去った妹の傍を、下の世話を含めて、母は片時も離れることがなかった。
そうでなくても横柄でワガママで癇癪持ちの夫の面倒を見、バカ息子が大学へ入るまで毎朝弁当を用意させられ、愚痴をこぼす相手すら上流指向の強い鎌倉という土地柄、田舎出で控えめな性格も災いし、ついぞできなかった。悩みの渦中にあった母は、Z学会という誰もが知る巨大な宗教団体に勧誘され入信した。爾来四十余年、時はいつしか夫から何を言われようと怒鳴られようと平然とやり過ごせるばかりか、「あんたみたいな乱暴で口汚い人とはねえ、もう別れたいわよ」と面と向ってハッキリものが言えるほどに、このひとを変えたのである。
七.
「オレのことを、藤枝には連絡したのか」
古い記憶の中に引き込まれていたぼくは、訊かれてはッと父を見た。
「いやまだ。親父の状況次第で判断しようと思ってる。連絡しといた方がいいかな」
「してないならそれでいい。なら上社にもしてないな」
「もちろん」藤枝とは父方の、上社は母方の、それぞれ郷里の呼び名だ。
「それより、もっと食べなくちゃダメだよ。こんなに残して」
話題を変える。
「食事を摂らなきゃイカンというのは分かってるんだ」
「なら頑張って食べなよ。こんなとこ早く出たいでしょ」
「ああ。……明日、新聞を持って来てくれるか」
「うん。いいよ」
「毎日頼む。スポーツ欄を読みたいんだ。相撲は日曜からだろ。今日は木曜か……今日は雨かな」
「外は晴れてるよ。」
「オープン戦は始まっているよな」
それなりに話は出来ている。外の世界に飢えている。いい兆候だ。
ところがいつも胸に付けている心拍モニターを見て、
「これは新聞じゃないのか。あんた、新聞持って来てくれ!」
看護師に言うのをみると、やはりおかしい。
*
ぼくは毎日病院へ通った。雨の日も風の日も欠かさず通った。
大船駅から病院行きのシャトルバスが出ている。母をともなうときは、病院からタクシーを呼んでそのまま家へ帰ることもあった。買い物をして帰りたいという母に付き合って、大船ルミネの食料品フロアや東急ストアへ寄ることもよくあった。駅の改札を通り抜けるとき、切符も買わずにどうするのかと見ていたら、革がボロボロに剥げ落ちた黒い手提げから徐ろにICカードを引っ張り出し、かろやかにタッチするのを見てほうと感心する。
あるとき大船ルミネで買い物を済ませたら、
「ごはん食べてく?」
と誘われた。そんなふうに話しかけられるのは、同居するようになって初めてのことだったのでぼくは面食らった。
ランチというにはもう遅い時間だった。
七階にある「つばめグリル」というハンバーグステーキの店へ、何のためらいもなくすたすた入って奥の四人掛けテーブルにつくと、母は慣れた様子でメニューをめくっている。
「前にね、ハワイアンの仲間と来たのよ」
もう二十年以上前だろうか。信者のお仲間と集ってハワイアン・ダンスにハマっていた時期がある。彼女のクローゼットはそれまでの年相応に地味な服とうってかわって、色どりも華やかなフリフリのレイやらフラドレスやらが占拠するようになった。
ある日鎌倉を訪ったぼくの目の前にハワイアンのCDとポータブル・カセットレコーダーと三〇分テープを置くと、
「ちょっとこれ、録音してくれないかしら」
しかもCDに収められた一〇数曲の中から一曲だけ、幾度も幾度もくり返し聴けるよう三〇分のカセットテープが両面一杯になるまで録音させるのだ。なかなかの熱の入れようだった。当時の愉しそうな姿を思うと、どうして急に老け込んでしまったのか不審に思わずにいられない。Z学会に寄付したのでなければ、特殊詐欺にでも遭ってしこたま盗られたんじゃないか。ぼくはそう疑っているのである。
理由は二つある。まず母親の保有していた預貯金を後々調べたところ、おどろくほど少なかったからである。父親から「ガメつい奴」と言われるまでもなく、家計簿はいつもしっかりと付けていて、ぜいたくや散財など考えもおよばないひとの口座が、これっぽちとは解せない。しかし古い通帳は存在せず、それらしい出金記録は発見できなかった。
