母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
一.
「燃えるゴミ、今日だよね。捨ててくるよ」
実家を訪っていたある日、ぼくはとうとう見かねて申し出た。
「いいのよ置いといて。庭木の肥やしにするからいいのよ」
「いいって……じゃいつ運び出すの」
「あたしやるからいいのよ」
相変わらずガンコな女だな。それとも母親としての矜持が許さないのか。子どものくせに要らぬお世話なのよ、ってか。子どもって、オレもう還暦に近いんだけど。
薬缶に火を点けると、沸くのを待っている時間も惜しいのか、そそくさと掃除やアイロンがけを始めてしまう。薬缶のことなどたちまち忘れている。
「ちょっと! もう吹いてるよ」
「この前も空焚きしてな、あやうく火事になりかけたんだ」
「火事なんて、別にそんなことないわよ」
雑巾を手に戻って来ると、そう返す。
「ナニ言っとる。いま使っている薬缶は今年でもう三台目だワ」
吐き捨てる父。
八十六になっても短気で剣呑な気性は何ひとつ変わらない。
妻のもの忘れが酷かったり粗相したりするたび、「たわけっ」と大声で叱ったり怒鳴りつけたりするのは日常茶飯事だ。でも言われたご当人はケロっとして動じる気配すらない。怒鳴っている最中も、キッチンテーブルで横の席に座っているぼくへ向かって目くばせするように「フフッ」と笑っている。「いっつもこうなのよ。しょうのないひとよねぇ」
こんなふうに少しずつ子どもに還っていくのか。あるいはもう夫に束縛されることなく、誰に何と言われようがじぶんの好きにやろうと固く決意したのか。
平成二九年の五月、連休明けのことた。
なぜか老化が目立って酷くなった。それまでは笹目の家から大人の足で一五分ちょっと、鎌倉駅東口、小町通りや八幡宮へ行く側の右手にある東急ストアまでママチャリを漕ぐか、歩いて買い物へ行くのが日課だった。ところが半年も経たないうちに腰が「く」の字に折れてヨボヨボになり、あれほど嫌がっていた杖に頼らずには歩けなくなった。両足の親指と人差し指は外反母趾のため二本の蔓が互いに巻き合うようにクネクネと奇形化し、爪先は指の根元までめり込んでいる。それでも本人は「大丈夫よ」と言って日々買い物に出歩いては、味噌汁に入れるシジミやワカメ、好きな野菜や旬の果物、さらにはアイスクリームやら炭酸飲料やらあんパンやら買い込むと、使い込んでボロボロになった黒い革の手提げとレジ袋を両手にぶら下げ「よいしょ、こらしょ」とカニ歩きで帰って来る。
買い物が何よりの楽しみだった。執心ぶりは病膏肓と言いたくなるほどだった。いつだったか、台風がまもなく上陸するというのに出かけると言って聞かず、しぶしぶ父が付き添った。東急ストアでしこたま買い込み父に持たせて帰ろうとしたちょうどそのとき、垂れこめた黒雲から数メートル前すら見えなくなるほどの雨がしぶきを上げながら落ちて来て、タクシー乗り場にはたちまち長蛇の列ができている。東急で雨宿りしていればいいものを、すし詰め状態のバスへ乗り込み、由比ガ浜通りのローソン前で降りた。家まで四百メートルというところで路面は冠水し川となり、二人揃って両手にポリ袋を下げズブ濡れのまま立ち往生した。さいわい近所のひとが見かねて母の荷物を持ち、家まで手を引いてくれた。
言い出したら聞かない性分だった。がそれは、まだマシな方だった。買ったことを片端から忘れては、また同じモノを買い込んでしまう。冷蔵庫と台所周りは食料品と生ゴミの袋であふれ、夜、トイレに起きたついでにペットボトルのお茶でも呑もうと来て見ると、冷蔵庫を囲んでゴキブリがごそごそと忙しく集っていた。
まあしかしそのていどのもの忘れなら、ぼくだってときどきやらかすことだ。それが五月の下旬、突然母から電話があった。
「アツヒトかね」
「うん」
「あんた、この前の連休の時になんで家へ来なかったのかね。来るって言ってたのに」
「えっ」
ぼくは一瞬固まった。
「何言ってんの。この前そっちへ行ったばかりじゃない」
「来ないわよ」
「会ったばかりでしょ、忘れたの」
「そうだったかしらねえ。あんた大丈夫? ついこの間のことよ」
あーこれが認知症ってヤツか。予備知識はあったものの、いざじぶんの肉親がそうなってみると、やはりショックだった。もっとも八十になる母は母で、老年と言うにはまだ早すぎる五十六の息子があたしより先にボケてきちゃって心配だわよ、と言いたげだった。なるほど母と息子、どっちがボケてるのかげんみつには第三者が観察しなくては判定できないだろう。じぶんで認知症とわかるくらいなら、認知症とは言えない理屈だ。
二.
その母が行方不明になった。
同年の二月三日、節分の日の午後である。
豆まきを見に行くと言って一人で長谷観音まで歩いて出たきり、夕方になっても戻らない。長谷観音へ行くには、家を出て三百メートルも歩くと由比ヶ浜通りに出るから、それを右へまっすぐ道なりに歩いて突き当たったらさらに奥へ進むだけだ。家から一キロメートルというところだろう。近いからと、バスを使わず歩いて行ったのかもしれない。あてもなく右往左往している老女のヨタヨタ姿を不審に思った近くのひとが、交番へ通報して御用、いや身柄確保となった。名前と電話番号を訊き出した警察が父へ連絡を入れた。電話番号くらいは言えたんだ。
長谷観音に着いた時には豆まきはとうに終わっていた。引き返そうと何処へどう向かったのやら、それとも饅頭でも買って帰ろうと店を物色していたのか。帰りの客でごった返す中、道が分らなくなって迷子になったらしい。帰るにはもと来た目抜き通りをただ真っ直ぐ引き返せばいいだけなのだが……。先回りして警察に連絡していたばかりか、事情を訊かれ続けるのがうっとうしくなって、
「いいからとっとと探せ」
お巡りさんとケンカしていた父はそこでホッと胸をなでおろした。はや日も暮れようとしていた。心配をよそに、パトカーに乗せられて帰って来た本人はいたく不満顔で、
「あたし、これぐらい歩くからいいって言ったのにねえ」
それから一年近く経った、十一月のことだ。出張で宇都宮へ向かう新幹線の車中、モーニングコーヒーを飲んで一人くつろいでいたぼくの携帯がふいに鳴った。父からだ。
「アツヒトか」
「うん。何かあった?」
「朝メシの時間になってもシズ子が起きて来よらんのだ」
父の部屋は二階で、書斎とクローゼットとバルコニーの付いた二〇畳、南西に面した日当たりのいい洋間だ。母は玄関を上がって廊下の右手、東側の一番奥まった六畳の和室を居室にしている。つまりお互いこの家の陽と陰、対角線の端と端、もっとも離れた場所に寝起きしていることになる。朝食は七時前後だ。
「シズ子はいつも早起きだからな。暗いうちからゴソゴソ動き回っとるで、オレより遅いなど無いことだ。それで心配になってな、部屋を覗いたら、ベッドから畳へ落ちたとみえる。倒れ伏したまま動きゃせん」
「ええっ」
「ひっくり返したら幸い息はあった。そのまま寝かしとったら意識も戻って来た。本人がもう大丈夫だから止めてくれとあんまり嫌がるから、救急車は呼ばず様子を見とるが……」
勤め先の会社には事情を少々大げさに伝えておいて(ほんとうに大げさになる可能性は十分あった)、宇都宮駅で降りるとぼくはすぐさま新幹線を折り返し、上野駅から東京上野ラインに乗り換えた。鎌倉へ着いた時には正午を回っていた。
ところが玄関には鍵がかかっていない。
「おーい。誰かいないの。おーい」返事はない。
勝手に上がって右奥の和室を覗くと、廊下から部屋へ入る框のあたりで母がうつ伏せに倒れている。傍らでアイロンがしゅーしゅーと蒸気を吐き、衣類が散乱している。こんな身体だってのに、起き上がってアイロンをかけようとして気を失ったのだ。火事のおそれ以前に、あやうく顔を火傷するところだった。
クリップを挟むパチッという音がする。二階のバルコニーで洗濯物を干しているらしい。たかだか洗濯であっても、父が家事を行うなんて、ぼくの記憶の中には子どもの時から数えるほどしかない。大丈夫? 耳元で声をかけると幸い反応がある。何とか上体を抱え起こし、相撲取りの股割りみたいな恰好で座らせる。意識を取り戻した証拠に母は汗びっしょりとなって、雫がアゴからポタポタ落ちている。部屋の窓を開け放し、傍らにあった団扇で扇いでやる。
「大丈夫よ」
再びアイロンを手にする。じぶんの置かれている状況が分かっているのだろうか。
そこへモノ干しを終え、階下へ降りて来た父が、
「何でアイロンなんてやるんだ。このクソだわけっ」
頑として言うことを聞かない母。だが自身の身体も言うことを聞かない。