もうひとつは、いまになってもなおこの家の固定電話には、ほぼ毎日のように手を変え品を変え魑魅魍魎たちからの勧誘電話がかかってくることである。カモになった家のブラックリストとして番号が流された証左ではないか。癪だからヒマなときはしわがれ声をして「もひもひ、ヘエいくら用意せにゃならんかの」などと騙されたフリをして遊んでやっている。
もう午後の三時近かった。ジューシーでそこそこ旨いハンバーグだった。ぼくと同じ二百グラムのランチセットをぺろりと食べ終えると母は、
「デザートは? 食べる?」
アイスクリームを美味しそうに平らげた。八十過ぎの老女とは思えないほどに旺盛な食欲である。ぼくが支払おうとすると「いいから」と手で制し、じぶんが払うと言ってきかない。ここは母の顔を立てて奢ってもらうことにした。母と息子、二人連れでレストランで食事するなんて物心がついてこのかた、これが最初で最後だろう。
名古屋のとある百貨店に勤めていた独身時代の母は、同じ系列会社のバスならば全路線フリーパスという特典を享受して、休日は同期入社のひとたちと女子旅へ行ったり、ラーメンを食べ歩いたりしたらしいが、結婚してからはすっかり家内の人になった。「たまには外でメシでも食うか」そう言い出すのは必ず父だった。出かけても、これは美味しいわねという台詞を、母から耳にしたことは絶えてない。鎌倉山にある有名なさる高級レストランで妹を入れた一家四人、たまの贅沢なステーキランチを楽しんでいたときも、唯一の感想はと言えば「このサラダ美味しいわねえ。三浦の野菜かしら」ホメることはめったにないひとだけに、その一言がいまなお思い浮かぶほどだ。たいていは「家で作ればいいのよ」と一蹴。せっかくだからたまには家族サービスをと散財する側の父も、これでは面白くないだろう。身内には余計な気遣いなどしない。その代わり、嘘もおぺんちゃらも飾ることも甘えることもいっさいしない。そのために父やぼくを怒らせようとも「フフッ」どこ吹く風である。くり返すが、一朝一夕にそうなったわけではない。
父が入院して以来、母は父のしていた安物の腕時計をいつもじぶんの左手首に嵌めていた。そして毎朝晩、お題目を唱えながら仏壇に向かって手を合わせた。「ナームミョー ホーレン ゲキョー 良くなりますように。お願いします」
八.
父が倒れて二週間が経っていた。
魔性の到来を告げるように、その晩は春の嵐が荒れ狂っていた。
もう零時を回っていただろう。二階にある自室のベッドで眠りについていたぼくは、なんとなく尋常でない気配を感じて目を覚ますと、部屋から出て階下をうかがった。すると風雨が窓ガラスへパチパチと強く打ちつける音に交じって、ドンドン! ドンドン! 玄関の扉を烈しく叩く音がする。ぞおっと鳥肌が立つのがじぶんでわかった。玄関は直ぐ階下にある。夢中で駆け降りると、扉の向こうから「開けて。開けて」と母の叫ぶ声がする。あわてて鍵を開けると、ずぶ濡れになった母が入って来る。顔を俯け目を合わさず、手には郵便物を二つばかり抱えている。その身体を抱えるようにして上へあげてやる。
「もうビショビショ」と言う母を見るとパジャマ姿ではなく、日中によく着ている茶の長袖シャツとコーデュロイ・パンツにグリーンのブルゾンを羽織っている。玄関は施錠されていた。開けたのはぼくだ。形跡から察すると、深夜それもこの天候なのに何を思ったか寝室のサッシ窓を開け、縁側から傘も持たず靴も履かずに外へ出て、郵便受けから何ら火急でもなく役にも立たないDMとチラシを取り出し、玄関から入ろうとしたことになる。
「こんな真夜中に何をしていたの。なぜこんな雨の中を。どうしたっていうの」
「……」
たとえどんな思いを秘めていようともまず表に出さないひとである。とるもとりあえず脱衣所まで連れて行くと、いつも以上に動作は緩慢だったが自ら衣服を脱ぎ出すので、隣のキッチンに引っ込んでそれとなく様子を見ていたら、浴室へ入りシャワーを浴びはじめる後ろ姿が閉め切っていないガラス扉の隙間からチラッと見える。
「何かしてほしいことはある?」
扉越しに声を掛けると、
「……」
「大丈夫か」
「大丈夫よ」
「じゃあオレもう寝るよ」
「おやすみなさい」
最後に交わした会話だった。
すでに深夜一時を回っていた。軽度の認知症、要介護2とは言え、身の回りのことはじぶんで出来たし、手助けしようものなら怒って他人の言うことなど聞く耳をもたない。まして実の息子の手を借りるなど母親の沽券にかかわる。そんな性分だったから、とはぼくの言い訳にすぎず、せめて風呂から上がって来るまでなぜ見届けてやらなかったのか、と悔やんだって遅い。放ったらかしたきり、さっさと二階のじぶんの部屋へ上がって眠りこけていたぼくがふたたび目を覚ましたのは、朝の五時頃だった。
外はまだ暗かったが、風雨はすっかり静まっていた。いつものように二階のトイレで小用を済ませ、じぶんの部屋へ戻ろうとしたらおや? 階下に明かりが点っている。下をうかがいながら階段をそろっと降りて行くと、浴室の扉が開いたままだ。光はそこから洩れ出ているのだ。お袋? あれ……からずっと? まさか。いま何時だ。さっき以上にぞわわーっと全身鳥肌が立って、ぼくはおそるおそる浴室を覗いた。その時目にした光景をぼくは死ぬまで忘れないだろう。母は湯舟に仰向けに寝そべったまま顔まで沈んでいた。引き上げようと慌てて抱きかかえた身体はつるつるっと滑って虚しく上下に揺れる。すでに硬直していた。手遅れなのは明らかだった。意味不明の叫びを上げながらぼくはなおも身体を揺さぶった。と、その拍子に口からブクブクと泡が出てきた。水を飲んでいなかった、つまり溺死でなかった証拠だが、その時はそこまで考える余裕なんてもちろんなかった。コチコチになってはいたが、ずっと湯に浸かっていたせいで身体は温かく、肌は八十過ぎの老女とは思えないほどスベスベだった。母はまるでうたた寝でもしているかのように、いや鼻歌をうたってでもいるかのように、さも気持ち良さそうな顔をして眠っていた。
とにもかくにも身体を湯舟から引き上げ外へ出してやらなくてはならない。ところが存外に重く、頭と腰のあたりを下から手を回して抱き上げようとするのだがつるつる滑ってつかみ所がない。しかも浴槽は大きくて深く、構造上いくら足腰を踏ん張ろうにも梃子になる支点が得られないため力が入らない。首から上が浸からない水位まで湯を抜いてからもう一度こころみるが、やはりうまくいかない。この時点で一一九番へ通報した。
「落ち着いて説明して下さい。まずあなたのお名前と住所は」オレは落ち着いてるよ、バカにするなと返すことばを呑み込んだ。レスキュー隊は三名、直ちに駆けつけた。かれらがことをてきぱきとこなす手際に感心する。警察へつないでから連中は引き返していった。これも感心するほどに早々とやって来た警察が「いちおう検死に出しますから」と言い置いて去ると、入れ替わるように訪れたこれも手慣れた葬儀屋に応対し、そのかたわら父母の郷里へ連絡を入れる。母は名古屋に姉が一人、上社の本家に弟がいる。もう一人の姉は日進市、末の妹は大阪である。父の親族たちは日進の藤枝を中心にほぼ全員在住している。続いてかかりつけのケアマネージャー円地さん、父の入院先、ぼくの勤め先のF社、デイサービスの担当、隣家でお世話になったSさん、宗教法人・Z学会のGさんと、相次いで連絡を入れる。父の勤めていたM道路には連絡しなかった。勇退して十年以上経つ。その妻の訃報を伝えるかは夫である当主にその判断を委ねたい。判断できるかどうかはともかく。
ぼくはいったん浦和の社宅へ戻って所用を済ませ、喪服を携えてUターンし、父のいる病院へ寄ることにした。
家を後にし、電車のシートに座り込んでも、ぼくの脳裏にはあの光景が焼きついて離れなかった。死ぬまで離れないだろうな。あの大きな湯舟にはもう浸かれないな……。春が荒ぶり咆えた夜だった。春に浚われて行ったかのようだった。とうに日は昇っているのに、ぼくは未だ明けない闇夜の中にいた。
それにしてもあの家でのお袋の存在感の、なんと大きかったことか。あの屋敷はお袋そのもの、お袋の身体だった。親父が倒れてからお袋と過ごした二週間、ろくに会話らしい会話もなかった。なのに何と濃密な時間だったことか。こもごもの思いが幾重にも押し寄せぼくを圧倒した。湘南新宿ラインの車中でぼくはただ呆然としていた。長い長い悪夢が続いたあげく、醒める方法を忘れてしまった子どものように。何、醒めるだって。醒めるという思い自体、悪夢がオレたちをあざ笑うために見せるもうひとつの夢じゃないのか。
九.