しばらくすると手を持ってやればヨチヨチ歩きくらいは出来そうな様子なので、タクシーを呼んで近所のかかりつけの整形外科まで連れて行くことにした。なぜ整形外科なのかと言えば、本人が「いいのよイケガヤさんで」と言い張って聞かないからである。こうした老人の扱いに慣れた医師なら、診て他の専門医にディスパッチくらいしてくれるだろう。
骨に異常はなく、以前から処方されている骨粗鬆症の薬と貼り薬をもらうと、再びタクシーを呼んで帰る。子どもの時は手を引いてもらっていたぼくが、半世紀を経て初めて母の手を引いた。立場が逆になったことへの感慨を抱く余裕はそのときのぼくにはなかった。
「買い物に行かなくちゃ」立ち上がろうとする母を、もういいからと何とか押し止め、脚の不自由な父の代わりにぼくが東急ストアへお遣いに行く。玄関を出ると、隣家の幼い女の子が門前で待ち構えていた。「おばあちゃんに」と一輪の白い花を差し出してぼくにくれる。へえー。幼稚園の年長さんだろうか。そんなことをしてくれる子もいるんだ。てっきり人づき合いの悪い固陋な老夫婦と近隣から煙たがられているかと思ったら、そのていどの交流はあるのだな。意外だった。
カルピスウォーター二本、三ツ矢サイダー一本、蜆ふた袋、お茶っ葉、ロックアイスの大袋二つ。言われたままにメモして買い込んだ。ロックアイスなんていったい何に使うの。「……」だいぶ動けるようになってきた母を父に委ね、じゃ明日は仕事だから今日はこれで、と帰路についたのは夕方の五時過ぎだった。お腹がぎゅるるると鳴った。そういや朝から何も食ってなかったな。久しぶりに「ひら乃」で特製味噌ラーメンでも、と小町通りを覗いたらあいにくの休み。トホホである。でもこのときはまだずっと良かった。父に母を任せて浦和の社宅までUターンすることができたのだから。
以前の母には、こんなことはけっして無かった。家の中のことはいつも隅々まで切り盛りするひとだった。ちょっと会わないうちに老いが虫食いのように進んでいる。その早さに戸惑う。母の家系は老いるにつれ耳は遠くなるけれど概ね丈夫で長生きだが、母は例外らしかった。耳は聴こえるのだが話しかけても反応が乏しい。意思疎通に困難をおぼえる。腰が曲がったせいか頭一つ背が縮んだように感じる。足取りはヨタヨタである。電池切れのロボットのように意識が途切れることがある。先日は何を思ったか、洗濯機が稼働中なのに排水ホースをわざわざ排水口から外してしまい、脱衣所が踝まで浸水してしまった。あふれ返った水たまりを、雑巾一枚で虚しく掻き続けている。
食欲は旺盛、甘いモノは和洋何でも大好物である。なぜかオーブンではなく、フライパンで魚を焼き、じぶんでむしゃむしゃ食べている。
ご飯だけは炊くが、それ以外の調理はしない。昔はそんなことはなかった。ご飯だっていまは炊飯器だが、以前は圧窯を用いていた。ぼくがたまにこの家を訪れると、聞いたことのない名前の鎌倉野菜と紀伊国屋の季節のフルーツをふんだんに盛ったサラダ、添えられた手製のドレッシングと岩塩、干し椎茸と利尻昆布から丁寧にとった出汁の効いたシジミの八丁味噌のお汁、ワインのほのかな香りとともに、何のスパイスを用いたかさあ隠し味を当てて御覧なさいと言わんばかりの魚と肉料理、グラタンに揚げ物に寄せ鍋に、まあずいぶんと手の込んだ料理を並べてくれたものだ。
それがあるとき急に「わたし、もう揚げ物はやらない」と宣言してから順次手を引き、いまではナツメグだのセイロンシナモンだのオールスパイスだのコリアンダーだのセージだのパプリカだのと、横文字のラベルが貼られた数十本もの使いかけの香辛料が、広々としたキッチンの隅に横倒しになって残骸のように転がっている。
とはいうものの家事へのこだわりに変わりはない。炊事に洗濯、床掃除に窓拭き、アイロンがけ、買い物……何かひとつくらいは手伝おうと溜まった食器を洗っているぼくを見咎め「やめて」と制する。ぼくに家事をやらせたくないわけではなく、洗剤を使うのがイヤらしい。洗うのに水道水しか使わせない。
「これじゃ油汚れ、落ちないだろ」
「洗剤はダメなのよ」
「じゃ何で置いてあるんだよ」
「洗剤はね、よくないの。あとでやるから」
会話になってない。
とりわけ買い物への執着が半端でなかったのはもうくり返さない。主婦の本能であり生きるためのルーチンでもある家事への執心は、あるいは衰えを堰き止める力になるかもしれない。けれど百まで生きるだろうと思っていた母の命にも、限りがあるのだなと実感したのはこの時だ。そうは言ってもしぶといからな。あと十年、九十までは生きるだろうな、いやそれ以上か。東京オリンピックはこの家で一緒に観ることになるんだろうなァ。ぼくはため息をついた。
三.
平成最後の年が明けた二月の末、今度は父が倒れた。
庭弄りをしている最中、不意に意識を失ったのである。四十代で糖尿病を患っていた父は、それまでもたびたび低血糖に陥ることがあった。このときは運悪く、倒れざま庭石へ頭をひどく打ちつけたらしい。倒れたところを母は目撃していた。じぶんの居室から窓ガラス一枚を隔てた、すぐ目の前のできごとだった。
何事につけマイペースの彼女だったが、さすがに夫の緊急事態である。庭先へ飛び出して身体を抱えるなり、曲がった腰で玄関まで「よいしょ、よいしょ」と芝生の上を引きずって家の中へ運び入れようとした。このころ父の体重は六〇キロを優に超えていた。火事場のバカ力とはこのことである。ほんとうは彼女が飛び出した縁側から和室へ運び入れた方が至近距離だが、一人で身体を持ち上げるには段差がハードルになる。迂回するのが正しい判断だ。しかし玄関まで回り込むと十数メートルある。途中で力尽き、立往生していた。そこへ隣家のご主人のSさんが気づいて運び上げ、来客用のテーブルとソファーを押しのけフローリングの床へ寝かせると、救急車を呼んでくれた。リビングの角に置かれた固定電話の上の壁面に、周到な父は日頃から万一の事態を想定して「緊急連絡先」とボールペンで認めた紙を留めておいた。それを見たSさんから携帯へ連絡をもらったぼくは、そのころ単身赴任していた浦和の社宅から、とるもとりあえず二時間半かけて鎌倉の家へ駆けつけた。
金曜の夜だった。どうすると訊いたら即座に「行く」と言う母を連れ、大船駅からタクシーに乗って父の運ばれた大船のS総合病院のICUへ赴いたときには、もう一〇時半を回っていた。
父は重篤な状態だった。
後日渡された診断書を見ると「脳挫傷・急性硬膜下血腫・外傷性くも膜下出血」とある。ものものしく書かれたものだ。酸素マスクに覆われ何本もの管に繋がれて、その間から右目の上のあたりに大きな瘤ができて血が滲んでいるのが見える。一本の管は人工呼吸器につながれ、心電モニターにはよくテレビドラマで見るように心肺の状況が数値とグラフで刻々と表示されている。
「あんたっ」「オヤジ」
二人で呼びかけるとわずかに眼を開き、反応する。
「手を握ってあげて」
寄り添っていた母は手を取ると、
「まあ、冷たい」
運び込まれた当初はかなり暴れていたらしい。麻酔を打って沈静させましたと傍らの看護師がいう。意識不明の状態でうわごとのようにペチャクチャと意味不明なことを喋り続けている。脳の中をCTスキャン画像で見せてもらうと、素人のぼくにもそれとわかるほど決壊した血の影がシミのようにできていた。八十代後半の老体である。事態はすぐに飲み込めた。
「年齢的に負荷が大きいので切開はしません。基本は投薬治療で、一週間ほど様子をみます。後遺症は避けられませんね」
若い。聡明そうで、いかにもテレビドラマに出てきそうな主治医である。うんざりするほどの数の書類にサインさせながら、「では別のオペが待ってますのでこれで」とぼくに告げてそそくさと姿を消した。母を連れてタクシーで帰宅したのは、零時半ころだったろうか。眠れないまま鎌倉の家でその夜を過ごし、翌朝、母をともなって再び面会へ行った。受付時間前だったが、〇×先生に呼ばれたからと適当なことを言って通り抜け、エレベーターでICUへ。
「シズ子とアツヒトだよ。大丈夫か」