参っている場合じゃない。これから父に母の死を告げなくてはならないのだ。心身ともに弱っているいまの父親に伝えるのはためらわれた。元気になるまで隠しておこうか。そんな考えもチラっと浮かんだ。だったらいつ伝えるんだ。このまま知らずに父が死んだら、その負い目をぼくは担い切れっこない。真実はどうしてもいま告げなくては。先送りしてはいけない。本人がどう受け止めようとも。
ナースセンターへ寄ると、看護師たちが口々にお悔やみを言いながら、ぼくの背中を押してくれた。眠っていた父に声をかけて起こすと、ひと呼吸置いて、
「あのなあ親父、聞いてくれ……お袋がなあ……死んじまったんだよ」
目を剝いてぼくを見た。
「シズ子が死んだ?」
「昨夜のことだよ。一人で、真夜中だというのに風呂を沸かして入って、溺れ死んじゃったんだ……オレはその時寝てしまってて気づけなかった……オレがついていたというのに、こんなことになってゴメン……ほんとにゴメン」
父は仰向けの姿勢でぼくの方を向いたまま大きく見開いた目を瞑ると、眉間に皺を寄せ、腹から絞り出すように言った。
「……だからオレは、それが一番心配だったんだ。風呂は気をつけないといかん。そうアイツに言ってたんだ」
父は事実を冷静に受け止めていたように見えた。だがぼくは見誤っていた。このときのぼくには、父の受けたショックの深さを正しく見積もれていなかったのだ。
ぼくは病院に頼み込んで、父を一時退院させることにした。何はともあれ母に会わせてやらなくてはならない。通夜を共にし、別れを告げさせ、久々のわが家でひと晩ゆっくり過ごさせてから、翌朝病院へ戻す。葬儀は自宅で、近親者中心の家族葬とする。父も久々に郷里の人たちに会うことができる。式は母の信奉していたZ学会のひとたちが執り行ってくれることになった。かれらの言い方では「友人葬」とか「友だち葬」などと言うらしい。僧侶はおらず、地区ごとに信者代表にあたるひとがいて、そのひとがお題目を上げに来る。参列者の中には抵抗のあるひともいるかもしれないが、母が熱心な信者だったことを知らない者はいない。
方針を決めるとまず介護タクシーを手配した。病院から家までの往復は運転手さんが車イスで運んでくれる。ケアマネに頼み、家で一夜を過ごすあいだは介護ベッドをリビングへ仮設してもらい、夜と翌朝の各々一時間、ヘルパーが入ってくれる手筈になった。喪主になると誰しもが経験すると言われるけれど、その通りだった。悲しんだり感慨に耽ったりする余裕はひと呼吸ほどもなかった。参列者の前で何をしゃべったかもおぼえておらず、気づいたら荼毘に付されていた。火葬場から親族をタクシーで鎌倉駅まで送り、骨壺を家に置いてから父を病院へ戻す。タクシーの中、バックミラー越しに車イスに座る父を窺い見る。表情からは何も読み取れない。帰宅するなりぼくは玄関口でヘタリと倒れ込んだ。あれれー腰ってホントに抜けるんだあ。「腰を抜かす」っていう、このことばを思いついたひとは大したものだな。妙に感心した。
十.
検死のため遺体が運ばれていった朝、いつも母がお題目を上げていた仏間の和卓の上に、祐子の写真が一枚置かれてあるのに気がついた。見覚えのない写真だった。前からそこに置かれてあったならきっと目に留まったはずだ。通っていた地域作業所のイベントだろうか。「江ノ島植物園来園記念」と書かれた看板の横、等身大のインディアンの女の子を描いたパネルに並んで、祐子が所在無げに佇んでいる。顔の部分がくり抜かれ、その穴から顔を出して記念撮影できるという、よくあるイラストパネルだが、どうしたら良いのかわからず、穴から手だけ出して不満そうな妹に指導員らしい女性が笑って何やら話しかけている。
祐子も母と同様、入浴中に突然逝った。前触れがなかったわけではない。最後の二日間、妹はかつてないほどいい状態だった。旅立つ前日、父と連れ立って大船のフラワーセンターへ散歩に出かけた。春の陽がポカポカと射して、またとないお出かけ日和だった。いつもなら家の中で終日塞ぎ込んでいる妹を、無理やり手を引っぱって連れ出した。歩いている途中でグズり出しその場に座り込んでしまうことも多かったが、どういうわけかこの日は素直で言うことをよく聞いた。ちょうど昼時になったので、近くの売店で買ってきた寿司弁当を二つ、妹の目の前に並べて置いた。ひとつは海苔巻き弁当、もうひとつは海苔巻きと稲荷寿しのミックス弁当だった。
「どっちがいい?」
父が訊くと、
――いなりずしがいい