大丈夫? 大丈夫? 耳元で何度もくり返すと頷いて、眼に涙を浮かべた。昨夜よりだいぶ反応は良くなっている。よく喋る。饒舌と言っていい。止まらない。わけのわからないことをブツブツと呟き続けている。何かこちらに質問しているようなのだが、意味がわからない。察すると、いまじぶんがどこにいるのか、どんな状態にあるのか認識できない、どうも納得がいかないということらしい。父の郷里に七つ下の末弟で、ぼくの叔父にあたるひとがいて、父はこの弟をとても可愛がっていたのだが、似ていると言われたことは一度もないのに、ぼくの顔をまじまじと見てから、
「ああお前……忠広か」疲労感がつのる。
ベッドから落ちないよう手足を緋で固定されているのだが、それをイヤがって「チクショーめ」と振り解こうとする。ブツブツ言いながらしきりに身体を捩っている。幻覚か妄想に襲われているのか。看護師がオムツを取り替えてやると、安心したのか静かになった。
二日目の夜は母とひと悶着あって、またもや床に就くのが遅くなった。夕食に出された焼き魚、味噌汁、はんぺんはいつから冷蔵庫に入っていたものだか、ラップ越しでも古いと判るのをそのままテーブルへ置かれ、箸でつまむ以前に異臭が漂い不味くて冷たくて食べられたものではない。鍋に数個ばかり残っていたおでんも冷えたままだった。やむなくレンジで温め直したご飯一膳に味噌汁一杯、おでん二個。非常時である。腹の足しにはとてもならないがまあ仕方ない。と思ったら今度は、
「お風呂へ入りなさい」
服を脱いで浴室を開けると、自動給湯されるはずの湯舟にお湯が入っていない。栓を閉め忘れていたのだ。すでに零時を回っていた。
「今日は風呂なんて入らなくていい。もう疲れたから寝る」
「何でそんなこというの。すぐお湯入れるから入りなさい」
どうするのかと思ったら、給湯し直さないで蛇口からお湯を注いでいる。栓をしていなかったせいで空焚きになりかけ、給湯が止まっていただけだ。給湯器が故障したわけではない。
「もう寝るからいい。いいと言ったらいいッ」
「さっさと入りなさいッ」
入る入らないでケンカになった。けっきょく、焚かずに蛇口から注いだぬる過ぎる湯舟には入らず、シャワーだけ浴びて出る。二月の末である。いくらお湯の温度を上げてもシャワーではガタガタ震えるばかりだ。ぼくが意固地になったわけではない。浴槽を覗いたら、いったい何か月洗っていないのだろう、湯垢と入浴剤の粉末が混じり合った赤黒いヘドロのような堆積物が指で掻き取れるほどこびり付き、鼻をつまむほど臭くて汚いのでさすがに入る気になれなかったのだ。気の毒なので母には言わなかったが、とにかくこの家はどこもかしこも汚い。臭い。メシも食えたものではない。真冬なのにゴキブリが這い回っている。とても暮らせない。わけてもこの偏屈なボケ婆アとは、とうていつき合っていけない。
全身を圧し潰されるような疲労感がぼくを囲繞した。父を襲った突然の奇禍と人格崩壊。これまで何度も泊りには来ているものの、住んだことのないこの家で、いきなり始まったボケ進行中の母とのいつまで続くとも知れない二人暮らし。いままでは父が母を看ていた。夫の役割はその息子が担わなくてはならない。本人には看られるつもりなど、これっぽちもないようだけど。
父母とも八十を越えているのだ。いずれ遠からず来るとは思っていた。だがその「いずれ遠からず」がいつまでも続くという、先送りの構図になっていたのだ。それがいま起きた、一気呵成に。心の準備も何もないまま襲ってきた現実を受け止める力を、ぼくはまだ持てなかった。いつもこの家を訪れるとそうするように、二階にある六畳の洋間へ上がった。そこには、ぼくが十代から二十代前半にかけて使っていたベッドが置かれてあった。綻びてあちらこちら中綿が飛び出しているが、この家でなじみのある数少ない家具だ。以前一緒に住んでいた家からこの家へ両親が引っ越すとき、捨てずに運んでもらってよかった。くそおっ。壁や机をドンドンと拳で叩いた。がその腕もたちまち萎えた。ぼくはベッドにヘロヘロと崩れ落ちるように横たわると、たちまち眠りに落ちた。
四.
父が入院して三日が経った。
命脈は保ちえたとしても、長期化はまず避けられない。いつ容体が急変してもおかしくない父を放って職場へ戻ることはできない。母もこのまま独りにしていてはあぶない。つい先日のことだ。「外へ出歩こうとしてコケよったんだ」と父がいう。玄関先で顔を強く打ったらしい。節分の日に行方不明騒ぎを起こした、あの時からわずか数日後のことだ。会いに行った時には顔じゅう青アザだらけになっていたが、コケた時は血だらけになって大童だったらしい。どうしてまた。訊いても本人は「フフフ」と笑うばかりで何も言わない。「往生したわ」と父。その父があとを追うように同じ事態に陥ったのだが、こちらは不運にも打ちどころが悪かったというわけだ。
ぼくは会社を休職し、暫くのあいだ鎌倉へ住まう決心をした。
日曜日の夜、ぼくはいったん浦和の社宅へ戻り、当面必要な荷造りを終え月曜の朝、大宮の勤め先で引継ぎを済ませると鎌倉へ向かった。ところが家に着くと玄関の鍵がかかっておらず、母の姿がない。その朝も心配になって電話を入れ、S病院には一緒に行くから家で待っているようにと念を押したはずだった。がその後、携帯に着歴と伝言メモが残っていたことにぼくは気づかなかった。「あのねえ、看護師さんが九時過ぎに迎えに来るから」はて、訪問看護でもないかぎり看護師が家まで迎えに来るはずはない。寝ボケているのか。鎌倉へ向かう途中で幾度も電話したが出ない。まさか、いつかのように倒れてやしないか。胸の鼓動が高鳴るのをおぼえながら家に着き、病院へ確認の電話を入れると、通話履歴は残っていないという。大規模病院はそのあたりしっかり履歴管理を行っているからまず間違いはない。さては一人で病院へ向かったか。いまの母に行けるはずがない。汗が吹き出してくる。こんな時ほど冷静にならなくては。警察へ連絡する前に、まず可能性のありそうな行き先を洗ってみるか。
そういえば、と思い至ったのが、デイサービスを請け負っているDという介護施設だった。近くの図書館の隣ということもあって時々通っているんだと、以前父から聞いた気がする。ググって連絡してみたらビンゴ! 毎週月曜の朝、施設のスタッフが車で母を迎えに来る手筈になっていたらしい。当日の朝「これから伺います」と事前連絡をくれた施設の担当者を、S病院からのお迎えと勘違いしたようだ。覗いてみると、十数名の高齢者たちがパイプ椅子を輪にならべて皆でわいわいがやがやワークの最中だった。お隣さんと楽しそうにおしゃべりしていた母は、つかつかと入って来たぼくの姿を認めた途端にしかめ面になって、
「あんた、何しに来たの」
面倒だからそのまま夕方まで預かってもらい、一人で病院へ赴いた。
ICUから一般病棟へ移されていた父は、看護師に強引に起こされ寝呆けた様子だったが、昨日とは打って変わって、表情に落ち着きが出てきていた。看護師が身体を起こして車イスに乗せ、小用を足させてから戻ると、ベッドへ横にはならず車イスに座ったままぼくと向かい合う恰好になった。真っ直ぐこちらを見つめる父の眼差しには力があった。思わずホッとさせられる。ここが何処か、いまは何月何日何曜日の何時か、そして入院に至った経緯をぼくは説明した。本人はおぼえていなかったが、話に耳を傾けながらそうかそうかと頷く。