即答した。こんなやりとりがいまも記憶に残るほど、この日は別人のように聞き分けが良かったんだと父。
その翌日、めずらしく早起きした妹は、
――ポポのうちにいく
と言い出した。
〝ポポの家〟とは、当時由比ヶ浜にあった知的障害者のための地域作業所の呼び名である。大船の養護学校を卒業すると、自宅から一キロほどのその施設へ歩いて通っていたが、なじめなかったらしい。しばらく家に引きこもっていた。それがじぶんから「いく」と言い出したものだから、母はおどろいた。「まるで仲間に最後の挨拶をしに行ったみたいだったのよ」大町のわが家に帰ってくると、どこか遠くをふりかえる眼をしてつぶやいた。――すごくいいこだった。夕食をすませ、母とふたりで入浴し、ふたことみこと会話して母が先に出ると、いつも後から一人であがってくるのがいつまでも出てこない。覗いてみると、湯舟にしずかに突っ伏してこと切れていた。春の彼岸入りの宵だった。じぶんで付けた傷痕がすっかり癒えたように、湯から上がってさっぱりしたわと言いたげな、おだやかな顔だった。紫色にこわばった唇へ、父母は泣きながら薄紅を塗った。生まれて初めての、そして最後の化粧だった。
それから二十七年後、平成三十年の二月だった。土日にかけこの家を訪れた時だ。両親とも息災だった。父が倒れたのはそれから二週間後のことだ。泊まりに来るたびぼくが寝室として用いている二階の六畳の洋間に、小さな書棚がある。昔から用いていた本棚で、習志野には置き場所がなく、この家へベッドと一緒に運んでもらった。そこから一冊の本が抜かれ、同じ部屋にある別の本棚の天板の上にそっと置かれているのに気がついた。それはエリザベス・キューブラー・ロス博士の「新・死ぬ瞬間」という、ベストセラーのシリーズ本のひとつだった。子どもの死をテーマにした内容で、わが子の不慮の死に直面し悲嘆に暮れる肉親へ向けて「死を悲しんではいけない。死とはあらたな世界への旅立ちなのだから」と語りかける、いわゆる「癒し系」のはしりの本である。
ぼくではありえない。誰かがこの本の背表紙に目を止め、ガラス扉を開けてそれを中から取り出し、手にしてから別の棚へ置いたのだ。そのときはあれっと思っただけで、それきり忘れていた。いま思えば、母しかありえない。現実家の父が関心を持って読むような本ではない。母がそれをどこまで読み、何を思ったか。知るすべはないが、わが娘のことを思い浮かべていたのは間違いない。それ以外に明確な意思をもってわざわざガラス扉を開け、その本を繙く動機があろうか。あるいは自らに近々起ころうとしている運命を予感してのことか。ともあれ、こんなささいなことでも偶然ではない鎖へ結ばれているように思われてならなかった。母も妹も誰にも何も告げず、一人旅立って行った。縁と言うに尽くせない時空に結ばれた母子だった。
告別式の時である。
参列者の一人で、母と親交のあったYさんというひとが帰りしな、ぼくを呼び止めた。伝えておきたいことがあるという。ある時母がこんな話をした。祐子が逝って丸三年を迎えた頃である。枕元に立ったのだという。いつも顔を伏せたきり、シクシク泣いているように両手で目を擦り続けて鬱々と沈んでいた晩年の祐子とは見紛うような、凜とした姿だった。母の前に三つ指をつき、深々と頭を下げるとこう言った。
――おかあさん。いままでお世話になってありがとうございました
「それでねえ、それまで痞えていた気持ちがふうっと晴れて、楽になったのよ」
母はそうYさんに語ったという。
そんな話は聞いたことがなかった。父にも訊いたが「知らんな、そんな話は」このときの父は意識も記憶もまだしっかりしていた。
祐子が逝ってほどなく、父母は大町の谷戸の奥から駅に近い笹目の現在の家へ居を転じた。母がフラダンスに興じるようになったのもこの頃からだ。お仲間とハワイまで連れ立って行ったり発表会に出演したり、離れて暮らすぼくから見ても何だか若やいで愉しげで、ふっ切れたようにみえた。あれから三十年か。ゆうちゃん、君なんだろ。春の嵐にまぎれて。葬儀が終わってみれば、家の中は空き巣に入られた跡のようになっていた。一人ぽつんと取り残されたぼくは、固くて冷え冷えとした廊下に座りこんだまましずかな戦慄をおぼえていた。
(第02回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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