「しかしだ。オレがこうなってしまうと、お前がシズ子の面倒を看なくちゃならんな」
頭のてっぺんからつま先まで、自身の姿をさっと鳥瞰するような目の動きをして、
「……これでは当分元には戻れんな」
これほどの自己認識能力を示すとは、おどろくべき回復ぶりである。
横になりたいと言うので看護師を呼び、ベッドへ寝かせてもらう。すると目を瞑りながら訥々と話しはじめる。話すテンポが入院前と比べ、三倍スローモードのように遅くなった。
「お前、今の状態でシズ子と二人だけで暮らすなんてムリだぞ」
おっ、わかってるじゃん。
「オレが生きていたとしても、暫くはお前が切り盛りしなくちゃならん。続かんぞ」
「そう思うなら、早く良くなってよ」
「お前、エミ子とは今どうなってるんだ」
「どうって、藪から棒に何 ……とっくに別れたよ」
「別れた? だったらお前再婚しないか。紹介したい人がいるんだ。山形出身でな、それは気立てが良くてなァ、歳はお前とそう変わらんが、美人だぞ。〇〇課にいてな」
「オレがか? いきなり何かと思えば」苦笑いした。
「明日お前来るか。来るときにオレのスマホを持って来てくれんか」
相手に有無を言わせない強引な話の運び方は以前と何ら変わりない。話しぶりも筋道立っている。喜ぶには早いが、前日までの父とは見違えるようだった。
翌日の午後は、母を連れて行った。
病室は五階にある。玉縄の丘陵に遮られなければ、富士山や丹沢の山嶺が目の前に臨めたろう。眼下には大きなショッピングモールの駐車場が見える。平日でも空き待ちの車列が続いているところを見ると、だいぶ賑っているようだ。四人部屋だった。あとの三人の患者はいずれも父以上に重篤な状態と見受けられるあたりは、なるほど脳外科の担当エリアだなと思わせる。眠っていた父を母が声をかけて起こす。ほんの一瞬虚ろな眼を泳がせたが、すぐに判った様子でぼくを認めると、
「スマホ持って来てくれたか」
おぼえていたな。よしよし。デイパックから取り出して渡すと、ベッドに横たわったまま手に持って弄り始めた。株価を見たかったらしい。銘柄ごとにショートカットを貼ってある。ついでに父の寝室の枕元にあった黒い小さなアナログの目覚まし時計をはいこれ。と差し出して横に置いたら、とても喜んだ。
倒れた拍子に頭を打ち付けた瞬間を目と鼻の先で目撃していた母が、その様子を伝えると、
「……覚えとらんな」
「それでねあんた、頭から血をいっぱい流しててねぇ、それでお隣さんに救急車を呼んでもらったのよ」
いまの母がこれだけ饒舌になるのは珍しい。ぼくが話しかけたって、いつもうんともすんとも言わないのに。
「そうかそうか、えらい目に遭ったもんだなァ」
状況認識はそれなりに出来たかにみえた。ところが、
「で、明日には退院できるんだろ」
「えっ、た、退院」
「お前、オレのサイフ持ってないか。支払いに行かんとな」
「支払いって、 誰が」
「入院して二日目だろ」
治癒にはほど遠そうだった。
五.
その夜の九時頃、家の固定電話が鳴った。
こんな時間にかけてくる電話にロクな用件はない。母が出た。応答がない。ぼくが代わる。もしもし。受話器の向こうに一瞬、底の知れない闇が広がる。続いてモゾモゾという微かな人の気配が帳を破ったと思ったら、
「アツヒトか」
父だった。生きているひとに対して悪いが、その声は病院からではなく、冥府からぼくたちの未来を喰らおうと迎えに来た漆黒の使者のように思えた。
「明日、来てくれないか」
起き上がって固定電話のある場所まで歩けるはずはない。ベッドからじぶんのスマホで掛けたのだ。独りきりで寂しいのか。何か気にかかることでもあるのか。
入院してはや一週間が経っていた。
午前中のリハビリで疲れたらしく、うつらうつらとしていたが、昨夜電話をかけたことはおぼえていた。穴の開くまでぼくの顔を見つめていたが、「……いや。いいんだ」と引き取り、何か考え込む様子だった。
点滴の管に足を繋がれた状態だが、この日から病院食も出された。やれ脇腹が痛い、腰が痛い、食事が不味い、日夜手足を縛られオレは囚人かとぼやき続ける。ベッドからの転落事故を防止するとの理由で固定された左手首には、囚われの身であるという意識をイヤでも駆り立てるように〝ハギノヒデトシ A型 87歳〟とマジックペンで書かれた高密度ポリエチレン製の、一度閉じたら素手では外せない患者用識別バンドが巻かれている。
「オレはこのままこんな状態で死んで行くのかもしれん」
自らナースコールすると、痛み止めのロキソニンを2錠もらって、吸い飲みで呑んでいる。そうそうこれ。リュックの中から手のひらサイズの手帳とメモ帳二冊とを取り出して渡すと、「おう」と喜ぶ。手帳には、倒れる前日までの日々の行動記録が簡潔に記されていた。メモ帳の片方には、保有していた複数の株の値動きが細かい字でびっしりと書き込まれている。もう片方は俳句の創作ノートのようだった。いずれもB6版の見開きに、綺麗な細かい字で整然と書かれている。このひとの性格がよくあらわれていて感心する。ところが本人には頁をめくるだけの力がない。テレビでも点けようか。「いらん」観ないの? 「観ない」ちょっと待ってて。階下のコンビニで新聞を買ってきて渡すと、スポーツ欄をめくっていたがすぐに脇へやってしまう。「寂しいよ」
理学療法士のお姉さんがやって来る。今日からリハビリがはじまったのだ。
「グーパーしましょう」と始まって、親指から順に一本ずつゆっくりと指を折る。じぶんの名前・いまいる場所と曜日を訊かれる。ムッとした顔をしながらも、不承不承答えている。紙に描かれた簡単な図形を幼児のお絵描き練習帳のようにペンでなぞる。じぶんの名前を書く。たどたどしいが、字はぼくより上手である。元気な父だったら、オレをバカにするなとペンを投げつけて拒否していただろう。続いて歩行訓練だ。はいメガネ。掛けてやったら、眼差しは精悍と言っていいほどだ。車イスに乗って廊下へ出ると、手すりにつかまりながら一〇メートル足らずの距離を一歩ずつ歩かされる。後ろからお姉さんが支える。見るからに辛そうで、持てる力を絞り出すように足を踏み出し、踏み出ししている。誇り高いひとが手足を縛られオムツをさせられ、不自由な身体を酷使させられ黙って屈辱を耐え忍ぶ姿は、母のおどろくべきマイペースぶりとガンコぶり、何を言われても枉(ま)げることなくいなす態度、まるで開き直っているかのようなボケぶりと、あまりに対照的だった。
その母は病室のイスから転げ落ちそうなほど上半身を折り曲げコックリしている。今日はこれまで。じゃまたね。手を振ると頷く父。
もう三月だった。家の庭の椿たちは零れんばかりに紅白の花弁を誇っていた。
翌日も変わらない。
目を閉じて眉間に皺を寄せ脇腹が痛い、腰が痛い、頭が痛い、身体中が痛い、夜になると痛みが嵩じて堪え切れない……愚痴が止まらない。
「もう良くなるとは思えない。何をする気にもなれん……このまま死ぬよ」
ベッドに横たわって眼を瞑ったまま、とぎれとぎれに語る父。三月八日から春場所が始まるよ、と好きな相撲の話に水を向けると、
「今日は三月四日だから、あと四日だろ」
ちゃんと分かっている。幕下の力士たちの名前までじつによく知っていて、それぞれあいつは成長株だとかこいつは続かないなどと新聞もTⅤも見ずに寸評まで加えるので感心する。ところが一緒に連れてきた母、つまり本人の妻のことを「おいカズ子」と呼び違えた。「カズ子」って誰のことだ。親類縁者にもそんな名のひとはいない。女癖が悪いという噂は聞いたことがないが、しゃれにならないんじゃないの。
正しくは「シズ子」という当の母は母で、せっかく来たというのにイスへ座ったままコックリしている。
「シズ子を残して、お前に看てもらうわけにはいくまい。やはりオレが看ないとな」
そんな頼もしいことを言ったりもするのだが。
母の今後でもぼくの離婚話でも相撲の話題でも何でもけっこう。オレが元気にならにゃアカン、というモチベーションがいまの父には何よりの薬になる。
帰ろうとするぼくに、
「また来てくれな」
(第01回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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